第3話 この奇妙な戦争めいたものに

 


 その後、手足もテープで撒かれ、自由を奪われたかたちで、廃材並の扱いで雑に身体を運ばれる。

 五郷は死を意識して、大いにもがいた。

 だが、動けば動くほど苦しくなる。そして、気づいた。こうしてテープで口が塞がれているため、呼吸手段が鼻しかない。下手に運動量を増加させれば、たちまち酸素不足へ陥る懸念があった。

 すなわち、下手に激しい運動はしてはならない。そもそも、運動をしてこなかった人間であり、たとえ、ここで全筋力を投じてもがいたところで、手足を拘束するテープを引きちぎれるはずもない。

 自身の無力を認めることからはじめた。しかし、それは、はじまりではなく、もう終わりともいえる。

 なら、どうするか。もし、自由に血でも吐ける身体能力でもあれば、あの二人の衣服にかけてやりたいところだったが、血は吐けないし、そもそも、口にガムテープを張れている。吐けばは自滅の完成だった。

 ああ、いいことなんてなんいもありゃしない。心のなかで毒づく。すると、なぜかそれで、少し心が落ち着いた。

 にしても、だ。この特殊と異常が合算された状況で、こうして得体の知れないことを考えていられる自分とはいったいなんなんだろうか。人生のどこかで、社会に合わせるために必要なチューニングの機会をのがしてしまったのではないか、そんな懸念すらおぼえた。

 そして、懸念している間に、自由を奪われた身体はどこかへ積み込まれている。

 身体の自由は奪われている、しかし、心は自由である。

 などと、心のなかで不毛な応戦をしていうちに、どこかへ座らされた。

 椅子なのか硬かった、それに狭い場所だった。左肩がすぐに何かがぶつかった。目の前に小さなテーブルでもあるのか、膝もぶつかった。

 それからガムテープを張られた時と、同じにように唐突に、目のガムテープを剥がされ、続けて、口の方も剥がされた。

「いたぁああん!?」

 剥がれた際、悲鳴をあげた。眉毛をすべてテープの粘着へ持っていかれたと思った。

「おおい、おっさんたちが!」

 すぐさま叫ぶ。

「って、ん………?」

 しかし、次には自分が置かれた場所を目にして、つい、怒りを忘れ、情報収集に入ってしまった。

 そこは三畳ほどの縦長の空間だった。四方は白い壁に囲まれ、明るく、窓もある。すぐそばに、小さなシンクがあった。

 喫茶店だとすれば小さすぎる。なんだここは。身体をスティールされてから、運び込まれるまで、一分も経っていなかった。だとすれば自宅の近所だが、見たこともない空間だった。心あたりも微塵もなく、きょろきょろとしてしまう。硬い椅子に、両足は小さなテーブルへ収納されるように収まっていた。そのテーブルの向かい側には、矢山が座っている。付き合い立ての恋人並の至近距離だった。

 そして、五郷はそのままきょろき、やがて、その人物と目があった。

 座っている隣にいる、若い男だった。二十歳前後で、ありふれた大学生風の、無地で簡素で清潔感のある服を着ている。顔立ちは悪くないが、ひどく萎縮しているのか、背中を丸めて座っていた。さっき肩がぶつかったのは、この男の肩らしい。若者は五郷と目が合い「ああ、どうも………」と、萎縮した状態で挨拶をしてきた。

 その若い男もまた、見知らぬ者だった。その面識がいっさいない男と、距離をかなり近くにして座っている。

「………えっ、だれ」

「彼はな、一条くんだ!」

 向かいに座っていた矢山がチャンピョンでも紹介するかの勢いでいった。いったい、何のチャンピョンかは不明だが、とにかく、チャンピョンの紹介ほどの勢いがある。

「五郷くん、今日から君の、相棒だ」

「知るか。いや、そのまえに今日からあんたは犯罪者だからな」

「元気があってよろしい!」

「おう、つか、その返しが間違えてんだよ。わけわかねえんだよ、全般さ」くだをまくような口調で言い返す。「こっちはいま心が遭難してんだって。あのなぁ、つか、返しというか、もう、あんたが人間に生まれてきたことが間違いだかんな。あんた、いますぐ人語を話すをのやめてくてよ、海かどっかへ潜って消えてくれよ、藻屑がお似合いだからさ、もはや」

