3 弱いあなたでいい

「帰ってこないわね……」


 つぶやいた姉に、ゼルマは「はい」と返事をした。


 ボード・マシュラムに連れられて、ユキとレヴィンが王城へと向かったのは昨日の午前中のことだ。一夜明けて、太陽が中天にさしかかった今なお、窓から見える門前に二人の姿はない。


「遅いわね……」


 再びつぶやく姉に、ゼルマは「はい」と返事をする。


 一歩前の位置から窓の外を一心に見ている姉の顔は見えない。それでもどんな表情をしているのか、ゼルマには察しがついた。


「心配ですね」


 ゼルマが言うと、姉は振り返ってこちらを見た。眉は下がり、唇は歪んでいる。予想していた通りの顔だった。


「……当たり前よ」


 震える声を、ゼルマは「はい」と受け止めた。


 レヴィンが心配だった。けれど、待つことしかできない。彼が成年を迎えてアトロス家を離れたあの日から、自分たちは、こうやって待つことしかできなくなった。こうして同じ屋敷で過ごすようになった、今でさえも。


 胸の詰まるような時間を二人で分け合って飲み込んでいるうち、門前にようやく、待ちかねた人物の姿が見えた。レヴィンだ。

 けれどその傍らに、黒髪の少女はいない。


「どうして……っ」


 窓の外を見て息を呑んだ姉に、ゼルマは「姉さん」と声をかけた。不自然に力が入りこわばった肩へ、支えるように両手を添える。


「迎えに行きましょう」


 静かに促すと、姉は、はっとした表情を見せた。ゆっくりと呼吸する音が小さく聞こえたあと、明るい紅茶色の瞳に力が戻る。そのまま急ぎ足で玄関ホールへと向かう姉の背を、ゼルマは追った。


 ようやく顔を合わせることができたレヴィンは、ひどい有様だった。


「ただいま、エルマ、ゼルマ。遅くなってすまない」


 いつも通りの声。いつも通りの表情。いつも通りの言動。そう文字表記でもしているかのように、ひとつひとつの挙動が、うるさいくらい声高にいつも通りを主張してくる。隣にユキがいない状態でいつも通りに振る舞っても、かえって不自然なだけのに。まるでそうやって型にはめていなければ、崩れてしまうかのように。


「おかえりなさいませ、レヴィン様」


 一歩前に出た姉が、柔らかな声で言う。後ろにいるゼルマからは見えないが、その顔にはきっと優しい笑みが浮かんでいることだろう。


「ユキ様はご一緒ではなかったのですか?」


 まっすぐに切り込んだ姉に対して、レヴィンは苦笑を見せた。


「……箝口令が出ているんだ」


 困ったようにそう告げてから、続ける。


「ユキは、ここへは帰らない」


 それだけで、どうして、とか、今はどこに、とか、それ以上の説明の余地がないことはわかった。けれど、箝口令が出たのもユキが帰ってこないのも、すべて王城に行ってからのことなのだ。理由はともかく、彼女が今どこにいて、誰の思惑によってこのような事態になっているのかは、明白に思えた。


 レヴィンは王と会ったのだろう。そうして、どういう理由によってかはわからないが、あの少女と離れることになった。


「……どうしてですか?」


 静かに問いかけた姉に、レヴィンは「箝口令が出ていると言っただろう?」と返した。けれど、そんなことがわからない姉ではない。


「どうして、平気なふりをするんですか?」


 姉が問うているのは、レヴィンの態度についてだった。


「なんのために私たちがここにいると思っているんですか? あんなに大切そうにしていたユキ様と離れて、平気なはずがないあなたに、平気なふりをさせるためですか」


「……エルマ」


 小さく姉の名を呼んだレヴィンは、ほとんど詰問のように続けざまに向けられた問いに、ひどく驚いた様子だった。へばりつけていた“いつも通り”が剥がれ落ちて、その下に悲しげな、それでいてすべてを諦めたような目をした青年の顔があらわれる。


 こんなレヴィンを、ゼルマは以前にも見たことがあった。


 成年を迎えてアトロス家を離れたあと、交流を続けることが迷惑になるとでも考えたのか、レヴィンは一切の連絡を寄こさなかった。気を揉みながらも静観していた姉とゼルマは、沈黙のまま一年が過ぎたとき、さすがにこれ以上は待てないと、父や兄たちの反対を押し切ってレヴィンに会いに行った。


