4 誰もが同じ約束を
夜半、ユキがいなくなったことに気づいたレヴィンは、窓の外にちらつく雪を眺めながら、そのまま夜を明かした。
この冬はじめての雪は音もなく未明まで降り続いたが、地に落ちるたび儚く消えてかたちを残すことはなかった。湿った地面が、朝日に照らされて少しずつ色を薄くしていくころ、レヴィンはようやく窓の景色から視線を外し、動き出すことを自らに課した。
温もりが失せて久しい寝台を整えながら、次にすべきことを頭の中でなぞっていく。身支度を整え、部屋を出て……エルマとゼルマに、ユキがいなくなったことを話さなければならない。すべてを語ることはできなくても、できるかぎりのことを、嘘をつかずに伝えよう。そのあとは朝食をとって、いつも通りの一日を過ごす。
大丈夫だ、とレヴィンは自分に言い聞かせた。
彼女のいない二月だって、そうやって過ごしてきたのだから。それが、ずっと続いていくだけのことだ。
「……レヴィン?」
耳に届いたその声に、レヴィンはほとんど反射的に背後を振り返った。
さきほどまで自分がいた、この部屋の窓際。そこに、見慣れた少女の姿がある。
差し込む光を背に受けて立つその顔は、まぶしさが邪魔をしてよく見えない。その不確かさが、レヴィンの不安を掻き立てた。これは、ただの夢なのではないか。不用意に触れようとすれば、消えてしまうのではないかと。
レヴィンは困惑して、立ち尽くした。
すると少女はゆっくりとレヴィンの前まで来て、伸ばした手のひらで彼の頬に触れた。
「……どうしてこんなに冷たくなってるんだ……?」
驚いた顔をしたユキが、もう片方の手も伸ばす。少女の温かい両手が、レヴィンの頬を包んだ。
一晩中、窓際にいて冷え切った皮膚に、少女の手は熱い。その温度はじんじんと脈打つように染み込んで、レヴィンの中に広がってゆく。寒さに凍りついていたものが溶け出すように、ゆるんだ眦の一方から涙がこぼれ落ちた。
「……ぁ、」
自分でも唖然として、声が漏れた。とっさに止めようとしても、体の中の制御できないなにかが次々と涙をつくりだすから、溢れてしまう。
果てのない、喪失だと思っていた。彼女の声も、言葉も、この温もりも。もう二度と、感じることはできないのだと。
「……レヴィン」
名を呼ばれ、歪んだ視界の焦点を目の前の少女に合わせる。
「ユキ……?」
こちらを見上げるユキは、痛みを堪えるような顔をしていた。頬に置かれた彼女の手が、かすかに震えている。そこに己の手を重ね、「どうした?」と問うと、色を失うほど引き結んでいた唇がゆっくりと開いた。やがて彼女らしい淡々とした口調で、最後の神と対峙したときのことを話し始めた。
いつのまにか温かさを感じなくなった少女の手は、話の途中で力を失ったように重さを増していった。その手をつかんだまま、レヴィンは黙ってユキの話に耳を傾けた。
「――だから、私がここにいるのは、時間の引き延ばしに過ぎないんだ。いつかイレイネシアが本当に耐えられなくなったとき、私は今度こそ彼女のもとに還る」
説明の最後をそう結んだユキは、唇を歪めて視線を伏せた。
「なら、それまでは一緒にいられるんだな」
安堵の滲んだ声でレヴィンが言うと、ユキは驚いた様子で顔を上げた。
「ちゃんと聞いてたか? また、いなくなるんだぞ。しかも今度は、それがいつになるのかもわからないのに……」
「聞いていた」
答えたレヴィンは、小さく口端を引いた。
もう二度と会えないと思っていたところを、再び会えた。だというのに、どうして自分たちは、素直に喜ぶ、ということができないのだろう。そう思ったら、少し可笑しかった。
「おまえは優しいから、きっと私を責めないとわかってた。わかったうえで……もう一度おまえを傷つけてしまうことよりも、一緒にいたい気持ちの方を優先したんだ……」
「ユキ……」
とっさにかけるべき言葉を見つけられなかったレヴィンは、ただ彼女の名を呼んだ。
一緒にいたいと望むことの、なにがいけないのか。相手を失う苦しみさえ傷つけることに入るというなら、人を傷つけないつながりなど、ひとつもなくなってしまう。それをユキに伝えようと言葉を探すうち、不意に、かつて言われた言葉が脳裏に響いた。
