第8話 生垣の向こう [金木犀]

 怜二は物心ついた頃から、他の人には見えない物が見えた。

 最初に見たのは何だったか。

 たぶんあれはベビーベッドに寝ている時、目を開けると見える天井の隅に、黒い影が見えたのだった。

 その影は自分を覗き込んでいるような、ただ家の中を周回しているだけのような、よく分からない物だった。

 母に抱かれている時などにその影を視線で追いかけると、母が不安げな顔をするので見るのをやめた。

 自分にしか見えないのだと気付くのがやけに早い子供だったと思う。

 見えない物が見えると口にしてしまって気味悪がられる人の話は良く聞くけれど、怜二は誰にもそんなことは言わなかった。

 だから普通の人間として、普通に生活していた。


 初めは影にしか見えなかったそれは、怜二が幼稚園に通うようになる頃にはヘドロのようなスライムのような不定形の物に変わっていた。

 複数の瞳がギョロギョロと絶えず周囲を見渡し、怜二が自分を視認していることにも気付いていた。

 それが姿を隠すことをやめたのか、怜二の視る力が強まったのかは分からなかった。

 怜二の周囲には、怜二のような能力の持ち主はいなかったから、誰と能力を比べることもできなかったのである。

 もしかしたら怜二と同じく、そんな力があると口にしないだけかもしれなかったが、怜二には何となく、その人に認識できるチャンネルの多さが分かった。


 普通の人は、一つのチャンネルしか認識できない。

 普通の人には見えない物たちは、それぞれに特有のチャンネルを持っていて、波長の合う合わないがあるようなのだった。

 勘のいい人とでもいうのだろうか、感覚が鋭い人は何種類かのチャンネルに反応することがあって、見えないけれど気配を感じることができる。

 小学校で友達になった康平と和斗はその類の人間で、普通の人の範囲は出ないものの、かなりのチャンネルに波長が合うようだった。

 もしかしたら怜二と長く一緒にいることで、その感覚が研ぎ澄まされているのかもしれない。

 怜二の両親は完全に普通の人間で、家にいるアレどころか町中に溢れる何もかもの気配も感じない。

 だから怜二がどんなに一緒にいようが0が1になることはない。

 けれど0ではない人が自分に影響されているのだとしたら。

 彼らを普通ではなくしてしまう恐怖を感じはしたが、自分と同じ感覚を共有できる相手ができるかもしれない可能性を一瞬でも考えてしまったら、ダメだった。

 結局のところ、孤独だったのだ。

 理解されないと分かっていても、自分の目には見えてしまう。

 誰にも言えない秘密というのは、大丈夫だと思っていても心をすり減らし続けていた。


 見えることを誰にも知られないようにしていた怜二だったが、一度だけ失敗したことがある。

 それはまだ小学校に上がる前、幼稚園の庭で一人、花壇に花の種を撒いている時のことだった。


 怜二の通う幼稚園は園舎の前に園舎と同じくらいの大きさのグラウンドがあった。

 グラウンドを挟んだ向こう側には事務所のある建物。

 園舎と事務所を繋ぐように門があり、門からグラウンドを通ってさらに進むと庭があるのだった。

 庭と呼ばれてはいるが、そこもグラウンドと同じくらいの広さがあった。

 自然を感じさせる配慮なのか地面は何も舗装されていない土のまま。

 木々が周囲に生えていて、小さな森のようになっていた。

 木の生えていない開けた場所には何種類かの遊具が置かれていて、自由に遊ぶことができる。

 道路に面した側には金木犀の生垣があって、オレンジの小さな花がたくさん咲いていた。


 その金木犀の足元に、花壇はあった。

 数年前に一人の園児が先生に頼んで作ったものらしい。

 その子が卒園してからは何も植えられずに放置されていたのだが、それを怜二は譲り受けたのだ。


 初めて花壇を見た時から、怜二はそこが守られた場所であると気付いていた。

 花壇に何かいいものが植っていたのか、この花壇を作りたいと言った子供が特別だったのか、もしくはこの場所が元からそういう場所だったのか、それは分からないが。

 とにかくその花壇には、悪いものが入り込まないのだ。

 幼稚園全体がうっすらとその恩恵に預かっているようだが、この花壇が一番強い。


 だからこそ、油断していたのだが。


 怜二はいつも、お昼ご飯を食べ終わった後の自由時間に土いじりをしていた。

 幼稚園が終わった後では先生や親に迷惑をかけると思ったし、早い時間の自由時間にはだいたい大勢での鬼ごっこやかくれんぼになるのだ。

 参加しなくてももちろんいいのだが、変な波風を立てることは望んでいなかった。

 長いものには巻かれておくタイプの人間なのだ。


 お腹が膨れて少し眠たい午後。

 心地の良い日差しを浴びながら、スコップで土を掘り返す。

