第5話 ロウソクと猫 [秋灯]

 夜がどうして怖いのか。

 それは、暗いところがたくさんあるからだと思う。

 暗いところがどうして怖いのか。

 それは、何かがいるかもしれないからだと思う。


 けれど、夜は怖いばかりでもない。

 夏休みに家族でキャンプに行った時は、夜に蛍が見られて綺麗だったし、北海道のおばあちゃんの家に行くと、星がたくさん見えて綺麗だった。

 夜にしか見られないものもある。

 夜にしか感じられないこともある。


 康平は日付が変わる頃、部屋の中で一人ぼんやりしていた。

 この間はカボチャに苦しめられたけれど、今は何もない。

 秋から冬にかけては夜が長いのだと聞いて、せっかくの夜、一学期の美術の時間に作ったロウソクを、灯してみることにしたのだった。


 夕ご飯の後、ベランダでタバコを吸う父にライターを借りた。

 何に使うのか聞かれたのでロウソクに火をつけるのだと答え、使い方を教えてもらう。

 マッチも一緒に使い方を教えてもらったが、何回かチャレンジしても火をつけることができなかった。

 ライターは少しだけコツが必要だったけれど、一回できたら簡単につけられるようになった。

 明日の朝ご飯の時に返す約束をして、青い透明なライターを借りた。


 康平の住むマンションは、ペットが飼えない。

 ずっと猫が好きで、猫が飼いたかった康平は、近所でよく見かける野良猫を可愛がっていた。

 初めのうちはかなりの距離を取っても警戒し、すぐに逃げてしまった猫だったが、次第に距離を縮めても逃げなくなり、今では撫でることまでできるようになった。

 自由に作ってもいいと美術の先生に言われた時、その茶トラの猫をイメージして作ろうと思ったのだった。


 配られたパラフィンワックスを温めて、色を着ける。

 それから色のついたワックスが固まってしまう前に、混ぜ合わせながら型に流し込む。

 オレンジ、茶色、白。

 着色料の量を調節しながら、あの猫に近い色を作っていく。 

 薄いオレンジを作るのが一番大変で、納得の行く色になるまで何回も色を混ぜることになってしまった。

 クラスの女子たちはドライフラワーやドライフルーツ、色んなプラスチックのパーツなんかを持ち寄って、わいわい楽しんでいた。

 男子のほとんどはやっても何色かをグラデーションにするくらいで、あまり可愛く飾り付けるような子はいなかった。

 型は銀色で、中が見えるわけではなかったから、思ったように模様になっているのか外側から確認することはできない。

 完成して、型から抜いて初めて、上手くできたかどうか分かるのだ。

 そんなところもドキドキして楽しかった。


 授業の時間内でなんとかワックスを型に詰め、次の美術の時間に型から抜いた。

 康平の脳内にあった野良猫の姿には似ても似つかなかったが、オレンジと茶色と白のマーブル模様はそれなりに綺麗だった。

 想像ではもう少し猫に近くできているはずだったのだが、そう上手くはいかないらしい。

 クラスメイトたちも型から抜いたロウソクを見て、一喜一憂しているようだった。

 出来上がったロウソクは、タイトルを書いた厚紙と一緒にしばらく展示されることになっていた。

 自分の作ったものにタイトルを付けるという行為がどうにも恥ずかしくて、康平はただ『ねこ』とだけ書いた。

 隣には薄いピンクのロウの中に濃いピンクと白い大きな花が浮かぶ可愛いロウソクが置かれ、そこには『春の訪れ』というタイトルが書かれていた。

 展示期間中には授業参観があった。

 そのロウソクを見た母が、すぐにあの野良猫だと気付いてくれたのが嬉しかった。

 ただ、あまりにも素っ気ないタイトルはどうにかならなかったのかと小さく問われた。


 一学期の終業式が迫り、ロウソクは各自の手元に渡った。

 美術の先生がわざわざラッピングしてくれたらしく、透明なビニール袋にはそれぞれのロウソクに使われた色のリボンが巻いてあった。

 誰かにプレゼントするのもいいと思いますよ、と先生が言い、そのためのラッピングだったのだと納得する。

 康平は自分のために作ったが、確かに綺麗にできたのなら、誰かにあげて喜んでもらうのもいいのかもしれない。


 そんなロウソクを康平は袋から取り出し、机に置いた白い皿の上に置いた。

 『ねこ』と名付けてしまったものだから、炎を灯すのが少しばかり申し訳なくなっていたのだ。

 けれど、せっかく作ったのに目的を果たせずにほこりを被らせておくのもしのびない。

 今夜、ロウソクにロウソクとしての初仕事をさせてあげよう。


 康平はライターで芯に火をつけた。

 ぼうと灯ったオレンジが、ロウソクの芯に重なり、そして二重になる。

 ライターを握る手を離しても、ロウソクの上で揺らめく炎は消えず、ちりちりと燃えていた。


 暗い部屋に、ロウソクの炎だけが揺れる。

 今日は雨こそ降らなかったものの生憎の空模様で、夜になっても月は雲の影に隠れたままだった。

 康平の家は五階であったから、外の通りの電灯の明かりなどは全く届かない。

