2 幸福なとき

 ユキと再会した翌日の昼過ぎ、レヴィンは彼女を連れて屋敷に帰った。


 馬車から下りた黒髪の少女は、眼前に広がる光景を見て、まぶしげに目を細めた。その視線が庭にある樹木に注がれているのに気づいて、レヴィンは思い至る。


 王城へ行く前、彼女が最後にそれを目にしたときは、まだ花の終わる季節だったはずだ。今ではもう、青々と生い茂った葉も盛りを過ぎてしまった。間もなく迎える紅葉の季節には、黄色く染まった落葉がこの庭を埋め尽くすだろう。


 さらに季節が進んで、彼女の名と同じ雪が降るころには、ユキとの別れが訪れる。そこまで考えて、レヴィンは思考を中断した。今はただ、久しぶりの彼女の帰宅を喜ぶべきだ。


 屋敷の扉を抜けて玄関ホールまで辿り着くと、エルマとゼルマが並んで迎えてくれた。


「……おかえりなさいませ。ユキ様、レヴィン様」


 感慨のこもった声でそう言って一礼したエルマのあとに、ゼルマも続く。変わらない双子の様子に、ユキは懐かしそうに微笑んだ。


「ただいま。エルマ、ゼルマ」






 その晩の夕食は、四人で作った。


 夕食の準備をしている双子に、手伝いたいとユキが望んだため、全員で厨房に立つことになったのだ。エルマの機転で、人手が増えたぶん、普段は作らない手の込んだ料理に挑戦することになった。主にエルマとレヴィンが、ああでもない、こうでもない、と真剣に手順を話し合う傍らで、ゼルマとユキがそれにのんびりと従いながら調理は進んだ。


 そうやって完成した料理が並んだ食卓を、皆で囲んだ。感想を言いあいながら夕食を楽しんでいると、二月もの不在が嘘だったかのようにユキはこの場に馴染んで見えた。


 後片付けを終えて自室に向かう時間になったころ、レヴィンの服の裾をつかんでユキが言った。


「まだ一緒にいたい」


 淡々と紡がれたように聞こえる言葉とは反対に、見上げる瞳は切実そうに揺らいでいる。


「どうした?」


 ゆるく首を傾けてレヴィンが尋ねると、少女は己の内を探るように時間を置いてから答えた。


「眠る前にこうやって別れて、朝起きてもおまえに会えない。そういう夢を、城にいるあいだ何度も見た」


 浮かんだことをそのまま口にしただけのようなその言葉では、彼女の心情の表面しか掬いとれていない。けれど底に根差しているものは、とても単純でわかりやすいものに思えた。


「……不安なんだな」


 レヴィンが言うと、ユキははじめて気づいたように瞬きをした。


「そうか。私は、不安なのか……」


 レヴィンの服をつかんだまま、腑に落ちたようにそうつぶやく少女は無垢で幼くて、突き放すこともはぐらかすこともできそうになかった。結局、真正面から向き合う以外に思いつかなかったレヴィンは、解決策の提示を本人に求めることにした。


「どうすれば不安がなくなる?」

「……一緒に寝てもいいか」


 窺うように自分を見上げる姿に、そういえば屋敷に来たばかりのころにも、この少女はそんなことを言っていた、と思い出す。


 そのときは、彼女の自立を妨げることのないようにと、自室で眠る習慣をつけるよう促したはずだ。当時の彼女は今よりもっと未熟で幼くて、自分が良しとしたことが彼女の中で普通になってしまうことが、とても危うく感じられたのだ。求められることは嬉しくとも、いったん線引きを見失えば、善意の皮をかぶった支配が関係を歪めてしまいそうな予感があった。


 けれど今はもう、少しでもユキの不安を払拭することのほうが、ずっと重要になっていた。あとどれくらいの日々を、こうして過ごすことができるのか。その中でどのくらい、彼女のためにできることが自分に残されているのだろう。


