第3話 文学少女

 恋に落ちた音がした。それはクピドの放った矢が空気を切る音と似ている。分厚い文庫本を持つ細く長い指、西日に照らされて物憂げな表情を浮かべる尊顔、バス停で待つ姿は自分の住む世界とは全くの別物だと実感した。


 社会主義と国の未来、というタイトルの本だったと思う。学校の図書館の社会分野の棚を必死に探しながら、あの人の姿を思い出していた。初めて来た図書館は紙の匂いで充満していてなぜか心が落ち着いた。あの人に後ろからハグされているような、頭を撫でられているようなぽかぽかした陽気に包まれた。

 目当ての本がなかったので、今話題の映画の原作小説を借りた。記憶喪失のヒロインと人間不信の主人公に恋心が芽生え、ヒロインの記憶が戻り、全てがハッピーエンドになる物語。それは映画館で見た時も涙を流すくらい好きだった。あの感動をもう一度味わいたかった。自分もあの世界の登場人物になりたかったのだと思う。

 日本語で綴られた世界は映画で見るよりも魅力があって惹かれた。自分の頭の中で物語が進んでいくのが妙に楽しかった。


 次は推理小説を借りた。天才名探偵と稀代の怪盗の熾烈な戦いが非現実的で忘れられなかった。その次は弱小駅伝部の快進撃の話、古代神話をオマージュした話、人気アニメがノベライズされたもの。頭の中で踊る文字の羅列がまとわりついたメッキを剥がし、文学の糸で編まれた柔らかな衣装で身を飾り、徐々に自分をあの人好みに形成していった。


 あの人に一目惚れしてから3回目の冬が来る。もうそろそろ決意しなければ。あれから図書館の本をほぼほぼ読破した。社会分野の棚は半年で読み尽くしたし、あの人が読んでた本も司書さんに頼んで貸し出してもらった。今では介護離職問題や消滅可能性都市についても持論があるくらい勉強した。今ならあの人の恋人にだってなれる気がする。


 自然とあのバス停へ足が動いていた。あの時はまだ夕日が残っていたけれど、今はすっかり日が落ちている。心臓の早い鼓動が血液を排出し、熱を持った赤い恋慕の液体が身体中を駆け巡った。二酸化炭素の息が一瞬、目の前を白くした。

 この坂を登ればバス停が見える。恐怖心は白い息と一緒に夜空に溶けた。



 そこにはすっかり背が伸びて大人になったあの人と、彼にお似合いのすらっとした可愛い女の子が仲睦まじくバスを待っていた。脳が思考を始めるのと同時に彼はこう呟いた。


 「月が綺麗ですね」


 頬を少し赤らめた彼に女の子は

 「うん!確かに満月できれいだね!」

 そう元気よく答えて彼と手を繋いだ。持っていた文庫本の面影はもうない。


 私は俯きながら彼の求めていたであろう言葉を口にした。それは多分誰にも聞こえていないし、聞こえても意味のないものだった。せめて頭上に輝く天体にだけは届いてほしい。この光もどこかのバス停から見える西日なのだろうか。そう思いながら私は踵を返した。



 「死んでもいいわ」


 

               おしまい

 







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