その人は、わたしを沼から掬い上げた。
「「うぇえええ!」」
第三階層への降り口までたどり着いて、わたしとジーナはまた嘔吐した。
「はい、調整」
ユウがいって、わたしたちのめまいと吐き気を、一瞬で治める。
ありがたい。ありがたいんだけど、よく考えてみると、ニコニコして何度もこの技を使うユウも、けっこうひどいんじゃないの?
「あらまあ、二人とも、血塗れで、すごいかっこうねえ」
ルシア先生が笑いながら言い、
「水と風の精霊の息吹を身にまとい清浄の衣となるべし、浄洗!」
詠唱とともに、いい匂いのする爽やかな風がわたしたちの体を包み、コボルドの血肉の汚れや、わたしたちの汗や、泥や、そうしたものすべてを、みるみるうちに取り去っていく。
「はあー、生き返るー。ルシア先生、ありがとうございます!」
と、単純に喜ぶジーナ。
たしかに、ありがたい。ありがたいんだけど、わたしたちがこうなったそもそもの原因はルシア先生である。
「さて、それでは、きれいになったところで、第三階層に潜るわよー」
とルシア先生がいう。
「第三層には、もうコボルドはいないから、安心してね」
(いや、コボルドがいなくても、別の何かがいるのですよね、せんせい)
「第三層は、沼地を模してあるのよ」
「沼……ですか……」
ダンジョンの中の沼地なんて、いやな予感しかない。
「沼地ですね、了解です! がんばります!!」
ジーナはつねに前向きだ。すばらしいと思う。
階段を下り切ったところは、確かに沼地だった。
どう説明したらいいだろうか。
みわたす限り、はるか彼方まで広がる沼沢地帯。
ところどころに、直接水の中から灌木が生えて茂みを作っている。
そこに、長方形の板を敷いていく形で、道が作られている。
板の横幅は、人がすれちがうのも難しいくらいの幅しかない。
渡り通路はいくつにも分岐していく。交差点のようになっている場所もある。
板の両側は、水に漬かった状態だ。
その水は緑色に濁り、のぞいても中はよく見えなかった。
「うーん、なんだか、おぜか、くしろしつげんみたいな場所だな……いや、夏のしべりあというべきか?」
ユウが感想をもらすが、例によってよくわからない。
この階層の上部はどうなっているかと見上げれば、かなり高いところで全体が霧のようにかすみ、突き当たりはみえない。どこからくるのかわからないが、曇りの日の午後のような、薄暗い光にみちていて、この階層では灯りは必要なさそうだ。
「天井がみえない……」
わたしがつぶやくと、
「これって、おかしくない? 階段そんなに長くなかったよ」
ジーナが不思議そうに言った。
「それは、もちろん、ダンジョンの中では、空間が歪められているんだよ。時間さえ歪められている可能性もあるな……。
たぶん、どこまで空を上がっていっても、天井にはたどりつかないよ」
ユウが答えたが、
「? よくわからないなあ」
ジーナにはいまひとつ理解が難しそうだ。
「ダンジョンの壁を破れないのは、そのためなんだ。物理的な壁だけじゃないんだ、呪術的な壁でもダンジョンは構成され、外部と隔てられているから、ふつうのやりかたでは、どちらの方向にも境界を超えられない」
「やはり、レイスはなんらかの呪術によって、ダンジョンを構成する壁に穴を開けたようね。しかも、単純に穴を開けただけなら、そこから矛盾がひろがって、ダンジョン自体が崩壊し消滅する可能性もあるから、安全な形で通路を維持する方法も見つけたのね。その執念には感心するわ」
「あのレイス、なかなかたいしたもんだね」
「その魔術的な方法については、いちど話し合ってみたかった気もするわね」
「まあ、あいつはぼくが、この世から消滅させちゃったからなあ……」
ユウとルシア先生は興味深げに語り合っている。
どこか浮世離れした二人である。
もっとも、ユウはこの世界の人ではないわけだけど。
