4 別の人間
夢を見た。
自分が今、夢を見ているのだと、自覚のある状態で。
見慣れた屋敷の廊下で、自分とレヴィンが向かい合って立っている。ユキはそれを、外側から見ているのだ。こんなにも不思議な状況が、現実であるはずがなかった。
「どうして一緒に寝たらだめなんだ?」
彼女の前に立つユキが、赤毛の青年を見上げながらそう尋ねる。もう一人の自分など、まるで見えていない様子だった。着ている服が大きいから、エルマのものを借りているのだろう。
聞いている内容には覚えがあった。これは、彼女がはじめて屋敷に来た日にレヴィンと交わした会話だ。
「自分の部屋で休んだ方がゆっくり眠れるからだ。さっきエルマに案内されただろう? そこが今日からユキの部屋だ。俺の部屋は別にある」
やんわりと距離を置かれたのがわかって、ユキは口を尖らせた。
「一緒に寝た方が温かいのに……」
「……おまえはまず、他人を暖房がわりにするのを改めような……」
呆れ顔のレヴィンは、そう言って肩をすくめた。それから、なおも不満そうな少女をみとめて目を細める。
「朝には、また会えるから」
ささやいた声は、安堵を誘うようにユキの心に柔らかく響いた。
ああ、この言葉を、もう一度聞きたかったのか。
ユキは、自分がなぜこんな夢を見ているのかに気がついた。もう、朝を迎えてもレヴィンと会うことはできないのだとわかっている。だからこそ、記憶の中にレヴィンを求めているのだろう。
浅い眠りから目覚めたユキは、起き抜けのぼやけた目で周囲を見回した。
広い部屋の中、種類の違う三脚の椅子が、並んでいるとは言い難い適当さで点在している。そのうちひとつに腰かけていたユキは、自身の現在位置を悟ってため息をついた。
ここは、全体像もよくわからない王城の、どのあたりに位置するのかもよくわからない場所だった。それなりに広い、居間のような一室を中心として、個室や浴室などが備わった居住スペースになっている。
そこで過ごすようになって五日が経過した今なお、ユキがこの場所について知っているのは、その程度のことだった。
「起きたのか、お嬢さん」
低く、張りのある声が横から響いて、ユキはそちらへ視線をやった。
三脚の椅子のうちひとつに座る男は、彼女と目が合うと口元を綻ばせた。五日前、あの屋敷ではじめて会ったときからは想像もつかないほど、人懐っこい笑顔をしている。
ボード・マシュラム。
エイリックからユキの世話を任されたのだという彼は、この五日間、ユキと共にこの場所で過ごしていた。人より若干多くの筋肉がのった身体と険しい三白眼のせいで厳つい印象を与える青年は、身近に接してみると意外に表情豊かであると気づかされる。
「けっこう寝てたな。もしかして夜、あんまり眠れてないのか?」
ほがらかに言いながらも心配をにじませたその声に、ユキは反発を覚えた。眠れない状況をつくっている者の一人が、気遣わし気に自分を見ている。その矛盾がどうにも腹立たしかったのだ。
「そう思うなら、屋敷に帰してくれ」
決定権を持っているのはエイリックだとわかっていても、あえてそう口にしたのは、目の前の男におまえも加害者なのだとわからせたかったからだ。
「まあ……それは聞けない相談だな」
ボードは居心地悪そうに長身をすくめながら苦笑する。ユキの言わんとしていることは悟っているはずなのに、彼は言い訳することも開き直ることもせず、ただ受け止めている。
その心理が理解できないユキは、なおさら苛立ってしまうのだった。
レヴィンがユキを残して王城を去った翌日。
三脚の椅子のうちひとつに、この国の王が座していた。
「帰らせてください」
王の前の立ち、率直に願い出たユキに、エイリックは微笑んだ。
「だめだよ」
柔らかく、だがきっぱりと返されて、ユキは少し考えてから、もう一度、口を開いた。
「帰らせてくれるなら、国が滅びない方を選びます」
「頭を使ったみたいだね」
エイリックの表情が、薄っぺらな微笑から愉快そうな笑みに取って代った。取り合う価値のあるものかを値踏みするような視線が、自分に注がれるのをユキは感じた。
「それを選んだら、君は死ぬんだよ?」
「陛下はそれを選ばせたいんでしょう」
ユキの答えを聞いたエイリックは、途端につまらなそうな顔をした。
「……敬語、使わなくていいよ。呼び方もエイリックでいいから」
