3 最後の神
雨音が、静かに響いていた。
それは弱くも激しくもなく、同じ音の重なりを絶えず伝えてくる。単調で柔らかな響きに意識を寄せれば、睡魔のふちに手をかけたときのような穏やかな心地よさがあった。
呼吸するたび鼻腔をくすぐるのは、湿った土と青い匂い。雨に濡れた樹木の、色濃い気配がした。
まるで、レヴィンとはじめて会ったあの森のようだ。
雨粒が皮膚を打つ冷たい感覚はない。かわりに、少し前までたしかにあったはずの温かさが感じられなくなっている。
ユキは目を開いた。
視界に飛び込んできたのは、想像した通りの雨降る森の光景。立ち尽くしたまま、それを呆然と眺めていると、背後から細く高い少女の声が聞こえた。
「目が覚めた?」
振り向いたユキは、驚愕した。
鏡で見る自分とまったく同じ顔をした少女が、そこに立っている。違うのは着衣くらいのもので、寝間着を着ているユキに対し、目の前の少女は簡素な白い貫頭衣を身に纏っている。
「私が誰かわかるかしら?」
ユキの視線を悠然と受け止めながら、少女は首を傾けた。
問われてようやく、ユキも冷静になることができた。移動した覚えもない場所にいること。自分と同じ容姿の少女。もし、これが夢でないのなら、そんなことが起こりえるのは自分が神の娘であるからだ。ならば、目の前の少女の正体はひとつしか考えられない。
「……イレイネシア」
この国をまもる、最後の神。
微笑んで「正解」と告げた少女は、ゆっくりと腕を伸ばしてユキを抱きしめた。
「おかえりなさい、
自分と同じ声が、耳元でそうささやく。
瞬間、たくさんの情報が彼女の中に入り込んできた。激しい流れのように押し寄せるそれは、あまりに多く混沌としていて精査のしようがない。次々と頭を過ぎっては通り抜けていく断片的な情報に、処理が追いつかないユキはただ困惑した。
「すべてを拾う必要はないわ。今はただ、あなたが生まれてきた意味を知ってほしいだけだから」
膨大な情報は、彼女の言葉によってひとつに意味づけられ、集約された。自分の生まれてきた意味。神の娘に課せられた本当の役目。
すべてを理解したユキは、ああ、と嘆息した。
神の娘とは、その存在をこの国の人間に説明するとき、彼らが理解しやすいようにと、イレイネシアが付けた便宜上の呼び名に過ぎない。
神の娘は、イレイネシア自身なのだ。
自分は――ユキは、彼女の欠片。彼女の一部を切り離し、真っ新に漂白して人の肉体を与えたもの。この国の神としてではなく、無力で無垢な少女として、もう一度この国を知るための。
彼女にはそうしなければならない、理由があった。
「同期の準備は、もうできているの」
イレイネシアは静かに告げた。
「これから、あなたの時間を再生するわ」
あなたの選んだ結論も、その中で知ることになるでしょう、とささやく。
目に映る雨の森。
よくよく見れば、降り注ぐ雨粒は自分を通り抜けて地面へと染み込んでいる。それでは冷たさも感じないはずだ。眼前に広がる景色を眺めながら、ユキは納得した。たしかに自分の時間を遡るならば、始点となるのはこの光景だろう。
やがて、イレイネシアによって生み出された自分がこの地にあらわれた。レヴィンと出会って目覚めたそれは、ユキとしてのときを歩み始める。
己の経験した時間が、瞬く間に再生されていくのをユキは見ていた。
レヴィンの屋敷でエルマとゼルマに出会い、当たり前の生活を営むすべを身につけながら、レヴィンの隣で穏やかな暮らしを知っていった時間。王城でエイリックによって真実を知らされたあとの、レヴィンとの別れ。離れていたときの途方もない寂しさと、彼を守りたいとはじめて望みを抱いたときの気持ち。再会し、屋敷に戻ったあとの、レヴィンと過ごす時間の重さと愛おしさ。
最後に、眠るレヴィンの腕から自分が消える瞬間を目にして、ユキの胸は潰れそうになった。
「……そう、レヴィンが好きなのね。彼を守るために、この国を残すことを選んだの」
