第2話 その雰囲気を有した字のデザイン性を帯びだす
矢山かるめ、という名の少女のことは記憶にある。
名前が、ひらがな、そして『かるめ』という独自性を感じるその同じクラスメイトの名は、さかのぼること数年前、小学生時代の彼にとって、大きくひかっかざるを得ないものがあった。見逃せず、注目したのも事実だった。
その名を与られた者は、如何なる生き方しているのか。つい、情報収集をしようとしてしまう。
なぜなら、彼自身、似たようなやや、独自な名前をつけられた人生を生きていたからだった。どうしても、人間の名前というものに興味を持ちやすい人生を生きている。
五郷冬季。
いっけん、よくある名前にみえる。だが、よくよく見ると、そこに含有するなにかに気づく。
五郷冬季。
現在、十六歳。この春、高校二年生。
雄である。
そして、季節は春だった。桜の木がすくない町なので、桜は咲いてないし、散って地面を覆ってもいない。春、初夏、秋と、ほとんど景色の変わらない、味のないような町というのが、彼の認識だった。
彼、五郷冬季。
五郷冬季。
五郷冬季。
その字面を遠目から見た者は、ある瞬間、ふと思う場合がある。あるいはみまちがえる。
かりに英語圏で名乗ったとすると、その傾向は如実に表れる。
五郷冬季。
冬季五郷。
とたん、冬のスポーツの世界的祭典、その雰囲気を有した字のデザイン性を帯びだす。
国内では、とうぜん、五郷冬季と表記している。だが、見る者の無意識に訴えかけるものがあるらしい。
ゆえに、彼の名簿にあると、おや、なんだ名簿のなかに、なんだか冬のスポーツの世界的祭典が開催されているぞ、と勘違いされるがたまにある。しかし、よく観ると、ああ全然、違う文字並じゃないかと気付かれるが、それでもなお、文字のデザイン性が人の間違いを誘発することが時折りある。
それは魔法に似ているのかもしれない。と、彼は思って、悦に入っている時期もあった。
とにかく、何を思おうと本名はゆらがない。戸籍情報は、願いで変化するはずもなく、かといって、躍起になって、変えようかとする、そこまでも気もない。
五郷が苗字で。冬季が名前。
父親は五郷正親、母親は五郷彩花。
弟は五郷優。
四人家族だった。
十七年まえ、両親は冬の日に、はじめて生まれたの我が子、長男に対して、その瞬間季節のそのままを名前に移植した。命名した父親曰く「大した信念はなかった」という。母親も「私たちも若かった、しかし、勢いだけは」と語っていた。
おそらく、きされなくてもいい話だった。
そんなことより。
と、五郷は頭のなかを切り替える。
中肉中背の背中をまるめて腕を組み、考える。身長は百七十五センチ。Tシャツを買う場合、たいていMサイズだと、百七十五センチ以下、と書いてあるし、Lサイズだと、百七十五センチ以上と書いてある。
自身は百七十五センチ。しかし、シャツはサイズは百七十五センチ以上と書いてある。百七十五センチ、我ながら、小さな難儀を保有したボディサイズだった。いったい誰だろうか、こういった着るもののサイズの境界線を決めたやつは。と、虚空に因縁をつける。
なあ、サイズを決めた人々よ、キミたちは、ちゃんと会議して決めたのか。組織のなかに丁度、身長が百七十五センチの人間とかは、いなかったのか。いなかったとしても、そこは考慮は必要じゃないのか。そうやって、いるのに、いないことにされて話を決定するのはいかがなものだろうか。
そう、ひとり、精神の内部で怒りを展開してゆく。
これを、彼自身、友達がいなくとも、出来る高度な遊びと定義していた。
それに、実際にはどうでもいい。正気に戻ると、とたん、また持て余した春休みに包まれる。
晴れていた。桜のない町とはいえ、陽気のいい春の日は、贈り物でも貰ったような気分になる。いっぽうで、その優れた日の活かし方は、さっぱり見いだせない。若さの静かな消耗戦を続けるばかりだった。すなわち、なにもしない。