「ルシア先生、まさかまた『ヘイト』使ってないですよね?」
「いいえ、今回は使ってないわ。たぶん、使うまでもないんじゃないかな……」
「えっ?」
「ほっておいても、向こうから、どんどんやって来てくれるわよ、きっと」
なにしろ、この階層では、わたしたちが進める場所は、通常の手段では、この板の通路の上しかないわけだから、たしかに、向こうにしてみれば狙い放題であろう。
「何事も経験よ、さ、いってみましょう」
ルシア先生に従い、わたしたちは、渡り通路を歩き出した。
例によって、ジーナが先頭で、次がルシア先生、そしてわたし、最後がユウである。
歩きにくいこと甚だしい。
完全には固定されていないのか、板はぐらぐら揺れて、すぐにかたむき、とてもしっかりした足場にはなりそうにない。
ジーナは持ち前の反射神経で、ひょいひょいと進んでいく。
ルシア先生は、ユウとは別の意味で、重力なんてものがあることを感じさせない軽々とした足取りだ。
わたしの後ろからくるユウも、こちらは文字通り、重力があろうとなかろうと関係ない。
いちばん苦戦しているのは、もちろんわたしだ。
ぐらぐらかたむき、落ちそうになりながら前進する。
気がつくと、ずいぶん、前をいくルシア先生とのあいだが広がってしまっていた。
ルシア先生が、それに気づいて、振り返る。
(いけない)
あわてて足を速めようとしたとたんに
「ああっ!」
足場がぐらっと傾き、わたしのからだは、道を外れ、沼の上に投げ出された。
(落ちる!)
じたばたするわたしの体が、水面にぶつかる寸前で斜めに止まった。
「ユウさん!」
落ちるわたしを見たユウが力を使い、わたしをそこでとどめてくれたのだ。
ほっと息をはいた次の瞬間、
ザバッ! ザバッ! ザバッ!
爆発するように、わたしの下の水面がはじけた。
水の中から飛び出した、鉤のついた何本もの棒が、わたしのからだをひっかけ、わたしはあっという間に水の中に引きずり込まれた。
わたしのからだは、ユウの力からもぎ取られ、抵抗できず、沼の深いところに、ぐいぐいひっぱられていく。
(あああ、息ができない!)
窒息の恐怖にわたしは焦り、恐慌状態になるところだった。
しかし、そのとき、わたしの上で水面がきらめき、水が揺れると、刃がわたしの周りをなぎはらった。
ジーナだった。
ジーナがわたしを助けるべく、飛びこんでくれたのだ。
わたしは、まだ水の中ではあるけれど、ようやく体をおこすことができた。
(だいじょうぶ?)
ジーナが目顔でそういっているのがわかった。
ありがとう、ジーナ。
(火と風の精霊が交差するときこの世のすべてが炎になる、爆炎!)
わたしは、口の中で魔法を詠唱する。
ボゴォ! ボゴォ! ボゴォ!
わたしとジーナの周囲の水が、現前した炎の熱にさらされ、一気に沸騰した。
(きいいいいいぃ!)
直接水をとおして、甲高い悲鳴がいくつも聞こえてくる。
沸騰した水の熱を感じるまもなく、わたしとジーナのからだは、ぐいっと強い力で引き上げられ、水から飛び出し、上空に浮かび上がった。わたしとジーナから、沼の水がざあっと滴る。
ユウがひきあげてくれたのだった。
その位置から見下ろすと、あたりにはもうもうと白く水蒸気がたちこめ、まだ一部の水面はぼこぼこと沸騰し、そして、ぷかりぷかりと、何体もの魔物が、煮えただれて浮かび上がってきた。魚顔に、水かきのある手、そして下半身は魚体となっている、沼人たちだった。
「うん、ライラ、水の中でも魔法を詠唱できたのはよくやったわ」
ルシア先生がコメントする。鼻をくんくん言わせて、
「あらあら、沼人たち、ライラの魔法で、よおーく煮えちゃってるわねえ」
あの、ルシア先生。
今日は、わたしは、魚は食べれそうにありません……。
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