駄犬も歩けば人を殺す

名取

じゃっくおらんたん




 甘寺叶十かんてら かなとが人として覚えている最後の記憶は、愛犬の冷たくなった死体だった。


「幸せは、歩いてこないっ! だーから歩いていくんだねっ!」


 そんな楽しげな歌が、何回も何回も何回も何回も何回もテレビから流れ続けていたけれど、目の前の愛犬はぴくりとも歩かなかった。幸せは歩かない。もう二度と。幸せは、自分のもとへは、もう歩いてくることはない。飢えた腹と吐き気とタバコの匂いの中で、そんなことを思っていた。


「人生はっ! ワン、ツー、パーンチ!」


 視界が眩む。遅れて痛み。


 自分の体は恐ろしく重く、床に転がる音が耳の中でひどく反響した。キ—————ン。空になった汚いグラスと、灰皿が見える。


「へっ、へへへへ、うははははは。おめえもよ、あのクソ女に似てよ、頭空っぽのグズだからよ、殴るとホントにいい音がするなあ。中が空っぽだからこそよぉ、よく音が響くんだろうなあぁ。なぁ、ええ?」


 彼は小さく愛犬の名前を呼んだ。無意識の防衛反応だったのだろう。崩壊しそうな頭の中を、どうにかつなぎとめるもの。谷底に落ちる間際につかむ、吊り橋の残骸。最後のロープ。彼はそれを、必死で握る。何度も、何度も何度も何度も、愛犬の名をぶつぶつと、小さな声でつぶやき続けた。


 しかしそんないじらしい行いが、かえって継父の苛立ちを呼んだ。


「ああああああああうるせぇあぁぁあ!!!! てめえぇは犬かよおぉぉお」


 叶十少年の幾万倍もの大きさの声で彼は怒鳴ると、老犬の亡骸に手を触れた。それからクリームパンをちぎるように——


「腕を振ってっ! 足をあげてっ!」


 力なく見開いた己の眼球の前に、それはまるでピニャータを割ったあとの、キラキラの包装紙に入ったお菓子のように、ギトギト光る腸や臓物が溢れてくるのを見ながら——叶十少年は脳がふわふわと溶けていくのを感じていた。たとえばそれはカスタードプリン。あるいはそれはコットンキャンディ。不思議と甘い感覚だった。歌は続いていた。愛犬の手足はとっくになかった。それでも歌は続いていた。


「幸せはっ♪ 歩いてこない♪」


 歌詞の続きは、意識などする前に口に出た。馬鹿みたいに繰り返し繰り返し見せられたビデオ。それしか与えなかった親。少年の空っぽの脳には詩しか残らない。気持ちとは何の関係もない、ただ覚えやすかっただけ。ただそこにあっただけの歌。


「だから あるいていくんだねーー」


 何が起きたか、何をしたか。


 それは彼自身にもわからない。でも気づけば継父は死んでいた。一歩、ただ一歩。立ち上がって歩いたその後には、死んだ男の亡骸があった。手には灰皿があった。



 この日から、彼は人ではなくなった。



 たとえばそれは、墓地に最初に埋められたブラッグドッグ。あるいはハロウィンのジャック・オ・ランタン。空っぽ頭のカボチャ男。

 どのみち彼が成り果てたのは、奈落の怪物——どこへも行けない、この世とあの世の間を彷徨う魂。それが、今の彼のすべて。

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