2 その乖離は、苦しい
十五歳となり、成年を迎えたレヴィンは、成人として扱われるようになった。
同時に後見としてのアトロス家の役目は終了し、レヴィンは新たにティシャール公爵の住まいとして定められた屋敷へと移り住むことになった。
出立のとき、レヴィンにかけられる優しい別れの言葉の向こうには、隠しきれない安堵を表情ににじませるアトロス家の面々がいた。その中で、乳母と双子だけが心配そうな眼差しをレヴィンに注いでいる。
それは、この狭く小さな世界で過ごした日々を縮図にしたような光景で、レヴィンが子どもでいられる時間は、そこで終わった。
新たな住まいとなる屋敷は、リトラという名の街にあった。王都からもそう遠くなく、直轄地に含まれているその街は、滅びの種を住まわせておくには、ちょうどいい位置なのかもしれない。
王籍を廃された際、レヴィンに授けられた公爵の地位は、ほとんど名ばかりのものだった。
持たされた領地も、直轄地から領民のいないところを切り取ったわずかばかりの土地で、その面積の大半は森で占められていた。この街からも歩いていけそうな距離にあるのだが、滅びの種が自由に出歩くことを周囲の者たちがどう捉えるのかと考えると、試す気にはなれなかった。
屋敷に仕える使用人たちは皆、望んでここにいるわけではないようだった。彼らにはそれぞれ務める任期が定められていて、なにがしかの条件やしがらみがあったうえで、この屋敷で働くことを受け入れている。雇用契約書には、それぞれの任期とそうした事情が記されていた。
期間限定の主人であるレヴィンを、彼らは個人としてではなく、滅びの種として見ていた。接する態度は当然のように事務的で、できるかぎり接点を少なくしたい、という内心がありありと透けて見えた。レヴィンが声をかけても、聞こえないふりでやり過ごす者さえいる。
十五年間生きてきた中で、ここまで誰からも関心を持たれずに過ごしたのは、はじめてだった。自分がどれだけ乳母のロサンナや双子たちに守られてきたのかを、改めて噛みしめる。
けれど、これからの人生では、これが普通になっていくのだろう。
アトロス家を出た日から、彼らとは手紙のやりとりもしていない。自分とのつながりを絶つことが、彼らにとって良いことなのだとレヴィンは信じていた。
成年を迎えるまでは、不安や焦りがあんなにも忙しく渦巻いていたはずなのに、ここで過ごす時間は、ただ静かだった。なにをするでもなく、誰と関わるでもなく、ぼうっとしているだけで一日が過ぎていく。
そういう日々を繰り返すうち、いろんな感覚が鈍くなってきて、生きているのか、息をしているのか、自分の輪郭でさえ曖昧になっていくような気がした。このまま飲み込まれたら、自分はどうなるのだろう、とぼんやり思う。
そのころから、レヴィンは一人で屋敷を彷徨うようになった。特にこれといった目的はないまま、人目を避けるようにして、日々いろんな場所を歩いてまわった。そのうちに、使用人たちがこっそりと集まる場所があるのに気づいた。
そこは、屋敷の裏手側にある物置部屋だった。薄暗い長方形の空間に、天井近くまで高さのある棚が、最低限の通り道だけを残して、いくつも並列されている。
その部屋に、レヴィンと同じか、やや年上くらいの使用人の少年たちが、毎日こっそりと集まっていた。どうやら仕事をさぼって小休止しているらしい彼らは、外の気配がわかるように、決まって部屋の入り口付近でたむろしていた。
レヴィンはあるとき思い立って、棚によって仕切られ、一本道の迷路のようになっているその部屋の奥で、彼らが来るのを待った。同じ空間に主人が息をひそめているとは夢にも思わない彼らは、いつものように集まると、短い時間のあいだ、声をひそめてお喋りに興じた。
内容は、本当になんてことのない些細なものだった。出される食事への不満から、仕事の愚痴、家族のことや、異性のこと。どんな話をしていたかなんて、きっと数日後には本人たちさえ忘れてしまうような。
彼らが去ったあと、レヴィンはその場所から動けないでいた。自分と変わらない年ごろの彼らが何気なく話す、他愛ない事柄のひとつひとつが、レヴィンにとっては物語の幻想のように遠く感じられたのだ。
なにかが呼吸の邪魔をしていて苦しかった。瞳にたまったものが、堰を切ったようにこぼれ落ちていく。
どんなに小さな出来事であっても、毎日いろんなことを感じて、生き生きと暮らしているように見える彼らが、まぶしかった。感じたことを素直に言葉にできて、それを分かち合える相手が当たり前のように近くにいる彼らが、どうしようもなく羨ましかった。
自分には手に入れられないのだと、はじめから諦めてしまっていたものが、そこにあった。
誰でもいい。一人でいい。
自分を見てほしい。話を聞いてほしい。
