第18話 柿の木は知っている [旬]

 その家の庭には立派な柿の木が生えていた。

 彼の生まれた時にはすでに美味しい実の成る木であり、いつからそこにあるのかなど考えたこともない。

 秋口になると毎年熟した柿を収穫して家族で食べていた。

 

 テーブルを囲み、柿を食べる。

 そんな当たり前の光景が、幸せだと思えていた頃に戻りたい。

 少し復習しただけでテストでいい点が取れて、みんなに褒められていた頃に。


 順風満帆だったはずの人生に陰りが見えたのはいつからだっただろう。

 高校受験のための勉強を始めてから?

 高校受験に失敗して滑り止めの私立に通うようになってから?

 その高校ですら思うように成績が伸びず、さらにいじめられるようになってから?


 分からない。

 唯一分かっているのは、今の自分がろくでなしということだけ。

 高校を中退し、働きもせず、親のスネをかじり続けるニートだということだけだ。


「お前はいつまでそこに閉じこもっているつもりなんだ! いい加減にしろ!」


 うるさい。

 うるさい。


 いじめが原因で精神的に壊れかけた彼を、家族は優しく受け入れていた。

 初めのうちは。


 その状況が何年も続くうち、耐えきれなくなったのが祖父だった。

 もともと厳しい人だったというのもある。

 子供が遊んだ野球ボールが庭に飛び込んできて、それを取りに来た子供たちを怒鳴りつけるくらいには。

 それでも、実の孫には思うところがあったのか、多少の粗は許容していた。

 それが限界を迎えたのだ。

 二階にある彼の部屋の扉を叩き壊さんばかりにノックし、甘えるなと怒鳴り散らす。


 彼はますます自室に篭るようになり、ついに諦めたのか、いつの頃からか祖父の突撃は止んでいた。


 それから一年ほど経ち、祖父がボケた。

 話している相手の顔が分からなくなったり、何年も前の話を急にしたり、一度は家から出ていってしまって、捜索願を出したこともある。


 ボケた祖父は再び彼を責めるようになった。

 父も母も働きに出ているため、昼間は祖父と二人きりで家にいることになる。

 扉を叩く音に怒鳴り声、日々激しさを増す祖父の行動に、昼夜逆転していた彼の睡眠は妨害され続けた。

 かといって、日課のオンラインゲームは辞められない。

 せっかくランキング上位に名前が乗り、有名なギルドの末席に名を連ねたのだ。

 今ログイン時間が減ってしまったら、貢献度がキープできない。


 自分よりゲーム経験の短い連中が彼のレベルを、彼の貢献度を凌駕していくことが耐えられなかった。

 ゲームの中でまでいじめられたら、ハブられたら、そう思う度に祖父への憎しみが募っていった。



「出てこい、穀潰しが! 働かざるもの食うべからず、お前のようなやつに食わせる飯はない!」

「うるせぇ!!!!!」


 もう我慢できなかった。

 彼はベッドから立ち上がり、ぶくぶく太ってしまった巨体を揺らしながらほとんど扉に突進する勢いで向かっていった。

 鍵を開け、外開きの扉を思いっきり開け放つ。

 祖父に扉が当たって、痛がればいいと思った。


「ぐっ」


 ガン、ゴトッ


 廊下に出た彼の目の前の壁には、祖父の頭の皮膚が釘に引っかかっていた。

 床に転がる祖父の後頭部から出た血液が見る間に血溜まりを作って、彼の顔から一気に血の気がひいた。


「おい、嘘だろ」


 何度確かめても、祖父は目を開かなかった。

 殺した。事故だ。でも、祖父は。


 込み上げる吐き気にトイレに駆け込み、胃液を吐き出した。

 口内に広がるピリピリとした酸味が気持ち悪い。


 どうしよう。

 どうにかしなくては。


 思考がぐちゃぐちゃになり、呼吸がままならない。

 必死に首を掻き毟って酸素を取り込むと、彼は涙と鼻水ででぐちゃぐちゃになった顔を服の袖で拭った。


 とりあえずどこかに隠さなくては。


 幸いなことに、祖父は以前にも姿を消したことがある。

 数日はそれで誤魔化せるだろう。

 時間稼ぎをしている間に、何かいい方法を考えるしかない。


 どこに隠そうかと考えた結果、柿の木の根元に植えることしか考え付かなかった。

 あの柿の木はこの家が立つ前からあそこにあったらしい。

 柿の木を囲むように塀を立てて代々大事にしてきたと。

 そんなに大事な柿の木であるならば、掘り起こされることもないだろう。

 庭の塀は高く、今の時間であれば人目もないはずだ。


 彼は祖父の頭を使い古したタオルケットで包み、引き摺って階段を降りた。

 祖父の身体は想像より小さかった。そして細かった。

 もっと大きくて怖いものだと思っていたのに。


 柿の木の傍に祖父を転がし、納屋から持ってきたスコップで穴を掘る。

 掘り起こした跡が分かりにくい方がいい。

 彼は塀と柿の木の間の地面を必死になって掘った。

 運動不足の身体が重い。

 呼吸が荒くなり、汗が吹き出てスウェットが湿る。


 何とか祖父が横たえるほどの穴を掘ることができて腕時計を見ると、母がパートから帰る時間が迫っていた。

