第15話 大奈落の影 [おやつ]
康平たちは社会科見学に来ていた。
担任が黒板に書き出したいくつかの候補の内、一番興味のある劇場を選んだのだ。
康平がそこがいいと言うと、和斗たちもそれに便乗した。
彼らは別にどこだろうと良かったようだ。
見学に際して見学のしおりが配られ、集合時間や持ち物などが書かれている。
おやつは三百円までと書かれていて、小学生じゃないのだからと笑った。
ちなみにお約束の「バナナはおやつに入りますか」という質問が飛び出したことで、康平たちの担任が「バナナはお弁当のデザート」派だったことが判明した。
当日はあいにくの雨で、屋外での見学が多い組はハズレだなと言って自分たちの幸運を喜んだ。
劇場の正面入り口前に集合し、茜も含めて四人で固まって行動する。
その劇場にはいくつもホールがあり、それぞれが異なる使い方をすることができる。
地下二階、地上四階立ての建物の中には、ホールの他にも会議室や、練習室などがたくさんあって、一回地図を見ただけでは目的の場所に辿り着ける気がしなかった。
劇場の地下には大きな駐車場が広がっており、そっちも停めた場所をしっかり覚えておかないと、迷子になってしまうのではないかと思われた。
劇場は一般の人たちに向けて貸し出されており、その日は一番大きなホール以外はどこも利用者がいるのだそうだ。
利用する人たちの邪魔をしないように、静かにたくさんの部屋を回る。
ダンスの練習をしている人、お芝居の稽古をしている人、ピアノや楽器の練習をしている人、色々な人がいた。
中には康平たちが見学に来ている生徒なのだと知って、話しかけてくる人なんかもいた。
お客さんを呼んで本番をやるんだよと笑う人たちは、それぞれ輝いていた。
良かったら見にきてと言われて渡されたチラシの中で笑うお姉さんと、目の前のお姉さんはまるで別人だった。
「そういうのは、思っても口に出しちゃダメだぞ」
「はぁい」
ぐるりと劇場内を簡単に一周し、劇場の中の憩いの広場で休憩を取ることになった。
ベンチやテーブルが並び、どこからか穏やかな音楽が流れている。
憩いの広場はガラス張りの中庭や回廊に面していて、晴れている日はもっと綺麗なのだと思えた。
持ってきたお弁当を食べていると、康平の服の裾を茜が引っ張った。
隣に座る茜に何事か尋ねると、リュックの中身は無事かと聞かれる。
首を傾げながらリュックの中身を確認すると、入れておいたはずのおやつがなくなっていた。
「え、おやつがない!」
茜が言うには、何か変な気配がしたのだと。
姿は見えなかったが、康平のリュックが少し動いた気がしたらしい。
せっかく母がみんなで分けなさいと言って持たせてくれたパウンドケーキがなくなってしまった。
そう言うと、他のみんなもしょんぼりとした表情になった。
「また作ってもらうから、今度遊びに来て」
「わ、たしも、いいの?」
「うん、別にいいよ」
「……ありがと」
ふいと康平から目を逸らす茜を、和斗が少し不機嫌そうに見つめていた。
休憩が終わり、一番大きなホールへ向かうことになった。
赤い絨毯の敷かれたホワイエを通り、重厚な扉を通って客席に入る。
三階席まである客席は、とても広かった。
そして客席に負けず劣らず、そこから見える舞台も広い。
客席の階段通路を通って、そのまま舞台上まで上がって行った。
劇場の職員さんが出てきて、舞台や客席の説明をしてくれる。
プロセニアムアーチというものが客席と舞台を区分けしていて、そこには緞帳とオペラカーテンがあった。
職員さんが首から下げているインカムに向かって何かを言うと、ゆっくりとしたスピードで緞帳が降りてきた。
そしてまた飛んでいく。
大きな緞帳が丸ごと飲み込まれてしまうくらいに、天井が高いのだ。
その先にはバトンとブリッジと呼ばれる舞台機構があった。
ブリッジと呼ばれた大きな橋のようなものには照明がたくさん吊られていて、舞台上を照らしていた。
バトンはそれに比べると地味で、ただの一本のパイプだったが、そこには色々な物が吊られるのだそうだ。
袖幕や一文字幕といった様々な用途の幕が吊られたり、舞台装置や照明、スピーカーなんかも吊ることがあるのだそうだ。