抱きしめていたユキを細い腕から解放して、イレイネシアは言った。
「大丈夫。あなたのその気持ちが、レヴィンの生きるこの国をまもるから」
イレイネシアの手のひらが、優しくユキの頬を撫でる。その手を、温かいとも冷たいとも感じないのは、自分たちの持つ温度が等しいからなのだろう。
「……もし、この世界に創造主がいるとしたら、とんだ失敗作だと思っているでしょうね。私たちが抑止力となって明るい方へ子どもたちを導けていたら、今ごろはもっと多くの国が残っていたはずだもの」
少女の姿をした最後の神は、そうつぶやいて、悲しげに微笑んだ。
かつて世界に溢れていたはずの神々は、子どもたちへの失望とともに次々と滅んでいった。二百年前、ついに最後の一柱となったイレイネシアは、ひとりぼっちで世界に取り残された。この先ずっと尽きることのないだろう孤独と、愛する子どもたちが抱える悲嘆と諦念。それを終わらせる方法は、ひとつしか思い浮ばなかった。
――いずれ国は滅ぶのだろう。
イレイネシアはそう予見していた。そう遠くない、いつか。自分は信じることに疲れて、この国に失望する。そのとき孤独に飲み込まれた心は、終わりを求めるだろう。
――けれど、それは今日ではない。
今はまだ、子どもたちの心のすべてが、苦悩に染まっているわけではない。悲嘆と諦念を抱えながら、それでも今日と向き合う者たちがいるなら、それを終わらせたくはないと、イレイネシアはまだ、そう願うことができた。
神の娘は、そんな彼女の願いを保つために必要な手立てだった。
神としてではなく、無力で無垢な一人の少女として、この国を守りたいと思えること。想いの根源が、なんであったとしても構わない。重要なのは、神の娘の抱いた思いが、イレイネシアの中に還ることだった。それによって次の百年まで、彼女の願いを持続させられる。
ともすれば簡単に失望に染まってしまいそうな自分から、この国をまもるため。イレイネシアは神の娘を生み出し、事前知識を与えた王族のもとへと送った。国を存続させるため、彼らはきっと神の娘にこの国を守りたいと思わせてくれるはずだから。
「聞いてもいいか?」
ユキの問いに、イレイネシアは目を細めた。
「あなたは、前の二人とは全然似ていないのね?」
そう言いながらも「ええ、どうぞ」と穏やかに応じる。
「レヴィンのもとへ私をやったのはなぜだ?」
はじめから神の娘の存在を知っていたエイリックのもとへユキを送っていれば、なにも知らない自分を、彼は簡単に丸め込んだことだろう。おそらくユキは、イレイネシアの言う前の二人とよく似た存在になって、この国の存続をまっすぐに願っていたはずだ。
「……ちょっとした、私情と気まぐれよ」
そうつぶやいたイレイネシアは、薄く苦笑した。
「あなたはエイリックのことが好きではないようだけど、私はあの子のことが嫌いじゃないの。私のことを、名前で呼んでくれるから。だからあの子がこれ以上、抱えすぎないように、あなたのことはレヴィンに振り分けることにしたの」
「神は、一人一人の人間のことを把握しているものなのか?」
「当たり前でしょう? 私の国の子どもたちだもの」
胸を張ってそう言った神は、次の瞬間、しょんぼりと眉を下げる。
「……だけど、私はただ知っているだけ。どんなに嘆く子どもがいても、手を差し伸べることもできないの。一人一人の人生に介入するには、神の手は大きすぎる。及ぼす影響が大きすぎて、害にしかならないから」
愛する者たちの嘆きをすべて拾い上げながら、それをどうすることもできないというなら、たしかにこの世界の神というものは、滅びる以外に救われる道のない、悲しい存在なのかもしれないとユキは思った。
「質問は、もういいのかしら?」
尋ねるイレイネシアに、ユキは「もうひとつだけ」と告げた。
「イレイネシア。あなたが本当に耐えられなくなるまで、あとどれくらい時間が残されている?」
「それは……どういう意味?」
きょとん、とした幼い表情でイレイネシアは首を傾げる。