 慌てて祖父を穴に転がし、土を被せる。

 近くの植木から落ちていた葉っぱをかき集めて掘り起こした跡を隠し、スコップを片付けて二階に急いだ。


 血溜まりを部屋にあったタオルで必死に吸い取り、染み込んでしまった血液を誤魔化すように、床板に広げて馴染ませた。

 元々の床板がかなり濃い茶色だったため、何とか馴染んでくれたように思う。

 吐きそうになりながら壁にぶら下がる祖父の皮膚をタオルで包み、血塗れのタオルと一緒にコンビニ袋に突っ込んだ。


 玄関の扉が開く音がして、心臓が跳ねる。

 慌ててビニール袋を押入れの奥に押し込み、部屋の扉を閉めて鍵をかけた。


「なんで鍵が開いてるのかしら。ちょっとー、おじいちゃーん?」


 母の声が階下から聞こえてくるが、それに答える声はない。

 階段を上ってくる音がする。

 どうやら母は血溜まりの痕跡には気付かなかったらしく、扉が控えめにノックされた。

 

「ねぇ、おじいちゃん知らない? どこにもいないのよ」

「し、知らねぇよ!」

「そうよねぇ、ごめんね。今日の夕飯は炊き込みご飯と豚汁よ。また後で持ってくるわね」


 心臓がバクバクとうるさい。

 声が裏返ってしまったが、それはいつものことだから怪しまれることはないだろう。

 あとは祖父がいなくなってしまったということにできれば。


 死体遺棄についてネットで調べようかと思ったが、検索履歴に残るのが嫌で調べられなかった。

 祖父の死体を引き摺っていた時の感覚が蘇って脂汗が浮かぶのを振り切るように、彼はゲームにログインした。


 ゲームをプレイしている内は、リアルのことを忘れられた。

 見た目を重視して作ったキャラで好青年を演じてロールプレイしていると、まるでそっちの方が本当の世界のように思えてくる。

 思い込もうとしているだけなのだけれど。


 深夜三時過ぎに一度休憩し、夕食を食べる。

 冷めたご飯を温めることもせず、手早くかき込むと、またすぐにゲームに戻った。


 翌日、母が念のために祖父がいなくなったことを警察に相談してきたと言った。

 前にいなくなった時は三日ほどで一人で帰ってきたため、今回も数日は様子を見ましょうということになったと聞いて、安堵した。


 祖父の死体をどうすればいいか、いいアイデアは浮かばないままだった。

 父も母も庭いじりをすることはないし、したとしても伸びてしまった植木の剪定をするくらいだろう。

 柿の木と塀の間に入り込む姿は見たことがないし、変に掘り起こして別の場所に捨てに行くよりも安全なのではないかと思えた。


 またゲームに没頭し、深夜に夕ご飯を食べる。

 小皿に乗った柿を見て、鳥肌が立った。

 切られた柿から覗く種が、祖父の顔に見えたのである。


「ひっ」


 そんなはずはない。

 そんなはずは。


 もう一度柿を見ると、何の変哲もないただの種だった。


 押入れの奥に突っ込んでいたコンビニ袋を引っ張り出し、そこに柿を突っ込む。

 生臭さが立ちのぼり、数回えずいた。


 寝静まった家をこっそりと出て、ゴミ捨て場に向かう。

 何個かすでに転がっていたポリ袋の内、中身の少ない物を開き、その中にビニール袋を突っ込んだ。

 念入りに結び、家に戻る。

 何度も何度も手を洗い、部屋に戻った。



 ゲームからログアウトして眠っていた彼を起こしたのは、インターホンの音だった。

 今家にいるのは彼だけで、無視を決め込もうと布団をかぶったが、インターホンは鳴り止まなかった。


「クソッ」


 どすどすと床を鳴らして玄関を開けると、そこには小学生の男女が立っていた。

 気の強そうな少年が先頭に立って、インターホンを鳴らしていたようだ。


「何の用だ」

「あの、すみません、庭にボールが入っちゃって、取りに入ってもいいですか」


 庭に。

 反射的に「ダメだ」と答え、自分で庭に行く。

 庭の真ん中に転がるサッカーボールを拾って、持っていってやった。


「ほら」

「ありがとうございます!」


 少年の後ろに立っていたもう一人が、「こわいおじいさんじゃなくて良かった」と胸をなで下ろしている。

 隣にいた少女が、安堵した少年の耳に何かを呟いた。


「えっ? そうだけど、どうしたの」


 驚く少年に、少女がまた耳打ちする。

 少年は目を細めるようにして彼の背後を見ているようだった。

 彼は訝しげに自分の背後を見て、首を傾げた。

 そこには家の玄関があるだけだった。


「おじいさん、亡くなったんですか?」


 少女が聞き辛そうにそう言った。

 彼は動揺し、言葉にならない声を発した。

 必死に表情を取り繕い、「一昨日からいなくなったんだ。徘徊だよ、ボケてるから」と何とか答える。


「そうですか……その……おじいさんに、優しくしてあげてください」


 小学生たちは頭を下げ、走り去っていった。

 少女が少年たちに「あの人にすごく怒ってた」と言っているのが小さく聞こえ、彼は崩れ落ちた。


 柿の木が、風に揺れていた。

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