だが、なにもしないからこそ、べつに思い出す必要もないことも、思い出せる余裕もある。
ゆえに、矢山かるめのことを思い出していた。
そして、その矢先だった。それは来た。
玄関の呼び鈴が鳴らされる。その音は、誰が押しても、ひとしく、同じ呼び鈴の音がなりはする。
たとえ、それが天使でも、悪魔でも、どちらが押しても、呼び鈴は同じ音である。
だが、五郷は、それでも、なにかを察知した。きっと、本能が察知した。
そこで、直で玄関へは向かわず、まずは訪問者の姿を家の窓から玄関先の様子を伺った
自宅の玄関先には、ふたりの中年の男たちがいた。
「アウトだな」
一瞬で、そう判断し、口走る。
まず、ひとりは四十歳くらいか。むさくるしい。そう、むさく、しかも、くるしい。背は五郷より、少し高く、ひどく草臥れた紺色のポロシャツを来ている。
そして、そのポロシャツは、もしかして、道で拾ったやつを着ているのではないか、そう思えるほどの状態だった。襟首のはりが完全に息絶えている、気合の入っていない日の犬の散歩の装いめいている。
もうひとりの方は灰色のスーツ姿だった。ネクタイは黒い。背丈は隣の中年よりは頭半分高く、細身で年は三十五、六歳前後か。黒々とした髪を、すべて後ろに流して固めてある。
堅気の人間にみえる、みえない、その境界線に位置する風体だった。よって、積極的には接触をさける外見だった。しかし、顔立ちは三十代、演技派俳優の領域にあり、好事家によっては、顏と服装で充分の供給を満たせそうでもある。
ただし、五郷にしても、人の服装を評価できるようなものを纏っていない。家着用の限界まで草臥れた紺色にフリースに、下は裾がぼろぼろ茶色のズボン姿だった。
油断のファッション、その集大成といえる。
それはそれとして、春のある日、唐突に統一感のない二種類の風体の男たちが、五郷の家に訪れた。呼び鈴を押し、住民が玄関の戸をあけるのを、構えて待っていた。
五郷の家は、母親からいまは亡き両親から引き継いだ、古い平屋である。歴史だけがあり、歴史的価値はない。雨漏りやなど、不備が発生都度の修理でなんとか、大地に建っている感じだった。おそらく、この実家を擬人化すれば、老人にするしかない。
そして、五郷は縁側から玄関先に現れた男たちを覗き見ていた。格子戸の前に立っている。
折りしも、高校一年生から二年生へ向かい最中の春休み、その時、自宅には五郷がひとりしかいなかった。両親は仕事に出かけ、中学二年の弟は部活へ出掛けた。卓球部である。
留守をしているわけではない、することがなく、自宅の自室で、近所のディカウントスーパーで仕入れた安価な駄菓子を喰らっていた。高校生になって、ようやく、弟と分離した部屋を当てが割れたが、そこは元々、祖父の部屋であり、畳敷きで、そして仏壇もあった。しかも、どかすわけにもいかないため、仏壇は現役で高校二年男子の部屋にあり、同居状態だった。
よって、吾郷はかすかに線香の香りをまとって世を闊歩する。
まあ、しかたねえ。とりあえず、深く考えないで、ことを乗り越えをはかっていた。
その仏壇付きの自室沿いの縁側から、訪問者の様子をうかがった。見覚えのない男たちだった。
一瞬、どこか浮世離れした雰囲気の男たちを目にして、刑事かなにかか。とも思った。
しかし、やがて、いやいや、刑事というより、むしろ、あれは刑事に捕まる側だな、どちらかっつーと。と、勝手に訪問者を鑑定して落ち着いた。
とにかく得体の知れない者たちの訪問だった。だらしなく春を消費していたところへ、やってこられ、それなりに警戒心も働きだす。緊張感もじわじわ来た。
野球部に属する弟は、二年まえのクリスマスの金属バットを買ってもらっていた。だが、弟はいま、それを持って部活にでかけている。
防犯スプレー代わりに殺虫スプレーで代用できないものか。だが、相手は二人いる。かたいっぽうを撃退している隙に、片一方にやられてしまう可能性がある。四十歳くらいの方は、虫っぽいし、もしかしてかなり効くんじゃないか。