「というわけで五郷くん!」

「きけよ、おれの魂のクレームを」

「そして一条くん!」

 呼ばれて、若い男。一条は、びく、っと身を震わせ、それでも育ちがいいのか「はい………」と返事をした。

「私は《矢山かるめ》の父親だ」

「さっき聞いたぞ、ボケが」

 五郷が雑に言い返すも矢山には通じない。人の心の痛点がない印象がある。

「つか、ここどこだ」

「おおう? ああ、ここはね、これはキャブコンのなかよ。キャーンピーングカー、軽タイプのね。買ったのさ、このためにね。移動する作戦本部だよ」

 キャンピングカー。つまり、自宅の近くにでも駐車していたらしい。一瞬で、異空間にワープさせられた気分だった。正体がわかり、五郷の戸惑いは少し薄まった。カーテンで仕切られていたが、隙間からハンドルが見え、木野目らしき、人物が運転席に収まっているものわかった。

「………で、おっさんよ」

「いっそパパと呼んでもいいさ」

「犯罪者のトップランナーよ」

「なんだい、犯罪予備軍トップの五郷くんよ」

「俺をいますぐ解放しろ、まもなく解放しろ、でないと、その鼻を雑にもいで、猫の巣に放り込むぞ」

「猫って、巣があるのかね?」

「っけ、しまったぜ、情報量をよくばった発言のせいで伝えたい意図がずれた」五郷は淡々とした口調で反省する。

 いっぽう、一条の方は魔界の生き物たちやり取りでも目にしているかのような顏をしていた。

「で、おっさん、俺をどうするつもりだ」

「君たちを雇いたい」

 矢山は、ぽん、とそう言った。

「雇いたい………」一条はその部分を口にして見返す。それから「………ええっと、あの?」困惑を表情に浮かべた。

「雇いたいもなにも」五郷は目を細めた。「俺はおっさんたちを訴えたいんだが。この国の一番、裁きが厳しい部門などへな」

「まあまあ、落ち着きたまえ、少年。少年、吾郷よ。ねえ、いまからさ、きちーん、っと、ね、説明しますから、ねえ」

 中途半端に敬語へ切り替え、それが余計に、矢山という人間に、不気味な味を加えてしまっていた。

「話なんぞ聞くきなどねえ。落ち着く気もねえし、むしろ、荒ぶる方向しか見えてないんだよ、こっちは。ともなく、もう、いいからいますぐ解放しろよ、すぐそこの自宅へ帰せ。俺は、この春は家でじっーとしてるって決めてるんだよ、菓子ばっかくって過ごすんだよ、そういう実りを全面放棄した春にするんだよ、そういう人生をただただ空費へ突入する勇気がある人間なんだよ」