 そのとき味わった苦さは、今も忘れられない。

 一年ぶりに自分たちを映したレヴィンの瞳は、悲しいほどに虚ろだったのだ。

 とっさに、違う、という思いが胸に強くこみあげてきた。母と姉と自分とが、十五年ものあいだ成長を見守ってきた少年は、こんな目をしてはいなかったはずだ。


 もともと内向的な少年ではあったが、幼さと思慮深さを同居させた黒い瞳には、揺れ動きながらも世界を知ろうとのぞきこむ、年相応の好奇心と奥行があった。けれどそのときのレヴィンの瞳は、情動というもののほとんどを閉ざしてしまっているようだった。


 たった一年、心配しながらも手をこまねいていたあいだに、彼は変貌してしまった。なにがあったのかはわからない。語ろうとしない当人に、あえて掘り返すこともしたくなかった。


 傍にいよう、と決めたのはそのときだった。彼が抱える苦しみを取り除くことはできなくとも、次になにかがあったときには、せめて近くで寄り添えるように。


 そのために監視役という名目を引き受けて、姉と二人、この屋敷へ移り住んだ。そこで感じた、屋敷内の息詰まる空気に、生活の場でくらい楽に呼吸ができるようにと、使用人たちを整理した。


 はじめのうちは、自分たちに言われるまま人形のように従っていたレヴィンも、静かな暮らしを続けていく中で、少しずつ以前の彼らしさを取り戻していった。

 それでもすべてが元通りになったわけではない。かつてのレヴィンなら恐る恐る口にしていただろう、甘えや期待を表に出すことはなくなった。


 それが変化したのは、ユキと出会ってからだ。彼女のために、という理由があったにしろ、自分たちを頼り、甘えてくれるようになった。


 二人の関係性について、当初ゼルマは、レヴィンに懐いたユキが彼を求めるばかりの一方的なものだと思っていた。けれど、そう間を置かずにそれは違うと気がついた。彼女に求められることで、レヴィンが得ているものもまた大きかったのだ。


 姉と自分は、レヴィンに優しさや温もりを与えたいと思ったことはあっても、彼になにかを与えてほしいと望んだことはなかった。

 たぶんレヴィンは、ユキと出会ってはじめて、他者から強く必要とされたのだ。だからこそ、彼女を大切にしていたのだろう。


 こうして彼女を失ったあと、必死で“いつも通り”という型に自分を押し込めなければならないくらいに。

 その型は今、きれいに剥がれ落ちてしまっているけれど――


 ゼルマの位置からは後姿しか見えない姉の顔には今、苦い笑みが浮かんでいると思う。呆然と自分を見るレヴィンに近づいた姉は、目線を合わせるように、やや高い位置にあるレヴィンの顔を見上げて言った。


「あなたがそうやって無理やり誤魔化してしまったら……私たち、なにもできないじゃないですか……」


 言葉の途中で両手を伸ばした姉は、レヴィンの頬をつかんで、容赦なく左右に引っ張った。


「心配くらい、させてください……っ」


 絞り出すようにそう言ってから、手を離す。


 レヴィンは呆然としたまま、なにが起こったのかを確かめるように自身の頬に触れた。その手と姉のあいだで何度も視線を往復させたあと、彼は不意に、きつく目を閉じた。そうして、なにかをやり過ごすように静かに深く息を吐く。


 再び目を開けたとき、彼の目尻は赤く染まっていた。複雑そうに揺らぐ、その眼光は不安定だ。それを隠さないまま、自分たちに見せてくれている。


「……ごめん。エルマ、ゼルマ」


 ささやくような声でレヴィンは言った。

 その途端、姉の背中がひときわ大きく震えたから、ゼルマは速足でレヴィンに歩み寄り、彼を抱きしめた。


「ゼルマ……?」


 不思議そうに自分を呼ぶレヴィンに、ゼルマは背後にいる姉には届かないよう、声をひそめて言う。


「少しのあいだだけ、気づかないふりをしてあげてください。……姉さんは、意地っぱりですから」


 背後からは、鼻をすする音が聞こえてきて、腕の中からは、レヴィンが笑う気配が伝わってきた。

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