唐突に話題を変えられたことに、ユキは戸惑いながら「でも、」と言った。
「レヴィンは、そうしてました」
「そうだね。だけど、君とティシャール公は違う」
静かに断ずるエイリックの言葉が、ユキにはなぜか受け入れ難かった。押し黙った彼女を見て、エイリックが噛み砕くように話す。
「君はたしかにティシャール公をよく見ている。影響も受けているんだろう。だけどそれは、子どもが大人の真似をするようなものだ。君とティシャール公は別の存在なんだよ」
当たり前のことを言っているとしか、ユキには思えなかった。
「俺とか、僕とか、私とかさ……ティシャール公は普段、自分のことをなんて呼ぶの?」
問われたユキは、「俺」と短く答えた。
「じゃあ、君は?」
「…………」
ユキは黙然と自分の記憶を探った。自分は? なんと呼んでいただろう。こんなふうに自分を呼んだことが、これまで一度でもあっただろうか。
「どう呼ぶのかは、なんでもいいんだけどね。すぐに出てこないってことは、君がそれを使ってこなかったからなんだろう。……言葉にしなくても、理解してもらえる環境にいたから」
一理ある、と思えた。だが、それがなんだというのだろう。
「……それは、いいことなんじゃないですか?」
以前レヴィンは、ユキがほとんど表情を動かさないことについて、意識して表情を変えるくらいなら、これまで通りでいいと言ってくれた。そのままのユキでも見ればわかるから、と。
「伝える努力をしなくていい君にとってだけ、都合の“いいこと”だろう? そんなものは、いちいち意図を汲み取ってくれる優しい相手にしか通用しないよ」
エイリックの言葉は辛辣だった。
「僕はティシャール公じゃない。君にとって優しい人間ではないんだよ。そんな相手に自分の言い分を通したいのなら、君は伝える努力をしなくちゃいけない。僕は、自分を主語にして語らない人間の言葉に、耳を傾ける価値はないと思ってる。だって、ティシャール公に会うために選んだ選択は、ティシャール公が望めば、簡単に覆るんだろう?」
たしかに、ユキの頭を占めていたのは、どうすればレヴィンのもとに帰れるかであって、そのあとのことまで深く考えてはいなかった。エイリックはユキの浅い思考を見透かしているのだろう。
「別に、僕の考えが正しいとか間違っているとか、そんな話がしたいわけじゃないよ。君も、ティシャール公も、僕も、みんな別の人間で、それぞれ別の感情と思考がある。君がそれをもう少し理解しないかぎり、この話は前に進まないね」
エイリックにそう告げられてから、四日。
ユキは一向に彼の意図するところを捉えられた気がしない。エイリックが言っているのは、すべて当たり前のことだ。それをどう掘り下げれば彼の満足いく答えになるのかが、わからなかった。
自分とレヴィンが別の人間であることなど、指摘されるまでもなくわかっている。帰りたい、という自分の希望は伝えたのに、取り合ってくれなかったのはエイリックの方だ。
早く、レヴィンのところに帰りたい。それなのに、ただ日にちだけが過ぎていく。ユキは焦りを覚えていた。そしてそれは日ごとに煮詰まっていた。
「……おまえたちは、理不尽だ……」
ここ数日ずっと抱えていた思いが、ユキの口からこぼれる。
「レヴィンと一緒にいたいだけなのに、どうして邪魔をするんだ」
ユキはむずかる子どものように、自分の不満を口にする。
「どうしてって……そりゃあ、お嬢さんが神の娘だからだろう」
ボードは困った顔をして、ひきつる頬を指先で掻いた。
「お嬢さんの選択でこの国の未来が決まるんだ。それを放っておけるわけがないだろう?」
「だから、国が滅びないようにするって言ってるだろう」
「……お嬢さんがそれ言ったのは、エイリックにであって俺じゃないだろうが」
「知らない」
「いや、こっちが知らねぇよ。なんだよこれ……なんの癇癪だよ。どうしてエイリックじゃなく俺にあたるわけ……?」
解せん、と小さくつぶやいたボードは、口元をひくつかせながら、短いため息をついた。
「まあ、そんだけ煮詰まってんだろうけど。感情ぶつけてくるくらいには、少しは慣れたって考えるべきか……?」
「慣れてない」
口をとがらせたユキを見て、ボードは軽くふきだした。
