かそうぎょうれつ
「よく今日まで生きててくれたな、バケモン!」
浅里圭悟はそんな軽口を叩いて笑う。彼はいつでもそうだった。警察学校でも、警察になってからも、雨の日も風の日も。きっと死ぬまで——死んだ後でもそうだろう。
「なんで俺がここにいるのか、不思議か? なんでお前の独房の中に、お前の拘束具の鍵を持って立ってるのか、わからないか? そりゃあ、そうだろうよ。俺がお前の立場でも、きっとわからねえと思っちゃうね」
ちゃり、ちゃり……と金属の揺れる音が、かすかに闇の中で反響した。
「あのさ。俺はもう死んだっていいと思ってる。だって警察なろうとか思ったのも、家族が皆死んだからだしね。押し込み強盗ってやつ? まあ、さして珍しかないさ」
4本の手足に、4本の鍵。
まず左手を外しながら、浅里は言う。
「まあね、そんな俺でも最初は思ってたけどね。正義を為したいって。悪党共をムショにぶち込んで、臭い飯食わしてやるんだって。でも気づいたんだ。本当に悪い連中は捕まりゃしない。捕まってもすぐ金置いて出てく。そんでまた悪さのし放題だよ。わかるかい?」
叶十の口にはもちろん口枷が付けられていて、目には目隠しがされていた。だから答えることなどできなかった。だが、声はちゃんと聞こえている。内容を理解できているかはともかく。
「俺が戦わなきゃならなかったのは、犯罪者なんかじゃなかったんだ。この国だよ。あんな腐った蜜柑を平気で放置して、周りの良い蜜柑ごと全部ダメにしちまう、この
次に左脚の鍵が外れる。かしゃん、と軽やかな音。
「しかしつくづく不思議だね。なんで上は、あんたをさっさと死刑にしちまわなかったのかね。虐待受けてたから? 人権団体とかの圧力? 何にしても釣り合いとれねぇと思うけどね、俺は。だって250人も殺してるじゃん、おたく。詳しい事は知らねぇが、これもう秘密裡に抹殺していいレベルだろう。違うか? んん?」
継父が死んだ後の記憶は、叶十にはあまり残っていない。ただ、浅里が読んだ警察の機密情報フォルダのとあるページには、こう書いてある。
その日、近隣からの通報を受けて、部屋に突入したのは5人の警官だった。
部屋には5歳の男の子が立っていた。
彼が一歩、こちらに歩み寄ったとき、警官はすでに4人になっていた。
「250歩って、おおよそ200メートルとか聞いたけど……路上の仮装大会で
記憶と呼べるようなものなど無いに等しいが、それでも叶十は不思議な身体感覚を覚えている。自分が歩くたびに、人が死ぬ。反射的に手足が出る。血。肉。焦げたキャラメルの甘い匂い。
「——何をやっている、浅里」
右手の錠を開けた瞬間、また別の声が牢獄に響く。浅里が虚ろな目で振り返ると、そこには、白拍子の格好をした覆面の男たちが立っていた。手には特注の銃と綾織竹風の警棒がある。
彼らは警察の中でも、ごく限られた者にしか存在を知られていない、特殊な仕事を請け負う警官たちだった。
「浅里圭吾。お前は自分のしたことの重大さがわかっているのか。その枷は、囚人の肉体的実存を保持するための、特別な呪具だ。その錠を一つ開けるのに、お前の生命の四分の一が消費されるのだぞ」
「だから何だよ」
「お前は何も分かっていない。枷を失えば、甘寺叶十の魂は三有に解き放たれ、殺戮の限りを尽くすだろう。故に我々は、対怨霊結界『
「はは」
何言ってんのかわかんねぇや。
薄ら笑いを浮かべ、最後に残った右脚の錠に鍵を差し込もうとしたとき、真っ暗な独房が白く光る。
破裂するような音。
その一瞬の後、再び闇に包まれた部屋の中、生暖かい血で染まる壁に、苦しげな顔の浅里はぐったりともたれていた。探るように胸の傷口に手を当て、泉の如く溢れる体液に自嘲して綻ぶ口が、ごぼりと赤い泡を吹く。
「おい。おい。なんで。なんで撃つ。痛えよ。なんでだよ、ええ? なんで、なんで俺が、俺が……お偉いさんの息子じゃないからかい」
「何を言ってる」
「警察官僚の身内なら、何してもいいってのか、ええ? 俺ぁ頭が悪いからさ、教えてくれよエリートさん。警視総監の孫ならお咎めなしか?」
口内に溜まった血を吐き、彼は自嘲気味に笑う。
「俺の親父もお袋も、この際、いいよ。こんな腐った世の中、三十年も生きられりゃ、堪能できたも同じだろ。でも——たった5歳の女の子が犯されて殺されて許されるだなんて、そんな法は、ねえや」
血濡れて震える人差し指を上げ、白拍子に向けて突きつける。
浅里圭吾を知る者は、皆言う。彼はいつでも笑顔だと。警察学校でも、警察になってからも、雨の日も風の日も。きっと死ぬまで——死んだ後でもそうだろうと。
しかしこの時、彼は少しも笑っていなかった。
「大概にしろ! こんな不平等な話があるかい、ええ? なーにが弱者に優しい世の中作りだよ。政治家も俺らも、みんなバカだ。弱いやつだけ死んで、他はのうのうと生きるくらいなら、みんなバケモンに食われちまった方がいい。誰もやってくれないなら、俺がやるしかねえだろうがよ!」
がんっ。
まるで壊れたラジオを叩き割る作業のように、特殊警棒が頭を殴りつける。声はぴたりと止んだ。白拍子の男たちは列になり、輪になり、倒れた男を取り囲む。
「笑止千万。本当に使えない
殴打。殴打。殴打。
認識できるのはその気配だけで、あとは自分の右脚の鍵穴に、ぎりぎり引っ掛けるようにして差し込まれていた鍵に、囚人はぼうっと思いを巡らせていた。この二十年の間、完全な闇の中、点滴以外は与えられず、考えるべきこともなかったので、急には頭が動かない。ぼろぼろに壊れたビーズ細工をかき集めて、石をテグスに通すように、思考の仕方を思い出す。
「取ってこいも待てもできないくせに、飼い主の手を噛むことだけは上手いとはな……子供だから何だというんだ。遅いか早いかの違いだ。お前の言うように世界が汚物塗れなら、いつ、どんな風にして死んだって、一向に変わらん」
ぱちり、ぱちり。
飴玉のような一粒が、思索の糸を通って、落ちる。
一個、また一個。
『ああああははは! あああああああ! ぎゃああああああああああ!!!』
子供の気狂いじみた笑い声がふと聞こえた——近所の公園。ニタニタした顔に囲まれて、おもちゃを取られる。口の中に入った砂の味。鉄棒と靴。これ見よがしに食い散らされる、ポテトチップにチョコレート。
落ちた屑にたかる、蟻の列。
「……」
蟲に手を伸ばし、何匹かをつまみあげる。指の隙間をすり抜けて、皮膚の上を這い上ってきた一匹を、指の腹にそっと掬い取って。
手首ごと回すように、
かしゃん。
「な——おま、え」
空腹感。
四肢の枷が全て取れた瞬間、彼の全身に走った感覚はそれだった。白拍子の男たちは、しゃにむに呪文を唱え始めたが、何も聞こえない。あまりにも空腹で、空白で、頭が焼けそうだった。何もなかった二十年。呼吸と点滴だけの二十年。
「……」
目隠しを取り、口の覆いを外した。涎が糸を引き、冷たい床にぼたぼたと落ちる。
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