必要としてほしい。
もうずっと――ただ、寂しかったのだ。
そんな自分にレヴィンは気づいてしまった。
拒絶されても傷ついてもいいから、声を発すれば……一人くらいは振り向いてくれるだろうか。
その日から、レヴィンは懸命に思考を巡らせた。自分の置かれた立場と環境とを俯瞰してみて、どうすればいいのかを考えるようになった。
そうしてなんとか絞り出した一案を、すがるような気持ちで実行に移した。
「つまり、金をやるから友達になれと。そういうことですか?」
冷めた目でこちらを見る使用人の少年――ティルトに、レヴィンはうなずいた。
「友達ではなく、友達のふりでいい。この場所で二人で会うときだけ、友達のふりをしてくれれば……」
見返りに金を渡すから、という言葉を、二度も繰り返すのはためらわれた。
「俺が金に困ってるって、わかってて言ってるんですよね」
問いではなく確認として口にしている様子のティルトに、レヴィンは「そうだ」と返す。
病気になった家族のために必要な金銭を得ること。彼がこの屋敷で働く条件として、雇用契約書にはそう記載されていた。家族を思う人柄と切実さがあるこの少年ならば、提案をのんでくれるのではないかと思ったのだ。
人の弱みに付け込んでいるということも、金銭で本当の友人が得られるはずがないことも、もちろんわかっていた。けれど、素直に友達になってほしいと伝えたところで、いったい誰が滅びの種を受け入れてくれるというのか。
もし受け入れてもらえたとしても、滅びの種を養育するだけでアトロス家に影響があったように、相手に迷惑をかけてしまうかもしれない。それなら最初から利益を得るための関係にしておく方が、報いる方法があるだけましな気がした。
「いいですよ」
びっくりするほどあっさりと、ティルトは了承した。
「いいのか?」
自分が提案しておいて思わず聞いてしまったレヴィンに、ティルトは屈託なく笑った。
「俺、馬鹿だからあんまり深く考えてないです。けど、友達のふりすれば金がもらえるんですよね?」
レヴィンはうなずく。すると「やめたくなったら、いつでもやめていいんですか?」と、追加の確認があったので、それにもうなずいた。
「ならいいですよ。やります」
やはりあっさりとしたティルトの承諾に戸惑いながらも、その日からレヴィンは、金銭と引き換えに友人の真似事をしてくれる相手を得たのだった。
そこからティルトとは、物置部屋で顔を合わせたときだけ話をするようになった。
さぼり集団が集まる時間帯はだいたい決まっていたから、それを避けて物置部屋に行く。あまり頻回になって人目につくことは避けたかったから、約束はしていなかった。会えるかどうかは偶然まかせだ。
それでも二回、三回と回数を重ねるうち、ティルトは驚くべき速度でこの奇妙な関係に順応していった。
たしかに、ここにいるあいだは身分を気にせず普通の友人として接してほしいと頼んだのはレヴィンだ。そうは言われても難しいだろう、と思っていたのに、次の瞬間からあっさりと敬語が消え、あっというまに「おまえ」呼ばわりされるようになったのには、一瞬、耳を疑った。
自分たちの年ごろだと、普通はこんな感じなのだろうか。それともこの少年が、とびきり気安い性格の持ち主なのか。なんとなく後者に思えたが、それがかえって愉快だった。
圧倒的な口数の差から、話役と聞き役はほとんど固定していて、ティルトが話すなんてことのない話に、レヴィンが相槌をうったり疑問を挟んだりする。去り際に渡す金銭がなければ、まるで本当の友達といるような――レヴィンにとってはただただ新鮮で、楽しいばかりの時間が、意外に長く続いた。
半年ほどたったある日、ティルトが「もうやめたい」と言ってきた。
もともとずっと続くものではないとわかっていたから、覚悟していたときがついにきたか、と思った。けれど、いつも屈託のないティルトの顔が、ひどく沈んでいるのは見過ごせなかった。
「俺のせいで、なにかあったのか?」
「…………ッ」
レヴィンが問えば、弾かれたように身を固くする。嘘のつけない少年だった。
「なにか俺で力になれることは?」
首を左右に振られて、そうだろうな、と思う。なにがあったのかまではわからないが、滅びの種とかかわったことで被った不利益なら、滅びの種が出張ったところで逆効果にしかならないだろう。
「迷惑をかけて悪かったな。だけど、おまえと過ごせた時間は楽しかった。こんなことしかできないが……」
これまでの感謝と迷惑料もかねて、普段より多く手渡そうとしたが、受け取る側のティルトの手が伸びてこない。
「……おまえ、かわいそうだよ」
俯いたまま、ティルトがぼそりと言った。
その一言が呼び水だったかのように、顔を上げたティルトは次々と言葉を吐き出した。