「見た目以上に子どもだな。……だが、そうか。お嬢さんは生まれたばっかりなんだもんな。知らない場所に残されて、大事な人にも会えなくなったんだ。その不安を、理詰めで飲み込めるほど大人にはなれないよなぁ……」
ボードが手を伸ばして、ユキの頭をポンポンと撫でる。まるで埃を払うような、無造作で適当な動作だ。
「さわるな」
ユキはますます腹を立てて言った。
「おまえたちは、この国を滅ぼしたくないんだろう?」
「そうだ」
「この国の存続を願うなら、神の娘は死ななきゃいけない」
「……ああ、そうだな……」
「おまえたちは、私に死んでほしいんだろう? なのにどうしてボードはそういう態度をとるんだ。……意味がわからない」
苛立ちにまかせて発したユキの言葉に、ボードは一瞬だけ目を見開いた。それから叱られた子どものように眉尻を下げて「……ごめん」とつぶやく。
「お嬢さんの言う通りだ。自分の死を望んでいるやつが親しげに接してきたら、そりゃあ混乱するよな。俺が考えなしだった」
言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、ボードはぽつりと言った。
「……エイリックはな、性格が悪いんだ」
「それはもうわかってる」
即座に返したユキに、ボードはくっと喉を鳴らした。
「公の場で取り繕うことには長けちゃいるが、あいつの中身ときたら、少しばかり神経質だし、どちらかと言えば卑屈だし、執念深いところがある。王としての能力だって素晴らしくなにかが秀でているわけでもない。一国の王ってよりは、その横で悪だくみしてる方がよっぽど似合いそうなやつなんだ」
散々けなしたあとで、ボードは「だが」と続ける。
「あいつは、王になるために生まれた人間だ。それ以外の選択肢なんて、最初から与えられてこなかった。……お嬢さん、アルフレートはわかるか?」
問われて、ユキはうなずく。
「俺とエイリックとアルフレートは、母親同士がもともと親しくてな。王子の側近にって大人の思惑もあったんだろうが、小さいころから三人でつるんできた、幼馴染ってやつだ。……ずっと近くにいたからこそ、望んだわけでもない王って役目に、あいつがどれだけまともに向き合ってきたかも知ってる。この国が永遠に滅びないなんて思っちゃいない。だけど、あいつが苦心して維持してきたものを、あいつの目の前で壊されるのは許容できない。……たとえそれが、誰かを切り捨てることにつながるとしても。それが俺の、正直な気持ちだ」
そこまで静かに語ったボードは、不意に「ああクソッ」と毒づくと両手で頭を掻いた。
「……だけど、格好つけてそう言ってみたところで、しょせん小心者なんだよ俺は。お嬢さんみたいな女の子を平然と切り捨てられるわけじゃない。普通に良心が痛むし罪悪感はすごいし……だからせめて、気にかけて優しくするくらいしたい……と思ってる」
「そうやって優しくしておいて、最後にはやっぱり切り捨てるのに?」
「……ああ、そうだよ」
「つまりボードは、自分の罪悪感を軽くするために私に優しくしたいんだな?」
「容赦ねぇな。……そうだよ」
片手で額を押さえながら、掠れた声で言う。見た目は厳つい青年なのに、中身はあまり強くなさそうだった。
「そういうものなのか……?」
優しさは、相手を思う気持ちだけで成立するものではないのか。
人の内面は、ユキが思っていたよりもずっと複雑なものなのかもしれない。自分で決めたことにさえ心を揺らして、均衡を取ろうと懸命に足掻く。蓋を開けて見ることができれば、どれだけ単純なことだったとしても、それらはすべて心の内で起こるから、外側からは一貫性が見えず、理解しがたく思えてしまう。
ふと、レヴィンはどうだったのだろうかと思った。彼はどんな気持ちで、自分と共にいてくれていたのか。どんな気持ちで、自分をここへ置いていったのか。
この四日、頭の中で何度も反芻してきたエイリックの言葉がよみがえる。
――君も、ティシャール公も、僕も、みんな別の人間で、それぞれ別の感情と思考がある。
その言葉の意味が、はじめて少しわかったような気がした。それはけして愉快な気づきではなく、ユキの心を楽にしてくれるものではなかったけれど。
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