おばけやしき




 白拍子の最後の一人の潰れた心臓が、手の上で冷たくなるのをじっと見ていると、背後から男の声がした。


「あーららぁ。思った以上に瞬殺だったねえ!」


 叶十が振り返ると、そこにはなぜか火の玉が浮いていた。ルビーのような赤色に輝いて、喋る言葉に合わせてチカチカと点滅している。

「……?」

「いや、俺だよ俺。浅里圭吾。お前の救世主さま! ほら、鍵持ってきてやったろ? そりゃ俺だって、あーこれ死んだわ〜とは思ったよ、でもこんな姿になってたわけで」

 語りながら、火の玉は牢獄をふよふよと飛び回る。

「理屈をつけるなら、最後の鍵を差し込んだのは俺で、でも回したのはお前だから、俺の魂の欠片がこの世に残ったとかかね。いや〜しかし、肉体がなくなったら細かいことが気にならなくなったっていうか……結構気分いいんだわ! 腰痛もねぇしさ!」

「……」

 叶十は言葉を返す代わりに、持っていた心臓の残骸を、ハンバーグのタネのように激しく床へ叩きつける。

「およ? 御機嫌斜めじゃん。腹でも減ってる?」

「……」


 ぐううう。


 見計ったように鳴る腹の虫に、喋る火の玉、もとい浅里は朗らかに笑った。

「おーおー、そりゃあそうだな。人を殺しゃあ、腹も減るよな! ましてオッサンの肉なんて、硬くて食えたもんじゃねえだろ。じゃあ早速なんか食いに、いや、といっても、お前のその格好じゃあ……」

「?」

 血まみれでボロボロの囚人服を纏っていた叶十は、何を言われているのかわからず、首を傾げる。そのやつれた顔にも、伸ばしっぱなしの黒髪にも、当然返り血と肉片がべったりとついている。

「ま、まあ、俺の制服でも着てみる? サイズはでかいかもしれんが、そんなペラッペラの布っぽい服よりかはマシだろ!」

 くるくる飛び回る火の玉に促され、死体から警官服を剥ぎ取ると、叶十はおずおずと袖を通す。確かに多少ぶかぶかではあったが、携帯ナイフで髪を切り、ハンカチで顔の汚れを拭き、仕上げに帽子を目深に被れば、それっぽく見えないこともない。少なくとも浅里にはそう思えた。

「よーし完璧! じゃ、飯食いに行くぞ。財布もポケットに入ってるから使ってくれや。潤沢な資金とは言えんが、あんたの飯代には足りるだろ」

「……」


 衝動のままに殺し終えた今、空腹感の他には何も意思などない叶十は、言われるがまま歩き出す。


 監獄はどこもかしこも冷たく、寒く、暗かった。


 廊下を進んでいきながら、また白拍子を何人か殺した。薄っぺらい紙の鳥の群れを飛ばしてきたり、狐の霊を差し向けてきたりした者もいたが、よくわからないうちに死んでいた。たぶん大した奴ではなかったのだろう、と叶十はぼんやり思った。

 やがて立ち向かう者もいなくなり、白拍子たちは叶十の顔を見ると逃げるようになった。ずるずると重い体と服を引きずって歩きながら、彼は逃げる者をただ追いかけた。幸せは、歩いて来ない。そんな歌が頭に蘇る。だから、歩いていくんだね。


「嫌、嫌、嫌だ、」


 べっちゃりと床や壁に飛び散った肉塊の道の先で、若い男の白拍子が、突き当たりの壁に半狂乱で魔法陣を描いている。距離にして約50メートル先。叶十はそちらへゆらゆらと歩いた。死に物狂いで文字を書きつけながら、悲鳴が上がった。筆記具がわりの石が指の間から転げ落ち、闇に消えたのだ。


「あ、ああ! あっ、」


 火の玉の深紅の光が、絶望の顔を照らした瞬間、その額がぼろりと抉れ落ちる。染み込むように叶十の手の指が埋もれ、朧豆腐によく似た蒸栗の脳が滴りこぼれた。


「……」


 手指にふやふや粘っこく絡み付いた、カスタードクリームに見えなくもない物体。ごくり、と叶十の喉が鳴る。淡い期待に冷たい胸をときめかせながら、少しずつ、そろりそろりと、マスクを取って口元へ——


「おい! 何やってんだ!」


 びくっ! 

 痩せた体が咄嗟に強ばり、怪物の目がはっと見開かれる。突然の怒鳴り声に、継父のことを思い出した叶十は、しゃがみ込んでぶるぶると凍えたように身を震わせた。

「あ? な、何、そんな震えてどうした? 俺、ちょい強く言いすぎた?」

「ご、ご、ごめん、なさ、あ、ああ」

「あー、いや、違うんだ。別にキモいとかじゃなくてさぁ。今そんなもん食ったら飯が入らなくなるぞー? って言いたかっただけなの、俺は……」

 よーしよしよし。

 撫でるように頭の上をチカチカ飛ぶ火の玉を見ているうちに、叶十は平静を取り戻した。不思議なものだった。暗闇の中で薄ぼんやりとした光を見ていると、なんとなく落ち着くのは。

 そうこうしていると、未完成だった魔法陣がなぜか轟々と音を立て、仄かな光と共に起動する。吹き付けられた返り血によって、足りない部分が偶然書き足されたらしい。それは空間移動のためのポータルのようだった。叶十には呪術の知識などもちろんないが、なぜかそんな予感めいた確信がある。


「お? これ、なんかどこでもドアっぽいじゃん」


 それは人魂となった浅里も同様らしく、怪物にしかないある種の直感なのかもしれない、とわずかに思ったり思わなかったり。

「んー、そういや今日はハロウィンだったな。渋谷でもいく?」

 渋谷という単語が何を指すのか、叶十にはわからない。わからなかったが、頷いた。とにかく、腹が減っていたから。

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