第24話 幽体離脱 [月虹]

 彼女が自由に幽体離脱できるようになったのは最近のことだ。


 キッカケは授業中のいねむりだった。

 前日に発売された乙女ゲームにどハマりして夢中でプレイした結果、睡眠時間がほとんど取れなかったのだ。

 そして運の悪いことにその日は天気がよく、窓際の彼女の席はものすごく暖かかった。

 さらには、通常時でも居眠りを誘発する喋り方で有名な先生の日本史が五限目にあったのだった。


 給食を食べた後の、ちょうどいい満腹感。

 昼休みに机に突っ伏して多少の仮眠は取ったものの、そんなことで太刀打ちできるような相手ではない。

 彼女は五限が始まってものの五分ほどで夢の世界に旅立ったのだった。


 けれど、そこはいつもの夢の世界とは違った。

 今いる教室で、しかも日本史の授業中の夢。

 夢なのか現実なのか分からないくらいにリアルで、しかし彼女の身体は浮いていた。


 心地よい浮遊感に包まれながら、彼女は教室内を一周した。

 見れば寝ている自分もいるではないか。

 もしかしてこれが幽体離脱というやつか?と思った瞬間、自分の身体がさらに自由に動かせるようになった気がした。


 彼女の他にも、かなりの数のクラスメイトが撃沈している。

 それに気付いていないはずはないのに、教師は特に注意するでもなく、淡々と授業を進めている。

 その淡々とした喋り方がさらに犠牲者を増やしているのだが。


 彼女は試しに隣の教室を覗いてみることにした。

 黒板の横に貼られた今月の目標に頭を突っ込むように、壁に突撃してみる。

 彼女の目論見通り、身体は壁をすり抜けた。

 隣のクラスの後ろの壁から、彼女の上半身が垂直に生えていた。


 教室内を見回してみるが、当然のように彼女に気付く者はいない。

 数学の授業中で、黒板には彼女のクラスではまだやっていない公式が書かれていた。

 数学はどちらかといえば苦手な部類だったから、問題を解いている生徒たちの手元を覗き込んでみることにする。

 配られたプリントに書かれた問題が五問。

 今日の日付から数えて五人が当てられ、それぞれが答えを黒板に書きに行く。

 彼女の友人がその中にいた。

 友人は最後の繰り上がりを間違えるという凡ミスをし、バツを付けられていた。


 最後の問題の解説が終わろうとした頃、チャイムが鳴った。

 彼女は後ろから引っ張られるような感覚に陥り、次の瞬間、目を覚ました。


 日本史の教師が教室を出て行くのを待って、彼女は隣の教室の扉から中を見た。

 扉のガラス窓から見えた黒板には、友人の文字と、繰り上がりをミスしていることを教える赤い教師の文字が書かれていた。


「やば、ガチじゃん」


 彼女はそれから何度か、偶然幽体離脱した。

 条件は毎回違っていて、徹夜した翌日もあれば、たくさん寝た翌日もあった。

 夜、普通に眠りに就いて、ふと目が覚めたら天井が目の前にあったりもした。

 彼女の意思で離脱できたことはなく、むしろ幽体離脱しろ!と思うとできなかった。


 ネットで幽体離脱のコツを検索してみたりもしたが、自分の体験とはかなり異なっていた。

 だが、授業中に寝ていたはずなのに、突然起こされて当てられたときに何故か授業内容をしっかり覚えていて答えられた、という話があって、それは似ているのかもしれないと思った。

 身体が離脱のコツを掴めば、自分の意思で好きに離脱できるという文字を見て、書かれていることをいろいろ実行してみる。


 入眠してから四〜五時間後に一度目覚めるため、変な時間に鳴る目覚まし時計。

 一人っ子だったために自分の部屋をもらえてはいたが、壁はそこまで厚くなく、隣室で眠る母に文句を言われた。


 なるべく音が響かないように時計を胸に抱いて眠ったりして、何とかやりすごした。

 何週間か続けたが一向に離脱できず、諦めかけた金曜日、ついに彼女は離脱することに成功する。

 はしゃぎすぎてすぐに目覚めてしまったが、その日以来、離脱したいなと思いながら眠れば離脱できるようになった。


 彼女はそれ以来、夜な夜な離脱しては空の旅を楽しんだ。


 偶然夜に離脱できた日は友人の家を訪ね、同じようにゲームに夢中になっている友人を背後からニマニマ眺めていた。

 次の日に「あのスチル最高やろ」といえば、「昨日はそのスチルのせいで眠るのが遅くなった!」と返されて、そのときアンタの後ろにいたんだよ、とは言えずにこっそり笑ったり。