「よし、では、最初にお金の話しようか」

 不満を未編集のままぶつける五郷に対し、矢山はそう仕掛けてく。

「お金だよ、お金の話さ、きみたちにこちらから支払うマネーの話ね」

 にやにやしながら言う。矢山が放つ明らかにあやしげな話題と笑みに、一条は、ひいていた。脱出願望が表情にもよく現れている。

 だが、吾郷の方は。

「………なに、カネくれんのか?」

 ぐい、っとひきつけられる。かなりわかりやすく、まんまと。もはや、まんま、と擬音がどこからか聞こえてきそうなほど、まんまと。

 金の話に食いつく。自身へのみっともなさを、顧みる様子も微塵もなく。小さなテーブルに前のめりだった。

「ああ、あげるさ。支払いますよー、もちろんもちろん。仕事さえ、していただければ、ね」

「話を聞こうか、おっさん」

「あらためてパパと呼んでもいいんだよ」

「パパ」

「ヨシ、実際、きみの呼ばれるとの見事な虫酸がが走ったから、もう永遠にパパと呼ばんでくれ、吾郷くん」

「で、虫酸パパ。話せよ、金の話」

「ク………クレームと呼び名を合体させた………」ずっと隣に座っていた一条が驚いていた。「しかも永遠に呼ぶな言われてすぐパパって呼んだ………」

 神々の戦いを前にしているようにいう。目の前の捉え方を、どこか間違えてしまっている様子があった。

 だが、じつは矢山はまったく気にしていないのか「では、本題をはじめようか」と話はじめる。

「何度もいうが、私は、矢山かるめの父親だ」

「おうよ」

 早く金の話を聞きたい五郷は、もう茶化もしなかった。ただ、雑に話の先をうながす。

「しかし、じつは、私はね。娘とは長い間、離れて暮らしていたんだ」

「ああ、おっさんは、まあ、そんな感じの顔しているよ。ずっと娘と離れて暮らし顏だわ、うん。ぜんぶ顏に出てるさ」

「ありがとう」

 褒めてない、が、一条はそこを指摘すると、よけい状況が長引くと判断し、ここは何もいわずにおいた。この奇妙な戦争めいたものに巻き込まれたくない気持ちも強い。

「気がつけば、もう娘は十六歳。今年で十七歳になる、高校に二年生さ」

「そうか。いや、なんつーかさ、俺はね。おっさんの口から、いまや遅しと具体的な金の話になるのを待ってるんだせ」

「ありがとう」

 狂ってやがる。一条は脳内でつぶやくに留めた。

 この奇妙なせんそうめいたものに、寸分も巻き込まれたくない。

 そう、平和とは何か。

「ところで五郷くん、一条くん」

「気安く俺の名を呼ぶな」

「《神殿》というアプリは知ってるかね」

「え」

 と、声を漏らしたのは一条だった。あまり話題が飛び過ぎていた。しかも、予想だにしないものだったため、驚きがあった。

「アレ、つくったの私ね」

 そこへ重ねてそれを告げられ、一条は「うそっ」そうつぶやいた。

「ああ、あの評判悪いやつね」五郷は落ち着いているというよ、あまりピンと来ていない様子だった。「学校で禁止されてる、アレなぁ。なんか、ギャンブルである、とか、違法なんだぜ、とか、ってなってるヤツだろ? 世界中の有象無象から小銭をじゃらじゃら金集めて、当たったやつが独り占め、ってなのだろ?」

「うん、それさ。どうだい、君たちもは、やったことあるのかね?」

「やんねえよ、あんなもん当たるか」

 横で聞いていた一条が「あ、意外」とこぼした。

「私が《神殿》をつくった」

「なんだよ、おっさん有名人なのか」

「その業界では一目おかれている」

「ま、俺はいまこの現時期では塵芥ほどもおっさんに一目置いていないがな。で、それがどうした」

「うん、じつはね。あのアプリ、停止しようと思って」

「おう、なんでだよ」

「ほら、君たちも知っての通り、問題があるから。起こっちゃってるから、問題。いろんな国のそれっぽい機関の人たちに怒られてるし、睨まれてるし。アレだよ、実際は違法じゃないからね、あのアプリ。そういうのはきちんとすり抜けて、スキマというスキマをすり抜けて作ったからね。システム自体は単純なものだけど、合法へ持ち込むためのチューニングがまた芸術的なんだわ、我ながら」

「つまり必死な犯罪者、というわけだな」

「ほっほっほーう」

 矢山の放つ気味の悪い笑い方を前にして、一条は眉間にしわをよせてゆく。

「まあとにかくね、私ね。アレ、とめることにしたの。このままだと、私、同時多発的にいろんなすごいところから、超怒られちゃうから。追い詰められるの、嫌だもの」腕を組み、ふるふると、顏を左右にふってみせる。「怒られるとか、だいっきらい嫌いなの」

「その気持ちはわかる、俺もこの世界の誰からも怒られたくない、心の底辺からな」五郷は淡々とした口調で同意した後「つか、喉が渇いたな。何か飲物は出ねえのか、お茶とか出さねえのか。気がきかねーな、人類として」と、文句をつける。

「まあまあまあ、、まあーあ、まあ、ね。いやお茶は後で買ってあげるから、ね。約束通り、喫茶店も連れてくから。なんといっても、そろそろ、この状況の核心の話になるから、とりあえず、最後まで聞きなってば」

「変な顏だな」

 五郷は脈絡なく外見を攻撃しゆく。

 だが、矢山は気にしている様子はない。そして、それは両者の関係は、はやくも奇妙な成立を果たしているかのようにみえる。

 そして一条は考えはじめていた。もしかして、このままここいては、いずれ、人生単位の致命傷的なものを負うのではないか。一条の表情に深刻さが灯った。

 だが、ふたりは彼の変化など気づきもしない。

 魔界めいた領域を突き進んでゆく。

「《神殿》はクジ引きだ、参加者の誰にあたるかわからない。毎日、誰かひとりが、世界中の参加者から集めた金を独り占めできる、夢のあるシステムだ。たいていの人は人生が変わるだろう、もともと相当なお金もちでもないかぎりね。けど、このアプリ、ぜんぜん、参加者に公平につくってない」