「寝る支度を済ませてから部屋に来るといい」


 レヴィンの言葉に、ユキは安堵したように表情をやわらげた。


 就寝前の身支度をひととおり整えてからレヴィンの自室へとやって来た少女は、レヴィンの隣、寝台の半分を占拠すると、機嫌よくにこにこした。こんなにわかりやすく嬉しそうな様子は本当に珍しい。それをそのまま指摘すると、ユキは不思議そうに首を傾げた。


「おまえと一緒にいられて、嬉しくないはずがないだろう?」


 淡々とした言葉からは、どうして当然のことを聞いてくるのだろう、という彼女の心情がありありと感じられた。そういえばこういう返しをしてくる少女だった、と学習能力のない自分の愚かさを反省しながら、レヴィンは両手で顔を覆い隠した。


「……おまえは、前より感情が顔に出るようになったな」


 つぶやくようにユキが言った。


「そうか?」


 うなずく少女に、それを言うならユキの方がよほどだと、レヴィンは思った。表情に乏しく人形のようにも見えていた少女の顔は、以前よりもずっと忙しく彼女の感情を映すようになった。


「ユキも、前より表情豊かになった」


 レヴィンが言うと、ユキは途端に苦虫を噛みつぶしたような顔をした。


「前におまえは、無理に表情をつくらなくてもいいと言ってくれた。だけどエイリックは、そんなものが通用するのは汲み取ってくれる優しい人間にだけだと言った。レヴィンと違って自分は優しい人間ではないから、伝える努力をするべきだと」


 嫌なことを思い出してしまった、と言いたげにユキは眉間に皺をよせる。


「陛下は、ユキに優しくなかったのか?」


 戸惑いながらもレヴィンが尋ねると、ユキは「なかった」と即答した。


「エイリックは性格が悪いから」


 あまりにもきっぱりとそう断じた少女に、レヴィンはなんと答えていいかわからず、控えめに「そうか」とだけ返した。


「人の気持ちが理解できないわけじゃないのに、わかっていて間違え続けるどうしようもないやつだ」


 エイリックを評するユキの声には、怒気や呆れだけではなく、かすかな憐憫も含まれているように感じた。


 離れていた二月のあいだに、ユキとエイリックのあいだでどんな交流があったのか、レヴィンにはわからない。それでもその期間が、彼女に変化をもたらし、選択を決するための心理的な土壌を生み出したことは間違いない。


 結局、すべてはエイリックの思い描いた通りに帰着しつつあるのだろう。ユキも自分も、彼にとっては都合よく動く駒でしかなかったのだ。それでも憎みきることができないのは、ユキの言う通り、彼がどうしようもない人だからなのだろう。


「……切り捨てられないものは、苦しいな」


 ささやくようにレヴィンが言うと、ユキはふわりと表情をやわらげた。


「だけど、そういうおまえだから、得体の知れなかった私のことも見捨てず優しくしてくれたんだろう」


 彼女が言っているのは、出会ったころのことだろう。思い返すように目を細めながら、穏やかな声でユキは続ける。


「あの森の小屋で熱を出したとき、寒さと心細さで震えが止まらなかった。あのときも、おまえはこうやって一緒に眠ってくれた。それだけで、すごく安心して眠ることができた……」


 言葉の途中で少しずつ緩慢になっていく口調が、少女の意識に混ざりつつある睡魔を物語っていた。


「今も、安心して眠れそうか?」


 レヴィンが問うと、ユキは満足げにうなずいて目を閉じた。






 翌日からは、以前に戻ったかのように静かで穏やかな時間が続いた。特別なことはなにもない、同じ日々の繰り返しだ。


 以前に比べて変化したことといえば、同じ場所で眠るようになったことと、自分の思いや考えを言葉にする機会が増えたことだ。彼女と共に過ごせる時間と、できうるかぎり丁寧に向き合いたい、という思いがレヴィンにそうさせた。


 惜しむようなときのなかで、目前にあった秋はすぐにやってきた。ユキと散歩をする庭は、降り積もる落ち葉で日ごとに黄色く染まってゆき、やがてゆっくりと鮮やかさを失っていった。