自分と同じ顔立ちのあどけない神を、まっすぐに見ながらユキは言った。
「私の選択はもう決まっている。いつかあなたの中に還り、次の神の娘が生まれるまで、あなたの心を支えよう」
そこで言葉を切ったユキは、小さく深呼吸してから続ける。
「けれど滅びの日は、今日ではないのだろう? あなたの言う通り、私はレヴィンが好きだ。だから私は、できるかぎり長くレヴィンと一緒にいたい。それを許してほしい」
イレイネシアは、黒い瞳を見開いてつぶやいた。
「驚いた……だって、さっき再生した時間の中で、あなたはそんなこと少しも考えていなかったじゃない……」
「そうだろうな。ここへ来て、神の娘の役割をあなたに教えられてから考えたことだから」
「前の二人は、そんなこと言わなかったわ……」
「私の前の神の娘が、どういう暮らしをしていたのかは知らない。だけど私の過ごした場所は、自分で考えて行動することを私に教えてくれた」
なにも知らない自分に手を差し伸べ、知る機会を与えてくれたレヴィンは、考える力の素地をユキの中に育んでくれた。
エイリックが与えた影響を認めるのは非常に不本意だが、違う目的があったにせよ、彼はユキが自分で考え、伝える努力をすることのきっかけをつくった。
「私はあなたの一部だ。だけどあなたのもとに帰るまで、今この瞬間の私は一人の人間だ。そういうふうに、あなたは私をつくった。だから、私には私の願いがある」
ユキは静かに言った。
イレイネシアは唇をゆがませて、「でも、」とつぶやいた。
「いつまで耐えられるかなんて……そんなこと、私にもわからない。だって、私がいちばん私のことを信じられないんだから……だからあなたが必要なのに……」
次第に小さくなっていった声は、いったん沈黙を挟んだあと、静寂に耐えかねたように震えながらこぼれ落ちた。
「……だって、レヴィンはあなたを失うことを、あんなに恐れていたじゃない。あなただって、本当はつらかったでしょう? 今度の別れは、いつになるかもわからない。心の準備もできないまま訪れるかもしれない。あなたたちは、それをもう一度、繰り返すの?」
途方にくれた子どものように不安そうなイレイネシアの表情に、レヴィンの姿が重なって見える。
――おまえがいなくなったらと思うだけで、寂しいし、怖いし、苦しくて痛い。今でもこんなにしんどいのに、実際に失えばどうなるのか……自分でもわからない……。
「それでも……レヴィンと一緒にいたいんだ」
自分の言葉に、ユキは自嘲した。彼を守りたいと、そう思ったくせに、結局、自分の気持ちが真っ先に口から飛び出していた。
「私が戻ることで余計に傷つくぶんだけ、レヴィンの喜びが増えるように、たくさん努力するから……」
だから一緒にいたい、とユキは繰り返した。
「……いいなぁ……」
まぶしそうに細めた目でユキを見たイレイネシアは、幼い声でそう言った。
「そんなふうに一緒にいたいと思える存在、私には、もういないわ……」
ふと脳裏をよぎった、あなたには子どもたちがいるじゃないか、という言葉を、口にすることはできなかった。神であって人ではないイレイネシアの同胞は、彼女の言う通り、もうどこにもいないのだから。
ユキは手を伸ばし、イレイネシアの頬に触れた。その頬はやはり、熱くも冷たくもない。ユキと同じ温度をもって、そこにある。
「私はあなたの欠片だ。だから、あなたの孤独も私の気持ちも、いずれはひとつになるものだ」
「……そうね」
「あなたが時間をくれるなら、もっとたくさんの想いと記憶を持って、あなたのもとに還るから」
イレイネシアの頬に触れたまま、悲しみの宿る瞳をのぞきこんで、ユキはそう告げた。まるで写し鏡のように同じ顔をした少女は、かすかに唇をほころばせると、柔らかく言う。
「……それなら、私も努力するわ。あなたが持ち帰ってくれるものが、少しでも多くなるように」
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