「なんだインチキをインストールしてるのか」

 五郷は比喩で言っているのか、あるいはプログラムというものを本気でそういう感じでとらえているのか、わからない発言を放ってゆく。

「世界の気分に左右されるようにつくったのさ」

「………おおう? なんだなんだ? ん?」

「《神殿》で巨大なマネーを手に入るのは、一日一回、世界のどこかにいる、たった一人だ。けど、そのひとりの当選者はどこの誰なのかはこっちでコントロールしてる」

 黙っていた一条が「八百長なんですか………?」と訊ねた。

「言っただろ、世界の気分と連動してるんだよ」

「あの、というと?」一条は興味を示してさらに問う。

「つまり、私の娘の気分と連動している」

 そう返され、一条は数秒ほど考えている様子を見せた後「………なんですかそれ?」けっきょく、さらに説明を求めにたどり着く。

「つまりね、私の娘、矢山かるめ、ね。同じこというけど、ずっと離れてくらしてるんだけど、娘のことはね、まーあ、当然ですが、私にとっては大きな存在なわけなんですよ」

 ふと、語る矢山の表情に陰が落ちる。

 その間、五郷がきょろきょろと周囲を見回し、やがて空調ボタンをみつけると、許諾もなく、ぴっ、とボタンを押す。ぶいいいい、っと音がなり車内に涼し気な空気が入りこんできた。

「五郷くん。いまきみ、私の心の話をしている時に、空調つけたね」

「なんつーか、おっさんの娘さんに対する強い気持ち、伝わってきたよ」

 五郷は神妙な面持ちを浮かべ、相手の避難攻撃を回避にかかる。とうぜん、離れて暮らす娘を思う矢山の気持ちより、五郷が自身の体調管理を優先させたのは明白だった。

「で、おっさん、ぜひ、話の続きをきかせれくれたまえよ」

「いや、おまえいま空調を………」

「相手の話を本気で聞くためには、ベストな環境ってのも大事だろう」五郷は怯みなく言い放ち「そうでしょう、一条さん」と、躊躇なく彼も巻き込む。使えるものはなんでも使ってゆく。

 対して一条は「なんかだんだんどうでもよくなってきたかな………この世界………」と、屈してはじめていた。

 すると、五郷は「あきめちゃあいけない」謎のアドバイスを放った。「どんどん欲しがってゆこうぜ、一条さん」

「娘の話を再起動していいかね?」

「ああ、やれよ」ぞんざいな口調でうながす。

「どうも」それを矢山はいっさい気にもしない。

 ストロングスタイルがここにはあった。

「私はいつも娘のことを思っていた。娘の幸せをね、しかし、私は娘とは暮らせなかった。元奥さんにフラられたからね。直で表現すれば、離婚ね、性格の不一致を代表とする感情的側面の合致の不具合。および、両者の労働環境における、あれこれそれこれとかが原因だよ。ま、それはとして、私はね、娘の幸せを願うだけじゃダメだと思い至ったわけでなんですよ。そう、願いだけじゃあいけない、実際、幸せにしようと」