 密かに気になっていた男子の部屋に入り込んで、彼女とのプリクラを発見して凹んだり。

 適当に浮遊していたらコンビニから出てくる担任を見付けて、ついていったら実家暮らしだし母親をママと呼ぶしで驚いたり。

 なかなかに楽しかった。


 その日は特に目的を決めずに、空に浮かんでいた。

 プールに仰向けに浮かんでいるみたいな感覚で、大気の流れなのか身体は勝手に流れていく。

 もし知らない場所に流れ着いてしまっても、自分の肉体と繋がっている部分を強く意識すると、自分の家に向かって進むことができることは検証済みである。


 しばらく浮かんでいると、何やら感じたことのない気配を感じた。

 嫌な感じではなかったので、そちらへ向かってみることにする。


 マンションの屋上に、少年が一人座っていた。

 何も考えずに正面から近付いてみると、完全に目が合ってしまって驚く。


「えっ、見えてるの?」

「み、見えて、ます」


 離脱した自分の姿を見ることができる人間などいないと思っていたのに。


 彼女は興味津々といった風に少年の隣に座り込んだ。

 少年は一瞬たじろいだが、結局何も言わずに彼女を受け入れた。


 てっきり少年も幽体離脱仲間だと思った彼女だったが、少年は離脱していないのだと言った。

 幽霊や人でないものが見える目を持っているから、彼女のことも見えるのではないかと。


「お化けっているんだ」

「お化け……というか、死んだ人が成仏できずに留まっていたり、あとは神様とか、大事にされている物に宿る魂だったりですかね」

「えー、すごいすごい! あたしには離脱してても何にも見えないんだけど」

「見えていると思いますよ?」


 少年はマンションの下の道路を指差した。

 電信柱の影が、色濃く見える真夜中。

 その影が、ぞるりと動いた。


「ひっ」

「見えました? あれは、死んだ人が成仏できなかったものですね。地縛霊というか……まぁ、あの人はあの交差点からあの交差点までの間の道路しか移動できません」

「そうなんだ……」

「それより外に出ようとすると、存在が維持できなくなってしまうので、少ししか追い掛けられないんです」


 タイミングよく、そこに通行人が現れた。

 携帯電話を弄りながら歩く青年は、電信柱の影に気付かない。


「あれ? 襲わないよ?」

「ああいうのは、自分と波長の合った人間相手じゃないと何もできないんです。一方的に何かしたとしても、何も感じないので意味がありません」

「へぇ……え、もしかして、あれが見えてるってことは、あたしがあそこに行ったら」

「襲われます」

「ぎゃーーー!」


 彼女は顔を歪めて頭を抱えた。


 幽体離脱中に、そんな危険があるだなんて知らなかった。

 知れてよかった。

 何も知らずにのこのこ近付いていって、翌朝死体としてベッドで発見だなんてつらすぎる。


「ありがとう……教えてくれて……!」

「いえ、気を付けてください。おねーさんはたぶん、かなり勘がいいので、嫌な気持ちになったらすぐにそこから離れるようにすれば大丈夫だと思いますよ。その姿の時でも、何も感じなければ影響はありませんし」

「うん……気を付けるよ……!」


 彼女はぐっと拳を握り、天に突き上げた。


「あ」


 空を見上げた彼女の瞳に、虹がかかった。

 虹、と呼んでもいいのかも分からない、白いアーチ。

 昼間とはだいぶおもむきの違うものだったが、美しい景色であることに変わりはない。

 月の光に照らされた白い虹が、恐怖に強張っていた彼女を解きほぐした。


「きれい」

「初めて見ました、にじ」

「ね、夜でも虹って出るんだね」


 少年は、虹を見上げて友人たちのことを思った。

 この景色を、一緒に見たかった。

 きれいだとはしゃいで、一緒に。


「おねーさんがいてくれてよかったです」

「なに急に! また会えるといいね」

「そうですね」


 彼女が少年に会うことは、もうなかった。


 

 

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