だが、やはり妄想を頼りに現実を生きるほど、五郷はぼんやりしていなかった。
無視しよう。決めたその後にも、呼び鈴が押される。強い意志を持って無視を続ける。畳みに寝転び、空虚な表情のまま駄菓子を引き続き食べ続ける。草を食む、山羊のように。
だいたい、あの二人組だって、もしも重要な用事がこの家にあれば、また両親のいずれかがいるときにやって来るだろう。違ったとしても、かんたんに相手をしては。訪問者を甘やかすことになる。人生の難しさを与えてやろうと考え、ひとまず、いまをすべて未来へ丸投げにして託す。
とにかく無視する。しかし、呼び鈴は押され続けた。しかも、自宅同様歴史だけある呼び鈴は、理不尽な連打を許す。呼び鈴はやがて、絶え間なく鳴るようになった。ぴんぽん、ぴんぽん、が、ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ、っと警告音化する。
それが七分継続された。
やがて、五郷は身を越す。
そして、
「戦争だな」
と、いって立ちあがり、部屋を出た。
短い廊下を進み、格子戸を乱暴にあける。
腹は決めていた。こんなふうに狂ったように呼び鈴を連打する大人である、どうせ、まともではないだろう。
敵対的接客の一手だった。これしかねえ。
だが、いざ戸をあけて、ふたりの見知らぬ大人ふたりを前にして、五郷は自の正体を知ったに等しくなる。さっき、仏壇付きの自室において、これを戦争と決めた、が、まあ、そうはいっても見知らぬ大人の男が家にやってきた、少し怖い。なにか刺激して、ぶったたかれたりするのは嫌だった。
そもそも、今日は何でもない日、そういうつもりで、非生産的な時間をただただ重ねて過ごしていた。朝起きて、着替えだけして、そして夜までノンストップで、人生ストップ状態をするつもりだった。
今日という、この春の日を、戦争するつもりでは生きていない。
戸をあけ、大人ふたりを前にし、瞬時のうちに五郷の内部の感情冷却がなされる。彼自身これを、高性能ブレーキと評価して、自尊心を保って来た。
よって、五郷の対応はこうだった。
「………あー………はい?」
「おおおお、きみが五郷くんかぁ!」
四十代くらいの中年が問いかける。明るさより、馴れ馴れしさが目立つ口調だった。
相手はこちらを顏をふくめ知っているようだった。しかし、五郷には心当たりのない人物だった。通っている高校の教師に、こんな人間いただろうか。まずは生活圏から記憶をさぐったがみつけられない。もしかして遠い親戚だろうか、それもやはり記憶になる。
「いやはや」四十代の男は馴れ馴れしく肩を叩いて来た。「間近でみると、なかなかあれだね、ふっはは」
「………あの、なんでしょうか」
表情に、ますぐ帰れ、と気持ちを露骨に出してみせる。だが、目の前の相手には通じなかった。「いやはや、いやはや、きみが五郷くんか、そうかそうか、こんな感じかな、うん、そうかそうか」と、自由勝手な反応を放っている。
ここまでわかりやすく、拒絶の表情でも読み取れないとすると、もう社会人として終わっているな。と、五郷はきめつけてゆく。一方で、もうひとりのスーツの男。こちらは無表情だった。
いや、無表情ならまだよかった。よく見ると、ほとんど興味のない虫を観るような眸をしている。五郷と、そして、隣にいる四十代の男もその眸で見ている。
おいどうした、なんだ、急に、困った世界になってしまったぞ。五郷が頭のなかでつぶやいた。
「いやー、いやはや、はははは、急に来ちゃってすまんすまん、申し訳ないねえ! ふふ、ひひ、まま、はは、ね」四十代の男は独走めいた反応を続けた後「驚かせたね、はは! ねえ、うん、ああ、あ、私はね。矢山ってだよ」
「ややま………」
記憶になる苗字だった。
「きみのほら、元同級生の女の子の、父親だよ。パパなの、パパ」
「いや、あんたは俺のパパではないが」
「いやいや聞き間違えているって。だから、私ね、きみの同級生の、女子の、父親。矢山の父親」