「ハナシ、なげーなぁ………ハナシ方もくどいなぁ………」

「ああー、もうちょっとガマンして待ててね、五郷くん、もうね、もうすぐコアな部分の話になるから、ね」

「………そうなの?」

「ね、ごめんねえ、なんか、ついはりきちゃってさあ、昨日の夜とかも、上手く説明できるかなー、って心配で眠れなかった部分はあるし」

「そうか。じゃあわかったよ。しかし、可能なかぎりの部分では善処してくれ」

「おう、おっけー、おっけー」

「仲良しなのか?」一条が問いを投げかける。だが、誰も答えてはくれない。見送られ、虚しくからぶる。「気色は、わるい」と感想も述べた。

「つまり、私は娘を幸せにすることを決めたのだよ」

 仕切り直すように矢山は宣言した。

「ちなみに五郷くんよ」

「なにさね」

「うちの、かるめとは同じ小学校の同級生だってのは、おぼえてるよね?」

「え、ああ、覚えてる。なかなか歯ごたえのある名前だったしな、かるめ、って」

「きみ、娘を呼び捨てにするのはやめてもらえないかね」

「おう、そいつは失敬した。この、ぽんこつ人間め」

「うん、わかってもらえれば、それでいいだ」

 一条は、指摘しなかった。指摘すすれば長引くだと判断した結果だった。この世界を整えると、損しかしない。

「で、一条くーん」

 と、矢山に呼ばれ、一条はびく、っと身を震わす。少し油断をしていた。

「きみも、うちの娘覚えてるよね?」

「ええ、はい………」

 声をしぼませながらうなずく。すると、五郷が「え、一条さん、俺と同級生なの?」と訊ねる。

「いいや、ちがうよ。ボクは、矢山さん………ああー………かるめ………さん? を、教えていた、塾のバイトで………去年………」

「せ、先生なのか」五郷は過剰なまでな警戒をみせる。

 やましいことのある人間、そのものの挙動だった。

「いやいや、ボクはただの大学生だよ、三年生………ええっと、そこらへんにいる、大学生と変わらない大学生………ああ………なんか変な説明になっちゃったぞ………」

 焦って説明をしくじっていることを気に病み、頭をかく。

「なんだ、権力ゼロの人間か。なら安心だ」

「安心のしかたがどこか狂ってるよね?」

「話題をズガンと戻そう」 

 矢山が言って注目を集める。

「きみたち二人には、じつは共通点がある」

「殺人鬼の友だちがいるとかか?」

 五郷が言うと一条は「いや、いないって」必死になった。

「冗談ですよ」

「きみたち二人には、じつは共通点がある」矢山はするりとやり直した。

「おおう言えよ! 共通点をぉよ!」なぜか、五郷は叫んでうながした。

「ふたりとも我が娘かるめから、チョコをもらったことがある!」

「おおう言えよ! その共通点ってやつをぉよ!」なぜか、五郷は叫ぶ、ほとんど悪鬼の勢いだった。

「うん、いま言ったよ」矢山は冷静だった。

「チョコレート………?」一条はまた、矢山とは別の種類の冷静をもって考え出していた。「え、もしかしてバレンタインデーの………のことですか?」

「それですよ!」

 矢山は一条の顔を指差した。

「きみたち二人はあああああああ! 我が娘からぁああああチョコを貰ったことがある! 人類最高峰の幸せ者なんだああああ!」

「うるせえな」

 狭い車内で吠える矢山に、五郷はさっきの自身の叫びは、さておき、不満に眉間へしわをよせた。

「ただうるさいだけの存在だわ」

 そして、追加でそう愚弄してゆく。結果として、矢山の心の仕留めてしまうかという可能性の考慮もなしにしている。

 だが、言われた当人である矢山の方は勢いよく発表できたことへの満足感にひたり、そちらに意識が言っているんで、きこえていなさそうだった。

「え、ねえ、ちょっとまってまってまって」一条が慌てた。「あの、バレンタインデーって、あれたしか………あの時塾に囲っていた子供たちが、みんなでくれたやつで、矢山………かるめさんが意志をもってボクへくれたものじゃないはずですよ………?」

 すると、それを聞いた矢山はいった。

「一条くん。だとしれば、君の方は、こちらのゲット情報ミスだ」

 すぐに認めた。そして、認めただけだった。

「ああ、俺はよく覚えてるぜ」

 いっぽう、五郷は断言した。

「小学校のときだな。二年かー、三年生だったか? たしかにあいつからチョコもらって食ったよ。あの日だ、俺が家の縁側でうちで飼ってた猫に、人間の言葉をしゃべれるように、人語を教えてるところに同じクラスだったあいつがたまたま通りかかって、で、チョコやるからかわりに猫を見せてくれって頼まれた」