 湿った土は冷たくて、ともすれば暑すぎる日差しと眠気で体温の上がった怜二の手を適度に冷やした。


 ミミズが出てこないかと土を掘り返し、満足して種の入った袋を開けた時、目の前の金木犀が小さく揺れた。


「?」


 生垣の向こう側、地面と金木犀の隙間から女の子の足が見えた。

 細い脚に、フリルの付いた白い靴下、そして赤いストラップシューズ。

 同い年くらいの少女だろうか、その足は何かを探すように左右に行ったり来たりし、怜二の前で立ち止まった。


「なにか、探してるの?」


 生垣の向こうの彼女は、驚いたように後退りした。

 確かに、土いじりのためにしゃがんでいた怜二には生垣の下の隙間がよく見えたかもしれないが、立っている彼女には怜二のことなど意識もしていなかっただろう。

 誰もいないと思っていたところに声をかけられれば、誰だって驚く。

 怜二は謝った。

 しかし、返事はなかった。


 完全に不審者認定されてしまったのだろうか。

 怜二は自分がこの幼稚園の園児であること、ここに花壇があって、花の種を植えようとしているところなのだということを必死に話した。

 なぜそんなに必死になっているかは分からなかったが、誤解されたくない気持ちでいっぱいだった。


「れいじくん、誰とお話ししてるの?」


 不意に、声をかけられた。

 振り向くと同じ組の女の子がうさぎのぬいぐるみを脇に抱えながら怜二を見ていた。


「え?」


 その子から投げかけられた質問の意味が分からなくて、返答に詰まる。

 固まって数秒、自分が見えていない物に対して会話をしていた可能性に思い至り、怜二は立ち上がった。


 金木犀の生垣の向こうに、少女なんていなかった。

 ただ、少女の二本の足だけが、そこにあった。


「あ、あの、初めましての人と話すのが少し苦手だから、れ、練習しようと思って……」


 苦しい言い訳だった。

 けれど、ぬいぐるみを抱えた少女もまた、似たような悩みを抱えていたらしい。

 割とすぐに納得して、怜二に会話の練習を持ちかけたのだった。

 怜二はその申し出を受け入れ、次の日から一緒に花壇の前でおしゃべりを楽しむようになるのだった。


 生垣の向こうにいた少女の足は、怜二の母が迎えに来た時、幼稚園の門の前にいた。

 そして怜二たちの後ろをついてきたのである。

 怜二が声をかけてしまったことで、自分を認識できると完全に理解したのだろう。

 この足が怜二に何を求めているのか、怜二に何をするつもりなのか、分からなかったが、いい気分ではなかった。

 ちりちりと産毛を逆立てるような嫌な気配が、押し寄せてくるような。


 母には何も言えない。

 嫌な予感さえしていないだろう母は、にこやかに今夜の献立の話をしている。

 このまま家までついてきてしまったら、どうなるのだろう。

 自分が何かを我慢すればいいくらいであればいいが、もし両親に何かされてしまったら。

 怜二は解決方法を考え、結局何も思い付かなかった。


 玄関で靴を脱ぎ、家に入る。

 少女の足は靴を脱ぐこともなく、怜二の後をついてきた。

 台所に向かった母を追いかけず、洗面所に向かった自分についてきたことで、怜二は少し安心する。

 手を洗い、リビングに行った怜二は、目の前の光景に動きを止めた。

 普段は天井の隅を移動するだけのアレが、テーブルの上までやってきていた。

 どろどろとした体はテーブルの上に広がり、テーブルを囲む椅子にまで伸びている。

 ひっきりなしに動いていた全ての瞳が一気に自分の方を向き、怜二は悲鳴を飲み込むので精一杯だった。


 しかし、その視線の先は怜二ではなかった。

 怜二を通り越した先、少女の足を見つめていた。


 ぞるぞると本体から伸びた触手のような物が、少女の右足を捕らえた。

 すごいスピードで触手が縮み、両足がアレの中に飲み込まれていく。

 胴体がなくても、足は繋がっているらしい。

 そんなことを現実逃避の材料にしている間に、ジタバタと暴れていた少女の足は完全に飲み込まれてしまった。

 アレの体は真っ黒で、中が透けることもないから足がどうなってしまったのかは分からない。

 だが、幼稚園から今まで怜二の背中を刺していた嫌な気配は、消え去っていた。


「あり、がとう」


 アレが、自分を守ってくれたなどと都合よく思うことはできなかった。

 ただ単純に、自分の領域に見知らぬ異物が紛れ込んだことを疎ましく思ったのかもしれない。

 異形の物の考えることなど分からないけれど、怜二が助かったことは事実で。

 だから怜二は母に聞こえない小さな声で、お礼を言った。


 もういつもの天井に戻ったアレは、怜二の言葉に何の反応も示さず、ただ、そこにいた。

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