5 別れ

 その部屋は、しん、と静かだった。


 一人掛けソファに座るユキは、もうずっと、一点を見つめている。視線の先にあるのは、閉じたままの扉だった。その向こうへレヴィンを見送ってから、ユキの体感ではかなりの時間が経過している。


 レヴィンはまだ帰ってこない。


 彼を連れ出したエイリックは、後ろに控えていた二人のうち、アルフレートと呼んでいた青年だけを共に連れ、もう一人の青年、ボードはこの場に残していった。


 その体躯と鋭い三白眼から見る者に厳つい印象を与える青年は、視線を伏せたまま黙然と部屋の隅に立っていて、微動だにしない。壁と同化するように気配を薄めているさまを一瞥して、ユキはため息をついた。


 思えば、彼が屋敷に来たときから、今日という日は一変してしまったのだ。どこへ行くにしろレヴィンと一緒なら問題ないと思いもしたが、行った先でこんなふうに離れることになるとは予想していなかった。


 終始、顔色の優れなかったレヴィンを思うと、ユキの胸は痛んだ。


 早く屋敷に戻りたかった。

 あの場所へ帰れば、エルマとゼルマがいる。


 エイリックの言う監視役がどんな役目なのかはわからない。それでも、あの双子がレヴィンを大切に思っていることは間違いない。そうしてレヴィンもまた、彼らを大切に思っている。


 優しい双子に迎えられて、また四人で食卓を囲むのだ。静かで穏やかな時間に帰って、それが当たり前に戻れば――レヴィンの憂いもきっと晴れていくだろう。


 そのとき、静かに扉が開いた。

 待ちわびた人がようやく姿をあらわしたのを見て、ユキは立ち上がりそちらへ歩み寄った。


「話は済んだのか?」


 レヴィンは「ああ」とうなずいた。


 一緒に部屋を出たはずのエイリックやアルフレートの姿はない。彼一人だけが戻ってきたようだった。


「なら、もう帰れるのか?」


 期待を含んだユキの問いに、レヴィンはゆるやかに首を横に振った。


「少し座って話さないか?」


 穏やかな声に促され、ユキはレヴィンと隣り合わせるかたちでソファに腰を下ろした。

 そのあいだもボードは変わらず壁際に立ち続けていたが、レヴィンは気に留めていない様子だった。


「急なことばかりで疲れただろう」


 気遣うように言ったレヴィンの顔面にこそ、疲労がにじんでいるように見えた。


「大丈夫だ」


 そうユキが返すと、レヴィンも「そうか」と短く応じた。わずかな静寂を挟んで、レヴィンが口を開く。


「……ここへ来る前、俺の生まれについて話が出るかもしれない、と言っただろう。大方は陛下が説明してくださった通りだが、なにか聞きたいことはあるか?」


 ユキはしばらく考えたあと、「ひとつだけある」と答えた。


「なんだ?」

「本当は、知られたくなかったんじゃないのか?」


 レヴィンは一瞬だけ虚を衝かれたような顔をした。すぐに我に返った様子で、苦笑を浮かべる。


「どうしてそう思ったんだ?」

「話せる時間も機会も、これまでいくらでもあったのに話さなかったからだ。大抵のことは、聞かなくても説明してくれていただろう?」

「……そうか……」


 つぶやいて苦笑を深める。その表情は、どうしてか少しだけ嬉しそうにも見えた。


「なにも知らないおまえといると、自分が滅びの種と呼ばれていることを、意識せずに過ごせた。……それが、とても楽だったんだ」

「それなら、知らないままの方がよかったな」


 ユキが言うと、レヴィンは「いや」と否定する。


「ユキの立場を知った今では、もっと前に話しておくべきだったと思っている」


「さっきの選択の話か?」

「そうだ。陛下の話を聞いて、ユキはどう感じた?」


 静かな声でレヴィンが問う。それを呼び水にして、ユキはそのときの記憶を思い返した。


 エイリックの口からはじめて神の娘という言葉を聞いた瞬間、ユキは、自分が何者であるかを自覚した。だからその後のエイリックの話は、知っている内容の答え合わせをしているようなものだった。これといった感慨もなく、そうだった、とただ納得しただけ。それが正直な感想だ。


 彼女がそれをたどたどしく説明すると、レヴィンは考える素振りを見せて言った。


「言葉を聞いただけで、神の娘がどういうものなのかわかったのか?」


 ユキはうなずいた。


「知らない言葉は、見たり聞いたりすると意味がわかるようになる」

「つまり今回は、神の娘、という言葉をきっかけにしてそれを自覚したのか。ひょっとして、文字の覚えが早かったのもそういうことか?」


 ユキが「そうだ」と答えると、レヴィンは納得したようにつぶやいた。


「……なるほど。道理でのみこみが早いはずだ。最後の神はそうやって、生まれたばかりの娘が知識を得られるようにしたのか……」


 たとえるなら、ユキのそれは辞書に近い。最後の神は、ユキに辞書を持たせたが、それを自由に読むすべは与えなかった。言葉と出会うことではじめて索引を辿り、その意味を知ることができる。しかもこの辞書は万能ではなく、入浴と聞いて、風呂に入ることだと理解できても、風呂の入り方まではわからないのだ。