「んー、なんだろ聞く方にどこか複雑な負担を強いる情報だね」一条がそんな言葉を添えてゆく。「処理しづらい付録情報が入ってるかなぁ」

「まあ、けっか、うちの猫は人間を言葉をしゃべることはなかった」

「だろうね」

「まあ、そもそも猫は人の言葉しゃべらないけどな」

「タチがわるいなぁ………」

 ふたりがしゃべっていると、矢山は「つまり、そういうわけだ」といった。

 一条はどういうわけだろういう表情をした。五郷の表情に変化はなかった。

「きみたち二人は、我が娘から………ようするにー………その………なんだ………いっ………一目! そう、つまり一目を置かれているといっていい気がしているわけだ! だからこそ、今日ここに集合してもらったんだ」

「集合はしてねえ、誘拐されたんだよ」五郷は冷たく言い返す。そしてさらに「調子にのるなよ」攻撃もくわえる。

「あの、さっきの塾の生徒たちの講師たちへの共同バレンタインデーチョコ贈与の観点からすると、ボクのほうは娘さんから特別視されているわけじゃないですよね、確実に」

「ええ、まちがえたようですな」

「なら、とりあえず、ボクだけはここで解放というかたちでも………」

「一条さん、そういうこと言っちゃあいけないぜ」五郷が諭しにかかる。「もう、俺たち仲間じゃないか」

「ちがうけど………」

 はっきりと答えたが、どうしても巻き添えが欲しい五郷は優しい顔を浮かべ、そして、一条の言葉を無視している。もはや矢山も間違いの対応することが面倒なのか否か「それでね」と、そのまま続行してゆく。

 そうか、ここにいる時点で、終わっているんだ。一条は生命の行き止まりを見るよう目をした。

「きみたちが成すべきことを発表する」

 強引さ微塵も気にかけず、矢山が発言する。

「私がつくったアプリ《神殿》だが、あれには秘密のシステムが組み込まれている。そのシステムというのはね、じつはあのアプリ、我が娘、かるめの心と連動してる」

「連動………?」一条が見返す。

「さよう。《神殿》は一日ひとり、当選者を生産しているが、あれ、全然公平に決めていないの。こっちで完全にコントロールしてんの」

「まじか」一条は思わずそう言葉を漏らす。

「というのもね。どんな人間に当選するかは、その日の、かるめの気分次第で決まるようにつくってんの」

「いや、それはちょっと………」いよいよ、一条はひいていた。

「かるめのその日の気分がもし、幸せだったら、なんだろうな。抽象的になちゃうけど、誰かを幸せにしたいとか、出来そうな人に当たるように出来てるの」

 説明され一条は「そんなの、どうやって、その人がそうだってわかるんですか?」疑問を口にする。

「そりゃあ、その人がネット上に発信した情報から判定するだよ。その人の登録情報って、いろんなエス、エヌ、エスと紐づいてたりするんで、そのあたりの発言とかを解析する。いい人そうな内容だったらいい人、悪そうだったら悪い人、ってね。まあ、ったってアバウトよ。そんなにカッチリどんな人かを判定できるような仕組みではない」

「そこは雑なんですね………」

「うん、がんばん無かった。そのあたりは」

 矢山は認めた。すると、五郷が「その程度の志しなんだよ、しょせん」といって放つ。

「だからね」矢山は自身のペースのまま続ける。「たとえば、その日のかるめの気分がダークネスとかだったら、ダークネスな人にお金が当たってしまうわけよ、うん」

 一条は怯みながら訊ねる。「あの、ダークネスって表現で逃げてますけど、つまり、具体的にはどんな人に当たるんですか」

「犯罪者とか、過去犯罪者とか」

「いやいやいや」

 きかされ、一条は顏を振る。

「だめですよ、それ。ヤバすぎですよ、それ。え、え、なんですか? だから、娘さんのその日の気分次第で、なんかお金あげたらヤバい人に。とんでもない大金が入っちゃったりするってことなんですか?」

「いやあああ、ほら、ねえ。娘のその日が幸せだったら、集まったお金もこの世界をよくするために使われるとか、ああ。我ながらイイ仕様だなぁ、とか思ったもんで。で、つくってみたら予想以上にみんな参加しちゃったもんね、まいったよ。人気出るだけでちゃって。私のポケットから溢れるほどの反響だし」