「矢山………」
「そう、なんとね! 矢山かるめの、パパなの、わたしくね!」
巨大な事実を発表するかのような披露っぷりだった。
だが、五郷との温度差はひどく、しかも、根本的に脈絡のない発表だった。
ついてゆけるはずもなく、ついてゆこうという気力を消費する心当たりもない。
ほぼ無反応しか、手はなかった。
そして、五郷は「………え、なに?」と、眉間にシワをよせて返すしかなかった。それでも、まだ通じない。相手の感情を読み取る能力を、放棄したようだった。
「あのね、しつこいようだけど、もう一度説明しとくね、わたしは矢山ね、矢山かるめのパパね。覚えてるでしょ、娘のこと、かるめのこと? 君の小学校、中学校が一緒だったでしょ? あ、でね、こっちの人が木野目さんね。ま、わたしの相棒ってな感じの人」
紹介され、五郷が見返すと、木野目と呼ばれた男は、かすかに会釈をした。
おおい、受験の面接でそんな頭の下げ方なんだと、落とされるぜ。と、五郷は一年まえの高校受験での面接試験を思い出す。あの時、俺なんてのは、そりゃあもう全力で、大人たちに媚びを売ったもんさ、と懐かしむ。
それに、だいたい、組織などというもは、たいてい入ってしまえば、あとはやりたい放題だ。世界はぬるま湯で出来ている。
で、それはれとして、だからどうした、あんたたち。
そんな表情でふたりを見た。
「いやはや、突然来ちゃって悪かったねぇ」矢山はふたたび謝った。へらへらしているので、芯からの謝罪とは思えないのが致命的でもあった。「ちょいとまあ、急用があったもんでさぁ、、きみに」
「………俺に」
「うん、そうそう、きみに、ね、ピンポイントで、きみに。あるの、急用が。急なのが、誕生したったの、きみに、急な用事が」
「いや、そういうの、だいじょうぶです」
ワケは聞かず、きっかりと拒絶の意向を示す。
「おおそうか、だいじょうか! きいてくれるか!」
だが、矢山は都合よく日本語を消化した。
「よし、失せろ」
そこで五郷は直球を投げる。社会性維持のため隠していた苛立ちを、実用化してゆく。
「またまたぁ!」矢山は、持ち前の雑さを駆使して、いなしてゆく。「ま、ま、こんな玄関先じゃあ、あれだからさぁ! ね、ちかくの喫茶店でも行こうね、お茶飲もう! お茶! おごるからお茶、好きなだけ飲んでいいから、お茶!」
「いや、お茶お茶うるせぇな。つか、べついまそんな飲みたくねえだよ、お茶」
「おおう、そんなケンケンしないしない。だいじょうだいじょう、わたし、ほら、きみの同級生の、矢山かるめの父親だから、さぁ!」
「通報だな」五郷は決めて話す。「けっか、お巡りさんに射殺して貰う方向の通報になりますけど」
「物騒だね君は、もしや現代社会が生産してしまった、やっかいな若者なのかい?」
「そっちこ文明社会を拒んだ末にたどり着いた、みんなが処理方法を見失った生物にみえますぜ」
「うーん、木野目さん。これはきっとあれだねぇ、うーん」
と、矢山は腕を組んで唸る。じつに軽薄そうな唸り方だった。深く何かを考えているようにもみえない。
そして実質、自身の都合のよい間をとるためだけの唸りに過ぎなかった。
「こりゃあ、どうもこうも話もまともに聞いてくれなさそうだし、ねばっても絶対ダメそうだね、ああ」
「ヨシ。俺の邪念が通じたようで、なにより」五郷は遠慮なくいった。「なんか、もういっそ、死んでくれねえかな、って願う一歩手前ぐらいまで来てましたから、この心は」
「しかたないよ、木野目さん。これをお願いね」
矢山が何かを指示した。とたん、木野目が前へ出たかと思うと、ポケットから何かを取り出す。ガムテープだった。テープの端を持ち、びー、と音をたててひっぱると、粘着面を五郷の口へ張り付けた。そして、五郷が驚き、混乱しているすきに、今度は両目にガムテープを張った。
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