 そうして訪れた冬は、静かに世界の温度を奪っていく。吐息が白く凍ることが当たり前になったころ、ユキはレヴィンにぴったりとくっついて眠るようになった。


「残り少ないわがままだから」


 物言いたげな視線を送るレヴィンを、ユキは笑えない軽口でいなした。


「……おまえは最近、そう言えばなんとかなると思ってないか?」


 手をつなぎたいとか、寒空の下をもう少し歩いていたいとか、ひとつひとつはかわいらしい要求だったが、それを押し通す理由があんまりだった。


「思ってる」


 悪びれずに認めた少女は、レヴィンを見て続ける。


「やりたいことは素直に伝えておいた方がいい。あとになって、もっとこうしておけばよかったと思うから。おまえと離れたとき、私はそうだった」


 淡々と言葉を紡ぐユキに、レヴィンは自身の思考を訂正した。この少女はただ、もうすぐ自分がいなくなるということから、目を逸らしていないだけなのだ。向き合うつもりでいて、見ないようにしていたのは自分の方なのかもしれない。


 ここ数日は、いつ雪が降り出してもおかしくない冷え込みが続いていた。隣で眠る少女が消えていないかどうか、何度も目覚めては確認するレヴィンは、しばらく熟睡できていない。


 彼女を失う瞬間はいつなのか。そのときが、どれくらい目前まで迫ってきているのか。暗闇の中で彼女の姿をみとめるたび、まだ大丈夫だ、という安堵と、いつまで、という恐れのあいだを幾度も行き来する。


 そういう不安定な心の内を、できるだけ表に出さないようにしたいと思っていた。できることなら、彼女に残された時間のすべてを、優しく穏やかなもので満たしたかった。


「私がいなくなったら寂しいだろう?」


 それなのに、この少女は、こんなときまで率直に切り込んでくる。


「……当たり前だ」


 答える声が震えたのは、拙い優しさに簡単に甘えて暴かれてしまう自分が情けなかったからだ。


「おまえがいなくなったらと思うだけで、寂しいし、怖いし、苦しくて痛い。今でもこんなにしんどいのに、実際に失えばどうなるのか……自分でもわからない……」


 言葉にしたことで明確にさらけ出された自分の心に、レヴィンは慄いた。彼女のためにと、どれだけ上辺を綺麗に塗り固めようとしても、内側にあるのは自分の気持ちばかりだ。彼女を失うのはいやだと。駄々をこねる子どものように。


「そんなふうに感じるのは、おまえにとってそれだけ私が必要だからだろう?」


 ユキは微笑んでそう言った。


 聞き覚えのあるその言葉は、離れていたあいだ寂しかったと言うユキに、置いて行ったことを謝罪したとき、彼女がくれたものだ。寂しいのは、それだけ私がおまえを必要としているからだ、と。

 そのときも彼女は、レヴィンを罪悪感から掬い上げてくれた。


「……そうだ……」


 絞り出すように答えたレヴィンに、ユキは柔らかな声で言った。


「なら、私は嬉しい。だからおまえは、いっぱい寂しがって、悲しんでいいんだ」


 気がつけば、寄り添う少女の背に手が伸びていた。腕の中におさまった少女は、ふっと小さな笑いをこぼすと「温かい」とつぶやいた。

 呼吸と鼓動と温もりが、喪失を恐れる存在のすべてが、今はたしかにここにある。


「……このまま眠ってもいいか?」


 尋ねたレヴィンに、穏やかな声が返される。


「それで、おまえが安心して眠れるなら」


 深い安堵を覚えながら、レヴィンは目を閉じた。その日は久しぶりに途中で目覚めることもなく、朝を迎えた。


 それから数日は、そうやって少女を感じながら眠りについた。暗闇の中で寒さを感じて目覚めたとき、腕の中に彼女がいないと気づく、その日まで。


 窓の外には、雪片がちらついていた。

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