「アタマ悪いくせに調子のるからそうなるんだよ」

 ずがん、と五郷が言う。

「ああ、でね。肝心のかるめがね、その日、幸せかどうか、って判定の件なんだけどね」

「………ええっと」かんたんに次の話題へ移行出来るはずもないに、ぽんぽんと移行してゆく矢山に戸惑いつつ、けっきょく一条はつられて話をきく。「はい………」

「かるめ、写真撮るのが好きなの、二年ぐらい前からかな? 毎日撮ってんだよねえ、あの子。《キョウの一枚》ってアプリ知ってる?」

「しらん」五郷は言い切ってゆく。

「あのね、今日はこれ、って一枚だけアップロードできるアプリなの。今日という日を、代表する一枚だけアップロードしてみんなに見てもらうの」

「なるほど」五郷は顎に指を添え、つぶやく。「そのキョウってのは、狂うっていう当て字なのか」

「でね」矢山は無視か、きいていなかったかわからないまま続けた。「その日かるめがアップロードした写真を元に、システムで判定して、その日のかるめの気分はどうだったかを調べるわけよ」

「調べるって………」一条はいぶかしげな表情を浮かべた。「写真からその人の気分を判断するなんて、そんなシステムあるんですか………?」

「それがあるんだよ、一条くーん。写真の画像データからその人物の心境を解析してくれるシステム、そういうのがね。それで、かるめが毎日撮って、ネットのアップした写真から気分を判定して、どんな当選者にするか決まる。すべてオートマチックにね」

 そういったシステム自体の話が好きらしく、矢山はどこか活き活きとしていた。

「というわけで、ここまで話せば、君たちにも、もう、見えてきただろう」

「すまん、じつは一生懸命聞いてなかったからまだわからん!」五郷がはっきりと言い切ってゆく。勢いもあった。

「正直でよろしい!」なぜか、矢山はそこ評価した。一条は、いまの正直さは、まったくよろしくはないだろう、という表情をしていたが、矢山は気にしない。そのまま発言を継続させた。「つまり! 我が娘、かるめに幸せそうな写真を撮らせれば《神殿》は当選金を世界を良くするために使うような人に当たる! 世界が良くなる! そこで! 君たちふたりには、かるめが幸せな気分な写真を撮るため、動いて欲しい!」

「い、勢いまかせに………とんでもなくフワフワしたことを………」

 一条は戦慄さえ覚えた表情を浮かべる。幸せな気分の写真、世界が良くするために、だとか漠然し過ぎていることを躊躇なく並べられている。そして、その不安定さをただ、大きな声の発言で補おうとしている。

 途方もない見切り発車であり、愚策を感じざるを得ない。何かをはじめる、他者に協力を求める動機、説明としては最悪だった。

「お金は払います!」

 矢山は何かの効果を狙って敬語で言い切った。

「君たち二人には、それ相応のお金、金額はお支払い致します! だから、だからこそ! 君たちに協力して欲しい!」

 勢いのまま頼まれ、五郷が「だからこそ、って言葉の使い方が狂ってるな、きっと」と、つぶやいた。

「一週間で五万五千円お支払いします!」

「少ない………」一条は口から低評価をこぼす。「五千円ってきざんだ部分にも、なにか出し惜しみのためらい傷がみられますし………」

「現金で! お支払いします!」

「電子データで払ってアシがつくのを避けるためですか?」一条はすぐさま指摘してゆく。

「やろう、一条さん」

 すると五郷がうながした。

「世界を良くし金を貰うためだ、やろう」

「いい感じの台詞と、人としての器の狭小さが結合された発言だね………」

「俺はやるぜ」

「おおおぉ! やってくれか、五郷くん!」

「ああ、春休みは今日を入れてちょうど、あと一週間だ。家でじっとしてても、世界は良くならんし、金も発生しない。だったら、白無垢をドブに捨てる気持ちでやってやろうじゃないか」

「うむ、どこから白無垢って表現を出して来たかが気にはなるし、決意表明としてはちがうだろうが」矢山はそこにひかっかりつつも、良性の回答に喜んだ。「それでこそ私が見込んだ男だ、五郷くん!」

「そうだろう。大いに褒めてくれ、暁には金もくれ、矢山さん!」

「まかせたまえ、金ならあるさ!」

 両者は快活な様子で結託をここで了承した。金のみの接着による、関係の誕生だった。

 その場に居合わさせた一条は、もはや、途方に暮れるばかりで、正常な神経を働かせる気さえ起きない。

 そしてずっと運転席にいた木野目は、居眠りしていた。こくりと、こくりと、船をこいでいる。


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