第26話 あの日の約束 [対価]
「ねぇ、小学生が飛び降り自殺したって聞いた?」
「小学生っていっても、学校には行ってなかったんでしょ?」
「そうらしいね」
「あのビル、毎日横通るんだよー、時間が違ったら見ちゃったかと思うとさー」
「えー、じゃあ今日も通ってきたってこと?」
「ううん、それがあってからは道一本変えたー」
「それがいいね」
下駄箱に靴を入れて上履きに履き替えながら、女生徒がそんな会話をしている。
会話が聞こえてしまった怜二は、気持ちが急降下していくのを感じていた。
あれは自殺なんかではない。
誰の目にも映らなかった女が、少女を唆したのだ。
『全ての人間を救うことなどできぬぞ、怜二』
「分かってます」
『その身体にはもう、何も補充されぬのだから』
「終わりが近いことも分かってます」
『ならよいが』
和斗の左手の印は、噂が広まったことによって以前よりも効力を増していた。
左腕から感じられる水神の力の濃さが、そのことを物語っている。
通学路で起こった痛ましい事件のことは、とりたてて教師の口からは語られなかった。
ただ、生徒たちの間で話題に上るだけ。
授業が始まれば、それすらも消え去っていく。
二限目が始まって少しして、それは起こった。
「窓の外を見るなっ!」
「きゃああああ!」
「うわぁっ!」
突然、和斗の声が教室内に響き渡った。
和斗は自分の机を見つめたまま、左腕を押さえている。
外を見るなという声に、逆に外を見てしまった生徒もいた。
彼らは悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちたり立ち上がったり、教室内は騒然となった。
「落ちた! 誰かが落ちたの!」
外を見てしまった彼女は、血の気の引いた顔でそう言った。
他のクラスでも同じように騒ぎになっていて、確認が済むまで教室から出ないようにと言い放ち、教師が出ていった。
康平が和斗の元へやってくるが、その顔は真っ青だった。
「康平、お前……」
「ごめん……見ちゃった……」
「いや、謝ることじゃねーけど」
茜と怜二も近くに寄ってきて、心配そうに康平を見ている。
他の生徒たちも、窓の外を見てしまった生徒を慰めるようにいくつかの机の周りに人が固まっている。
「腕が痛かったってことなんだよね?」
「おう、いきなり水神さまの『窓の外を見るな』って声が頭に響いてきたかと思ったら、左腕が痛くなった」
「すごい痩せた女子だった。髪がぼさぼさで、元気がないみたいに見えるのに、目だけがものすごい迫力で見開かれてて、……笑ってた。目に焼き付いて離れないよ……」
「うげぇ」
「でも、他の人たちにも見えてたってことは幽霊じゃないってことだよね? どうして和斗くんの腕が痛むんだろう」
茜が首を傾げる。
怜二は、その理由に予想が付いていた。
予想が間違っていることを願いながら、窓の外を見てしまった生徒たちを視界に収める。
康平をはじめ、見てしまった生徒たちには真っ黒な腕が無数に絡み付いていた。
棒切れのようなその腕は、細い見た目に反して強く康平たちの精神を締め付けている。
サイレンの音が遠くから近付いてきて、担任が教室に入ってきた。
今日は下校するようにと指示が出て、それぞれが帰り支度を始める。
全員裏門から帰るように言われ、準備ができた生徒から教室を出ていった。
「とりあえず、今どうにかなるって訳じゃないんだな」
「うん、なんともない」
康平は自分の身体に怒っている異変に気付かない。
その異変の片鱗を目の当たりにするのは、夜になってからのことだった。
夜、康平は新しい悪夢にうなされた。
目の前で何度も何度も女生徒が屋上から落ちていく。
ぐしゃりと地面にぶつかった女生徒は、首や両の手足をあらぬ方向に曲げ、血液や体液を撒き散らしながら立ち上がる。