「おまえと話すの楽しいよ。おまえ暗いし、あんまり喋んないけど、いっつも俺の話し、馬鹿にしないで聞いてくれてさ。わかるよ。おまえ、いいやつだよ。滅びの種なんて呼ばれてても、おまえが国を滅ぼしたりするはずねぇって思うよ。…………けどさ、俺一人がどう思ったって、まわりは変わんないだ。違うってわかってるのに。俺……俺、だめなんだ。そういうのに、逆らえない……」
ああ、そうか。
彼になにがあったのかを、レヴィンは漠然とながら察した。
「ごめん。俺、おまえのことを悪く言うやつらと……一緒になって、おまえのことを、悪く……」
苦しげな顔で自分のしたことを告白する少年は、痛々しかった。
「でも、そうしなければおまえの立場が悪くなる。そういうものなんだろう?俺は別に、おまえに俺を擁護してほしいとは――」
「俺はしたかったんだよッ!」
レヴィンの言葉を遮って、ティルトは声を張り上げた。けれどその勢いは一瞬で失速して、少年はがっくりと肩を落とす。
「……俺さ、自分はもっとまともな人間なんだと思ってた。家族のために一生懸命やってきたし、金になるなら滅びの種の友達のふりだってやってやるって思ったし。……でもだんだん、おまえがいいやつで、寂しいやつで、やっぱり傷ついてるんだってわかって……言おうと思ったんだ。ふりじゃなくて、本当の友達になろうって。それで、金もらうのもやめにしようって」
言葉の途中でティルトは顔を上げて、レヴィンを見た。いつも明るかった少年の顔は、涙の筋が走り、赤く染まっている。
「けど、いっつも言えなかった。言わなきゃって思うのに。ずっと、なんでだろうって思ってたけど、今日わかった。俺、おまえの友達にはなれない。友達のふりも、もうできない。……だけど金もいらない」
震える声で言う少年に、レヴィンが「わかった」と返すと、彼は小さくため息をついてから「……どうしておまえじゃなく俺が泣いてるんだろうな」と苦笑した。
「俺、自分がこんなやつだって、気づきたくなかったよ……。おまえが滅びの種じゃなかったら、普通に友達になれてたと思う」
ティルトはたぶん、最後にかける言葉を探していたのだと思う。迷うように視線を揺らしたあと、もう一度「ごめん」と繰り返した。
「……俺も。傷つけて、ごめん」
迷ったすえにレヴィンが伝えた謝罪に、くしゃりと顔を歪ませた少年は、それ以上なにも言わず足早に去っていた。
無音になった物置部屋で、レヴィンは渡す宛のなくなった手の中のものを、力いっぱい握りしめた。
レヴィン・トワ・ティシャールは、滅びの種ではない。彼自身はそのことを知っていた。どういうかたちであれ、自分に国を滅ぼせるような力など、ありはしないのだと。
けれど多くの民は、彼が滅びの種であると信じ続けている。彼が王籍から廃されようとも、新たな王が即位しようとも、変わらず。それはまるで、惰性のように。
この国の人々が常に抱える、滅びに対する漠然とした不安。
いつ滅びるのか。なにによって滅びるのか。自分たちの生が終わるそのときまで、あるいは我が子の生きているあいだ、この国は保っていられるのか。逃れようのない不安をかたちのないまま留めておくよりも、いっそなにかに当てはめてしまった方が、人の心は楽になれるのだろう。
あれは滅びの種だと、不安を言語化する。そこに実体が伴うなら、なおさらわかりやすくて都合がいい。民が自分を忘れてくれない理由はおそらくそこにあるのだと、レヴィンはそう考えていた。心の安寧を得るために、誰かを利用すること。それはたぶん、誰もが無意識にやっていることなのだ。
だからといって、なにも感じないはずがない。
心の安寧のために誰かを利用するのが人の性だというのなら、自分もそれに倣えばいいのだと思った。レヴィンは自覚をもってティルトを利用しようとしたし、ティルトもまたそれはわかっていたはずだ。
そんな自分と友達になろうなどと思うはずがない。だから、こんなかたちで傷つけてしまうことも、なかったはずなのだ。
誰か一人、振り向いてくれれば、と願った。
けれど優しい人は、振り向いたことで気づいた景色を見て、痛ましいと感じてしまう。その感情は、誰からも受け入れられないものなのに。その乖離はきっと、その人自身を苦しませるだけなのに。
「……疲れるな……」
傷つけられたのなら、相手を責めればいい。けれど自分が誰かを傷つけてしまったとき、そんな自分を誰も責めてくれないのは、どうしようもなく堪えることだった。こんな思いをするくらいなら、いっそ静かに自分の世界で閉じこもっていた方がよかった。
そうしていればきっと、誰も苦しくなることはなかったのに。
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