 窓の外にも闇が広がり、康平の目に入る明かりはロウソクの炎のみだった。


 細長く伸びるオレンジは、康平が息を吐くとゆらりと揺れた。

 部屋全体が明るくなるほどの光量はない。

 けれど、使った芯が太かったからか炎は思っていたよりも力強かった。

 誕生日にケーキに立っているロウソクよりも全然大きな炎。


 ロウソクの炎に照らされた部屋の中の色々な物から、長い影が伸びる。

 壁に立ち現れる影は炎が揺れる度に一緒に揺らめいた。


 もう、家の中で起きているのは自分だけ。

 外から微かに聞こえていた車の音や笑い声もいつの間にか聞こえなくなっていて、まるで世界で目覚めているのが自分だけのような、不思議な感覚になっていく。


 立ち上がり、壁の方を向くと、そこには自分の影がある。

 本当の康平よりも細く、長い影。

 手を伸ばしてみても、影が手を伸ばしているかは分からない。

 鏡のようでいて、鏡とは違う、影。

 アニメのピーターパンで自由勝手に動き回る影はコミカルで面白かったな、などと思う。 


 突然、その影が左右に振れた。


「ひっ……!」


 驚いて後ずさるが、康平のその動きとは無関係に、影は直立し、首だけを左右にぶんぶんと振り始めた。

 怖い。

 怖い。

 怖い。


 康平は驚きと恐怖のせいで固まってしまった体を必死で動かし、ベッドの裏側に隠れた。

 震えが後から追いかけてきて、自分の体を抱きしめるように丸くなる。

 視線だけ壁の方に向けても、ベッドの影があるだけで自分の影は見えない。

 この状態でもなお壁面を影が動き回っていたらと想像していた康平は、少しだけ安心した。

 けれど、今のままではどうすることもできない。

 自分の影を作らないようにしながらロウソクの火を消さないと。


 康平はベッドの上に無造作に置かれた布団の影からはみ出さないように低い姿勢を保ち、布団の中に潜り込んだ。

 そして布団の両端を手で持ち、布団と共に立ち上がる。

 大きな影が自分を守る盾になったような心持ちになって、康平はゆっくりロウソクに近付いた。


 ボボボッ


 急に炎が荒々しく燃え上がり、ロウソクのくぼみに溜まっていた溶けたロウが揺れて溢れる。

 康平が息を吹きかけても消えてくれない炎に、どうすることもできないのかと心臓が激しく脈打った。


 どんどんロウソクが短くなっていく。

 このまま燃え尽きてしまうなら、それでもいい。

 早く終わりが訪れることを願った康平の耳に、猫の鳴き声が聞こえた気がした。


 その瞬間、あれほど勢いのよかった炎が急激に小さくなっていった。

 康平は無我夢中で息を吹きかけ、部屋の中が暗闇に包まれる。


 助かった、のだろうか。


 康平は周囲を見回すこともせず、ベッドの上に倒れこんだ。

 布団を頭まで被ったまま、目を閉じる。


 朝が来れば、太陽が昇れば、絶対に大丈夫。


 いつの間にか眠ってしまっていた康平は、母の声で目を覚ました。

 ゆっくりと布団から顔を出し、周囲を確認するが何もない。

 壁にできた自分の影は、しっかりと康平の動きをなぞった。


 リビングで父にライターを返し、朝ご飯を食べながら昨夜の出来事について話した。

 すると、台所にいた母が少し眉を下げて言った。


「あの子、今朝、マンションの前で冷たくなってたんだって」

「え?」

「管理人さんが見つけて、今日の夕方に火葬するって言ってたわ。学校終わったら一緒に行こうか。あの子が守ってくれたんだったら、お礼しなくちゃね」

「うん……行く……」


 あの時に聞いた声は、あの子の最期の声だったのだろうか。

 もし自分があの子をイメージしたロウソクを作らなかったら、あの子は死ななかったのだろうか。

 朝ご飯は、あまり喉を通らなかった。


 放課後、母と共に管理人の元へ行き、骨になった猫と対面した。

 康平が来るまで待っていてくれたらしく、一緒に骨壷に収めることになった。

 立派な脚の骨を母と箸で持って壷に入れる。

 昨日まで元気に擦り寄ってきていたのに、それなのにもう、骨だけになってしまって。

 ボタボタと涙が落ちてきて、止まらなかった。

 母に頭を撫でられ、タオルを渡される。

 ひとしきり泣いて、また骨に向かい合った。

 三人でたくさんの骨を拾い、どんどん入れていく。

 細かな骨も多く、もっと箸の使い方が上手かったらいいのにと思った。

 康平がつまめない骨は母が代わりに入れてくれて、最後にあごの骨と、頭蓋骨。

 康平でも簡単に持てるくらいの小さな骨壷に、全てが収まってしまった。


「この子、うちの庭が見えるところに置くことにしたから、いつでも会いにおいで」

「うん……うん……!」


 手を合わせ、お礼を言う。

 線香の煙が立ち上り、あの子の声が聞こえた気がした。



 

 

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