「最初からすべてを知っている者を送り出さないのには、意味があるんだろうな」


 レヴィンの言葉に、ユキは「わからない」と答えたが、彼が言うのであればそうなのだろう、とも思った。


「……ユキ」

「なんだ」

「おまえにその名を与えたのは、最後の神か?」


 問われたユキはうなずいた。それは、自分が神の娘であると自覚してはじめて気づいたことでもあった。


「その名に、なにか意味はあるのか?」

「ユキは、雪だ。それが降るときが選択のときになる」


 彼女の名は、課せられた選択の期限を示すものだった。

 それを知ったときには、なんの感情もわかなかった。けれど今、レヴィンの表情が痛みを堪えるように歪むのを目にして、ユキの心に動揺がはしった。


「……どうしてそんな顔をするんだ?」


 ユキは、思ったままを口にした。

 レヴィンは困ったように眉尻を下げる。


「ユキが今、なにを選ぼうとしているのか……わかる」


 それは、ユキの問いに対する答えではなかった。けれど、まったく無関係な言葉でもないように思えた。


「おまえと一緒にいたい」


 彼女の望みはそれだけだった。だから、自分に選択する権利があるというのなら、それが叶う方を選ぶ。


「おまえには、このまま城に残ってほしい」


 レヴィンの口から発せられた思いがけない言葉に、ユキは息を呑んだ。


 おまえには?

 その言い方は、まるで――


「……おまえは……?」

「俺は、一人で屋敷に戻る」


 その瞬間、許容量を超えたなにかが胸に重くのしかかった。


「……どうして」


 空気を震わせるだけの力もない、あえぐような声が、彼女の口内でだけ響いて溶ける。


 どうして、そんなことを言うのか。


 ――俺も、おまえがいてくれて嬉しい。


 そう言ってくれたのに?

 うまく働かない思考を必死で巡らせる。どうして。なにがいけなかった。自分はどこで間違ったのか。思いあたるのは、直近の会話しかない。


「おまえが……」


 自分がなにを言おうとしているのかもわからないまま、恐る恐る、ユキは口を開いた。


「おまえが気に入らないなら、変える……」


 だから、置いていかないでほしい。


 レヴィンは目を細めて、静かな声で言った。


「……おまえのしたことで、気に入らないことなんてひとつもない。俺が考えている以上にユキは聡い。考える力があるんだ」


 不意に、レヴィンが顔を寄せる。彼の黒い瞳が至近距離でユキを映し、通り過ぎた。耳元で、極限まで絞った声がささやく。


「選択権はおまえにある。誰にも譲るな」


 ユキは目を見開いた。


「ティシャール公爵――」


 それまで、空気のように存在感を消していたボードの声が厳しく響く。


「どうか、そこまでで」


 発せられた制止に従うように、レヴィンはユキから離れた。


 唐突に割って入った声の主に注意を向けたユキは、そこでようやく思い至った。弾かれたように、視線をレヴィンに戻す。


「……王に、なにか言われたのか……?」


 尋ねたユキに、レヴィンは淡く微笑んだだけだった。


「元気で」


 短く告げて立ち上がったレヴィンは、そのままユキに背を向け去っていく。

 追いかけようとしたユキは、膝に力が入らないことに気づいた。見れば、寒くもないのに指先が震えている。どうしてこんな大事なときに、体がうまく動かないのだろう。


「待ってくれっ……待って……」


 震える声でそう言っても、レヴィンは止まらなかった。あっという間に扉の前に行きつくと、ためらわず扉を開ける。


「いやだ、やだ……行かないで……レヴィン」


 名前を呼んだその一瞬だけ動きを止めたように見えた背中は、それでも振り返らなかった。


 扉の閉まる音が響く。


 喉の奥から鼻先にかけて、ツンと鋭い痛みが走って、レヴィンを飲み込んだ扉がぼんやりと歪んでいく。にじんだものが決壊し、次々と膝の上へこぼれ落ちたが、それに気を回す余裕はなかった。


 ……行ってしまった。

 自分を置いて。


 この扉を、どれだけ見つめて待ったとしても、レヴィンはもう戻ってこない。そうわかっていても、それを期待すること以外、自分になにができるのか……ユキにはわからなかった。

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