飛び出た目玉が康平を見つめている。
顔を逸らしたいのに逸らせなくて、ようやく瞬きができた次の瞬間には彼女の姿は屋上に戻っている。
そしてまた地上に落ちて、それが延々と繰り返される。
目覚めることも許されない。
康平は朝、目覚まし時計が起床を促すまで一度も目覚めなかった。
翌日は臨時休校になったと連絡網で伝えられ、昼過ぎに康平の家へ三人がやってきた。
一目見て分かる康平の憔悴具合に、三人はそれぞれ心配げに表情を歪める。
「他のやつらも、夢を見たって言ってた」
「聞いたの?」
「電話した。おれがあんなこと言うからだってキレてたやつもいた」
「和斗のせいじゃないよ」
「うん……でも、確かにさ、言われたらとっさに反応して見ちゃうってのも分かるから… …」
「私は、見るなって言ってもらえたから見ずに済んだよ。それまではなんとなく外見てたから、危なかった」
「そっか」
「うん」
和斗は、連絡先を知っている相手に電話を掛けまくり、飛び降りた生徒が三年生の女子だということを教えてもらっていた。
「いじめられてたんだって、クラスメイトに。痩せてたのは家庭の事情らしいんだけど、その家庭の事情込みでいじめられてたらしい。でも高校受験があるから学校には来てたって」
「先生は知らないの?」
「先生の目に付くようなことはやらないんだってよ。持ち物をボロボロにするとか、怪我をさせるとかはなくて、基本は無視。放課後、万引きさせてたって話は聞いたけど、どこまで本当なのかは分かんねー」
怜二は黙ったまま、康平を見つめていた。
康平にまとわりつく手の数が増えている。
これは、呪いだ。
彼女が自分の命と、有り余る恨みと引き換えに無差別に施した呪い。
彼女の恨みは、いじめた人間だけではなく、いじめを知っていて気付かぬふりをするクラスメイト、何も知らずに綺麗事を口にする教師に対して積もっていった。
最終的に、普通の学校生活を送っている全ての生徒が羨ましく、恨めしくなってしまった彼女は、自分で自分を殺し、その際に目が合った者全てに呪いをかけたのだ。
彼女をいじめた人間は、全員が強制的に彼女と目を合わされた。
それ以外の被害者は通り魔にあったようなもので、それぞれに何か原因があるわけではない。
ただ、運が悪かっただけ。
呪いは精神を蝕む。
直接的な原因を生み出し、特に呪いの濃度が高い者たちの夢では彼女はただ飛び降りを繰り返すだけではない。
死ぬことのない、覚めることのない夢の中で、彼女に蹂躙され続ける。
自業自得で呪われた者たちについては無視できた怜二も、巻き込まれた生徒たちを無視することはできなかった。
康平だけではなく、クラスメイトも、先輩も後輩も、見知った人間が何人も巻き込まれてしまったのだ。
『お主の救いたい者を全て救えば、終わりじゃぞ。むしろ足りておらんくらいじゃ』
「いいです。これで、終わりにします」
『ふむ、では最後にサービスしてやろう。対価は十分にもらったし、他のやつらにも楽しませてもらったからな』
私が怜二に力を分け与えると、怜二の身体が存在感を増した。
部屋の中、和斗と茜の後ろに立っていた怜二の姿を、康平の目が捉えた。
「れ、怜二?」
目を見開き、怜二に駆け寄る。
和斗と茜が振り返り、やはり驚いた顔をした。
縋り付くように伸ばされた康平の手は、怜二に触れることはなかった。
怜二の身体をすり抜けてしまった康平は、バランスを崩して床に手を付いた。
「康平くん、和斗くん、約束守ろうとしてくれてありがとう。康平くんのことも巻き込まれた人たちのことも、ぼくが助けます。それでぼくは消えてしまうので、もう、無理に幽霊に会おうとしないでいいんですよ」
「怜二、ぼく……」
「なんだよ消えるって」