――おまえ、かわいそうだよ。
本当の友達になろうと思ったのだと、そう言ってくれた少年の言葉。
滅びの種と呼ばれる自分とかかわることは、彼を傷つける。それくらいなら、離れたほうがいいと思った。……それは嘘ではない。
けれどあのとき、レヴィンの心を占めていたのは、ただ彼に、ティルトに嫌われたくない、という思いだった。
彼と過ごす時間は楽しかった。対価と引き換えに友達のふりをしてもらっているだけ、他愛もない会話をするだけだったけれど、それだけのことが本当にただただ楽しくて、まぶしくて――だから怖かった。
もし、自分といるせいで彼が傷ついて、いつか自分を疎ましいと感じるようになったら。今、向けてくれているその笑顔は、拒絶に歪むのだろうか。それを想像するとたまらなく怖くて、しんどくて、だから友達のふりをやめたいと彼が言ったとき、あっさりと受け入れたのだ。いっそ手放してしまえば、嫌われることもないと。
そんな自分に彼が告げたのが、かわいそう、というその言葉で、以来、それはずっとレヴィンの中に重く残り続けてきた。
唐突に、そうか、と理解が通り抜けた。直面している状況は違っても、今の自分はたぶん、そのときと逆の、ティルトの位置にいて、目の前の少女はかつての自分の立場にいる。
ただしユキは、嫌われることを恐れて退いた“かわいそう”な自分とは違う。傷つけることを恐れながら、それでも手を伸ばしたのだから。
今、ユキがここにいるのは、彼女が帰りたいと望み、考え、行動してくれた結果だ。ユキが諦めずにいてくれたから、レヴィンは彼女を失わずにすんだ。それがどれだけ自分を救い、歓喜させたか。
傷つけず、傷つかず、泥のつかない道ばかり探してなにも選べなかった自分は、大切な人に大切だと伝えることすらできていなかった。今もこうして、ユキを掬い上げられるような綺麗な言葉を見つけようとして、結局、なにも言えないままで立ち尽くしている。
「それでも……」
なにかを言おうとして、レヴィンは息を吸い込んだ。
「……嬉しかった。嬉しかったんだ……だから涙が出た」
思いつくまま、途切れ途切れに気持ちを言葉にしていく。
「優しいから責めないんじゃない。責める理由がないんだ。いつかユキを失って、そのことで苦しむ日が来たとしても……それでもユキと一緒にいられる時間の方が……きっと、ずっと重いから。一日でも長く一緒にいたいと思っているから」
あのときの自分も、こんなふうにティルトに気持ちを伝えていればよかったのだと思った。もう少しだけ一緒にいたい。けれど、嫌われることが怖いのだと。正直に伝えた自分を、彼は責めただろうか。……責めないような気がした。彼は善良でありたいと願う、優しい人だったから。たとえ受け入れてはもらえなかったとしても、もう少しまともな別れ方はできたのかもしれない。
「涙は、悲しいとき以外にも出るものなのか……?」
そう尋ねるユキに、レヴィンは気づいた。彼女にとって涙とは、悲しいときに流すものだったのだ。だから涙を流したレヴィンを見て、悲しんいるのだと誤解して、動揺した。
「涙は、感情が高ぶったときに出るものだ。悲しいときにも、嬉しいときにも人は泣く」
くしゃりと顔を歪ませた少女が、勢いよく額からレヴィンの胸に飛び込んだ。いっそ頭突きと呼んでもいいその衝撃をなんとか受け止めたレヴィンは、小さく息を吐いた。
「……いずれいなくなるのは、ユキだけじゃない。俺もエルマもゼルマも、みんないつかはいなくなる。それがいつなのかなんて誰にもわからない。だから、なにも特別なことじゃないんだ」
いずれ終わる。それが明日か、一年後か、数十年後かはわからなくとも。進む果てに終わりがあることを、知らない人間はいない。それを意識していてもいなくても、誰もが同じ約束を抱えて、かぎりあるときを生きている。
だから本当は、最初に伝えるべきだった。愛しい存在がたしかに腕の中にあることを感じながら、レヴィンはようやくその言葉を口にする。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
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