とりっくおあかけそば



 ドアに足を踏み入れるのは簡単だった。たしかに内側は歪に渦巻いて禍々しくはあったけれど、今更それを怖がっているような二人組でもない。

 中に入ると、束の間、体の上と下が捩れるような感覚があったが、すぐに慣れた。そして目の前に現れた次のドアを開けた。かくして叶十らは現実世界に舞い戻る。


「……」


 鼻を抜ける芳しい香り。

 ぐう、と条件反射で腹が鳴った。塩でも砂糖でもない魅惑の匂いに、もはや混乱めいた感動を覚える。


「おー、花奈はなそばに出たか。ここ安くてうめえからいいよな〜」


 飢餓感で我を失いそうになりながら、火の玉の言葉でかろうじて意識を保つ。どうやったらこの美味そうな何かを食べられるのか。こじんまりとした店の中で、そればかりを考えた。

 叶十には「食い物を奪う」という考えは薄く、むしろ「食事は自分で買うもの」という意識が古い習慣として(かろうじて)残っていた。たった数百円しか与えられない中での、苦しいやりくりではあったが。


「あ、そっか。あんたは食券とか知らねえよな。あれはな、まずお金入れてさ、食べたいやつのボタンを押すんだよ。するとちっこい紙が出てくるから、それおばちゃんに渡して。そしたら作ってくれるからよ」


 明るいところで見ると、ほとんど目の錯覚のようだった。叶十はしゃべる火の玉を眺めながら、そんなことを思う。

「ていうか、俺の声、もしかしてあんたにしか聞こえてない?」

「……」知る由もない。

「ま、いっか。他の客がいないうちに、食べちまおうぜ」

 こくんと頷き、券売機なるものに近づいた時だった。がらっと勢いよく引き戸が開く。入ってきたのはサラリーマンの二人組で、ぶつくさと文句を言い合っている。


「あのクソババア、ちょっと企画パクったくらいでギャーギャー喚きやがってマジでうぜえ。どうせ女がキャリア積んでもすぐガキ産んでやめんだから意味ねえっつーのに」

「無視するとすぐ泣きそうな顔してくんのもほんときついっすよね」

「女は黙って産んで増やして育ててりゃいいんだよな。どうせろくな頭もねえんだから」


 愚痴の内容は、もちろん叶十にはわからない。……わからなかったのだが、入ってくるなり自分の警官服をじろじろと見られ、何か言いたげなその目が気持ち悪かったので殺した。言いたいことがあるなら言えばいいのに、彼らは喉の筋繊維がストリングチーズのようにぶち裂かれる寸前まで、ついぞ何も言うことはなかった。


「ま、同じ男に対しては大人しいからな、こういうの」


 あっけらかんと赤い人魂。

「で、なに食う?」

「……」

 まず一つ。当然のこと、叶十には漢字が読めない。そして二つ。券売機のボタンのところには、例によって返り血が飛びまくり、大部分が読めなくなっていた。

「……」


 かけそば。


 なんとか読めたのはその四文字で、結果的に叶十はそっとボタンを押し、食券を一枚手に入れる。そんなのんびりした動作のうちにも、また数人のお客が入ってきて、苛立ち任せに叶十の背中をそれとなく、しかし悪意を持って強く小突くなどした。そして聞こえるか聞こえないかの声で「遅ぇんだよ……」と言って、振り返ると知らんぷりをした。誰が誰ともわからぬほど、皆似たり寄ったりの顔であったので、仕方なく全員殺した。


「……」


 半分血に濡れた食券を持ち、カウンターに行く。若い女が一人立っていた。彼女は先程の殺戮の一部始終を目撃しており、ずっと逃げるチャンスを窺っていたのだが、もはや足は恐怖にすくんで動かず、冷や汗が滝のように衣服の下を伝うばかりだった。


「あ? なんだ、このお姉ちゃん。固まっちまって。普通『そばですかうどんですか』って店員から聞くもんだが……あ! なるほど」


 火の玉は、レジの横に置かれたオレンジ色のポップの文字を読み、叶十の耳元にひそひそと囁く。言われた側は、いまいち腑に落ちない顔をしたが、「バーカ、こういう時は便乗しとくもんなんだよ!」と明るく笑われ、渋々半券をカウンターに置きながら、たどたどしくこう呟いた。


「と、とりっく、お、あ、とりいともてなすか死ぬか……」


 ばたん。ついに血の気を失って倒れる店員。その倒れた衝撃で、レジの横の、


[ハロウィンのあの言葉を言った方には月見卵無料サービス! ヒントは『お菓子』!]


 と書かれたポップもかたんと倒れ、呆気なく床の上に落ちた。

「あ? お、おーい。これで合ってるよなー?」

 火の玉の言葉も虚しく、反応がない。すると店の奥から、今度は大柄の女が現れた。彼女は変わり果てた店内の様子を見て、ほんのわずか眉を上げたが、それだけだった。それから何事もなかったように、カウンターに乗せられた赤白の半券に目を落とすと、

「そばでいいんだね」

 と言った。叶十はもちろん頷いた。

 


「……!」



 数分後。

 提供された美しい器の食べ物に、叶十は言葉を失った。そもそも言葉などほぼほぼ発さないが、それはそれとして。なんという黄金色のつゆの輝き。顔に当たる幸福な湯気。そしてとりわけ美しい、まろやかな黄色。


「おっ、よかったな。ちゃんと卵乗せてもらえて」


 きらきらと光るそれに、そっと箸を差し込んだ。箸の使い方は体がなんとか覚えている。つるりと滑らかな生蕎麦。絡みつく卵黄。ふわりと漂う優しい出汁の香り。堪えきれずに啜り込む。涙が出るほど美味だった。


「水、置くよ」


 無心でそばをかき込む叶十の横に、コップ一杯の水が置かれる。先ほどの大柄の女が、珍しそうに叶十を——そしてその横でくるくる回る火の玉を見ていた。

「あっれー。あんた、俺のこと見えんの」

「見えるよ」

「あらそお。その様子だと声も聞こえてるらしいな。にしても、大したタマだね、あんた! 普通逃げるから。てか、他の店員は実際逃げたんでしょ?」

 女はおもむろに煙草を取り出し、火をつけて吸い出した。遠い目で、小窓からせわしい往来を見つめている。


「立ち食い蕎麦屋の店主風情がなんだけど、最近じゃ客の質も落ちたもんだよ。『俺がこんなとこでこんな餌食って生きてるのは何かの間違いだ』って顔をする。作る方だって嫌になる。でもねぇ。こんなに腹を空かせたのが来て、それを空腹のまま返したら、私もいよいよおしまいさね」


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