「飛び降りた女の子は、強い呪いをかけたんです。康平くん一人助けるくらいならまだ大丈夫なんですけど、他にも大勢巻き込まれてしまっているので……ぼくね、神様に手伝ってもらって、死んでからもずっと二人のそばにいたんです。だから二人が怖いのに頑張って幽霊に会おうとしていたのも、茜さんのことも知っています。何もなくても、ぼく、一年ほどで力を使い果たして成仏するんですけど、それが少し早まってしまっただけで……」
茜は、自分の名前が出たことに身を震わせつつ、見たことのない付箋の字は目の前にいる少年の書いたものだったのだと納得していた。
「ぼく、本当は、生きていたころから幽霊とか、そういうものが見えていて、神様との繋がりもあったりして、だけど、二人と一緒にいられた時間が幸せで、だから、二人を守れる力があって良かったって思ったりして」
「絶対に消えちゃうの? 神様も助けてくれないの?」
「なんでもできるけど、やりすぎると世界が壊れてしまうんだって言ってました。ぼくが死んでからも二人のそばにいられたのは、死ぬ前に神様にお願いしていたからなんです。……あの時はあれが神様だなんて思ってなかったけど……」
“もしぼくが死んだら、できる限りでいいから、二人のそばにいられますように”
怜二の願いを叶えた私は、少女の姿で怜二と会うことにした。
家の中にいたアレが私だと知った怜二は驚いていたが、話せるならもっと早くに教えてほしかったと文句をこぼした。
肉体を持たない怜二は、新たに力を取り込むことができなくなった。
今までに溜め込んだ力を消費していくだけの霊体。
チャンネルが合えば康平たちにも見ることは可能なのだが、残念ながらそこまでの力は彼らにはなかった。
茜ともチャンネルは合わず、結局今が初顔合わせというわけだ。
「おれがマンホールに行くって言わなかったら、お前は死ななかったんだろ?」
「和斗くん……」
「おれ、おれが……う……怜二、ごめん……」
「和斗だけのせいじゃない、ぼくだって楽しみにしてて、あれがあんなに危ないモノだなんて知らなかった……ごめん、怜二……」
「ぼくこそ、そういうものが見えるって言えなくてごめんなさい……ちゃんと言っていたら、アレを無理やりなんとかしようとしなくたってよかったんです。危なくない心霊スポットだって分かってたのに、何も言えなくて……」
康平たちは泣いた。
バカなことをしたと理解していて、それでも謝る相手はもういなくて、止めることもできなくて。
"ぼくが幽霊になったら見付けて"
そんな果たされるかも分からない約束だけが宙に浮いていて。
けれど二人は間違いなく怜二に会おうとしてくれていた。
怜二は三人に少しだけ自分の力を分けた。
康平と和斗は、姿は見えずとも気配を感じることはできるようになるだろう。
茜は見たり感じ取れるチャンネルが増えたはずだ。
「それじゃあ、ぼく、呪いをなんとかしますね」
「怜二、ありがとう」
「また、会えるよな」
「生まれ変わりってあるみたいなので、来世で会いましょう」
「うん!」
「おう!」
『満足したか?』
「はい、ありがとうございました」
三人には私の姿は見えていないから、怜二がここに神様がいるのだと私を指差す。
私の姿が見られる生きた人間は、ただ一つ、あの魂の持ち主だけと決めている。
怜二が三人に笑いかけ、目を閉じた。
私が増幅した怜二の力が康平に巻き付いた呪いを打ち消す。
その呪いから糸を手繰るように他の被害者たちの呪いも消していった。
直接的な原因を作った生徒たちの呪いは、彼女に許される可能性を残すくらいに薄めることにしたようだ。
呪いのかかった全ての人間を辿り終えた時、怜二の魂は輪廻の渦に飲み込まれて、消えた。
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