人を飛ばす装置なんかも吊るらしい。
それを聞いて和斗の目が輝いていた。
雪を降らせたり、雨を降らせたり、演出家と呼ばれる人たちの要望に応えて、出来る限りのことをするのだと職員さんが話す。
劇場見学に参加していた生徒の何人かは、前にこの劇場で行われていたお芝居やダンスの公演を観にきたことがあったらしく、あの時のあれは〜……といった具体的な質問をしてはメモを取っていた。
社会科見学のあとは、各グループで感想や初めて知ったことなんかをまとめて発表しなくてはならない。
康平たちは他の生徒が一生懸命メモを取るのを見て、慌てたようにメモを取った。
客席から見えていた舞台の外にも、袖と呼ばれる空間があった。
そこには様々な道具が置かれていて、その時々に行われるイベントによって、使ったり使わなかったりするらしい。
バックステージと呼ばれる奥に広がる空間もとても広かった。
舞台がまるまるもう一個入ってしまう大きさがあると聞き、驚く。
さらに驚いたのが、今立っている床が、地下に下がるということだった。
セリと呼ばれる舞台機構になっていて、床が何枚もいっぺんに動くらしい。
実際に動かしてみましょうという職員さんの言葉に、少しだけ緊張する。
動かないでくださいねと言われ、じっとしていると、ふわりと身体が浮くような感覚のあと、頬に風を感じた。
中奈落、大奈落と呼ばれる地下に向かって、舞台の床が巨大なエレベーターのように降りていった。
一番下に到着した時、また康平の服を茜が引っ張った。
「ここ、さっきのやつがいるみたい」
「え、おやつ取ったやつ?」
「そう」
周囲を見回すが、康平にはもちろん何も見えなかったし、何も感じなかった。
大奈落の通路には蛍光灯が点いていて、とても明るいために怖くもない。
一応和斗に聞くが、和斗の腕は全く反応していなかった。
「危険なやつではないってことなのかな」
「そういうことじゃねーかな」
スライディングステージと呼ばれる、もう一つの床面が上空に蓋をしていく。
セリが降りることによって開いた穴の部分を完全に埋める舞台面なのだそうだ。
スライディングステージがゴロゴロと蓋をしたあと、その穴を埋める床もあるらしい。
職員さんが説明している最中、怜二は大奈落の通路でこちらを窺う小さな影と目が合った。
びくりと身体を震わせて柱の影に隠れてしまったのだが、そろそろと顔を出して怜二の方を見る。
おかっぱ頭の少年は、怜二と康平を交互に見つめ、康平の方に向かってぺこりと頭を下げた。
喋れないのか、喋りたくないのか、彼はジェスチャーでおやつが美味しかったと伝えてきていた。
また食べたそうにしていたが、康平はまたこの劇場に足を運ぶだろうか。
それもおやつを持って。
「なんか、康平にお礼を言ってる気がする」
「そんなの分かるの!?」
「すげーな」
「どういたしましてー。美味しかったなら、また来るね」
少年は飛び上がらんばかりに喜び、大奈落の更に深いところへ消えてしまった。
もし、自分にも見えているのだと言えたなら。
言えていたなら。
今、そのキラキラした瞳で見つめられていたのは自分の方だったのだろうか。
そんなことを考え、怜二は自嘲気味に笑った。
もしもの話は、意味がない。
怜二は自分の特殊性を誰にも打ち明けるつもりはなかったし、今更打ち明けたところでもう二人には茜がいる。
茜のことが、どうしようもなく羨ましくて。
けれど、どうすることもできない。
元の舞台面まで上がっていくセリと反対に、怜二の心は沈んでいった。
舞台から客席を見ると、誰もいないのに視線を感じる気がして。
押し寄せる圧に少し怯む。
自分が、主人公だったら、こんなにも苦しい気持ちにはならなかったのだろうか。
そう思っても、怜二は主人公ではない。
康平を、和斗と、茜を、せめて影から支えることくらいはしたい。
舞台前から差し込むスポットライトの光に照らされてできた康平たちの影に、怜二はそっとその姿を隠した。
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