幕間 その夜
綺麗に整った場所だけが、価値あるところではないと知っている。
頻繁に足を運ぶことだけが、大切さの証明ではないということも。
王城には、時代ごとに作られたさまざまな部屋や設備が数多くある。その当時には明確な目的と用途があったとしても、使用者がいなくなったことで、ただ埃を積もらせている場所は多い。
今、ボード・マシュラムがいるこの部屋も、かつてはそうした使われない場所であったのを、悪童たちが面白がって私物化したものだ。
要するに、子どもの秘密基地である。
一国の王城にそんなものを作っても叱責されなかったのは、悪童のうち一人が、この城の主の息子だったからだろう。今はもういない、かつてこの国の王だったその人は、自分の息子に対してどうにも甘いところがあった。
歴史のどこかで家族を丸ごと匿って住まわせていたことでもあったのか、そこはちょっとした居住空間になっていた。そう大きくはない居間を囲むようにして、複数の個室と小さな浴室まで備えられている。
使用頻度の低い区画の奥にあったから、大人の目から離れて自由に遊びたい子どもにとっては、これ以上ない場所だった。大人になった今でも、こうして人目を避けたいときには、この場所を選ぶほどに。
「先に始めてるぞ」
きしんだ音をたてて開いた扉から、二人の友人が顔を出すと、ボードは酒杯を掲げてそう告げた。
時刻は夜更け。照明の炎だけが淡く照らすその下で、エイリックとアルフレートは、かつて彼らの定位置であったソファや椅子の前までやって来ると、積もった埃を適当に払い落としてから、その場所に腰を下ろした。
秘密基地の居間に位置するその部屋は、まともな調度品など残っていなかったところに、各自が持ち込んだ椅子やら机やらを好き勝手に並べたせいで、統一性の欠片もない空間になっていた。
「彼女は? もう眠ったかな」
ボードが持ち込んで机に並べていた酒とカップを手に取りながら、エイリックはそう尋ねた。
「あっちの部屋。泣き腫らした目ぇして寝たわ」
ボードは背後にある扉を親指で示した。
レヴィンが去って取り残された少女は、声もなく泣き続けた。まるで失ったものの大きさを涙に変換しているかのように、黒い瞳から溢れるそれは、いつまでも尽きる気配がなかった。
慰められることを知らないのか、あるいは望む相手ではないからなのか、見かねたボードがどんな言葉をかけてみても、少女は反応を示さなかった。巣から落ちた雛鳥だってもう少し悲愴に訴えてくるものだ。救いを期待しない者の涙ほど、他人にとって手の施しようのないものはない。
体力が尽きるまで感情を流し切る以外、すべを持たない少女にひたすら付き添い続けて、気絶するように眠りに落ちたところを、ここまで運んで寝かせたのだ。先に飲みたくなるのも当然のことだろう。
「……それは、苦労をかけたね」
こぼすようにそう言ったあと、エイリックはカップを傾けた。
「俺はいいけどさ。あの子の中じゃ、あんたの心象最悪だろうな」
ボードが言うと、エイリックは「だろうね」と応じて、くっと喉を鳴らした。
ボードはなんとなく視線を天井にやったり床に落としたりしたあと、小さくため息をついて口を開いた。
「――悪かった。ティシャール公からの書状、勝手に留め置いて」
この友人が、弟のことになると平静でいられなくなるのを知っていたから、ただでさえ忙しい誕生祭の時期に負担を増やすべきではない、と判断した。
レヴィン・トワ・ティシャールは、滅びの種と呼ばれる存在であっても、実際に滅びの種であるわけではない。余計な波風をたてず静かに暮らしてきた彼のこれまでを考えるに、レヴィン自身も己の立場をよくわきまえているのだと思えた。だからボードの捉えとして、彼の取り扱いの悩ましさはむしろ私的なところにあって、それゆえに公事を優先させるつもりで後回しにしたのだ。事後報告をアルフレートに押し付けたのも、個人的に文句を言われる程度の事柄だと想定していたからだった。
それがまさか、国の存亡にかかわる事態につながっているとは――なによりこの友人が、自分とアルフレートさえ知らない重圧を一人で抱え続けていたとは、思いもしなかった。
――最後の神イレイネシアは二百年前、時の王にこうお告げをしたそうだよ。当年より百年に一度、王の一族のもとへ神の娘を遣わせる。その娘こそが、この国の存亡を決めるだろう、と。
そう語った友人は、来たる百年目を前に、どんな気持ちでそれを待っていたのだろうか。
自分もアルフレートも、その傍らで同じ時間を重ねてきたはずだ。……当然、同じ方向を見ているつもりで。立つ場所が違えばすべてが同じになるはずもないということを、失念してしまえるボードの迂闊さが、この大事を前に、エイリックの足を引っ張ることになった。
「別に」
軽い調子で返したエイリックは、そこで酒杯を大きく傾けてから、次の一杯を注ぎつつ言葉をつなげた。
「手遅れってわけでもないようだし、問題ないよ。長い付き合いだし、ボードの考えそうなことくらいわかってる。君って昔っから、良かれと思って余計なことしちゃうところがあるしね」
「……ソウデスネ」
今回の件はともかく、幼少期からの諸々まで余計なことのひとくくりで一蹴されたボードは、舌打ちしたいのを堪えながら努めて平坦に応じた。
「百年に一度、王の一族のもとへ神の娘を遣わせる……か。この国にいる王族は、もう僕だけだと思っていたけど、イレイネシアにとっては違ったみたいだね。ティシャール公のもとへ行く可能性を考慮して備えなかった、僕が阿呆だったんだよ」
エイリックは、感情をこめるでもなく淡々とそう言った。
陽の光の下では、やたらと煌々しく感じられる空色の瞳も、照明の炎が淡く照らすだけのこの部屋では、輝いて見えることはない。年相応に未熟な精神を抱えた人間が、酒をあおって愚痴をこぼしているだけの、ちっぽけな姿。久しぶりに目にする、自然体の友人だった。
ボードはアルフレートに視線をやった。気づいた彼は、薄く微笑んでうなずく。
「まあ、飲みたまえ」
酒が並ぶテーブルを手で示しながらボードが促すと、エイリックは「命令するな」と苛立たしげにつぶやいてから酒瓶を手に取った。
「ボードこそ進んでないみたいだけど?」
「俺はあんたらが来る前に一瓶あけてるから」
「……先に言っておきますけど、二人ともいい大人なんだから、限度はわきまえてくださいね。警備のために一人だけ飲まずにいる私に、間違っても介抱なんてさせないように」
呆れた顔で釘を刺すアルフレートを、酔っ払い二人がそれぞれ調子よく応じてかわした。
それからしばらくは、気の置けない友との他愛ない応酬に興じる時間が続いた。酒杯が進み、用意していた酒が尽きかけるころには、なにを言わずとも自然と終いの空気が感じられるようになっていた。
「それで? 明日からどうするんだ、あのお嬢さん」
尋ねたボードに、エイリックは肩をすくめて答えた。
「予定通りでいいかな。ボードは普通に侍従として、彼女がつつがなく暮らせるよう面倒を見てあげて」
「普通に侍従としてって……俺、文官なんですけど?」
「もとは侍従志望だったでしょ」
「それを変更させたの、あんただろうが……」
噛みつくようにボードが言うと、エイリックは「だって、」と返した。
「アルフレートに文官とか、無理でしょう?」
「……まあ、そうだけど」
「ちょっと。当人の前で悪口はやめてください」
口を尖らせて言うアルフレートに、エイリックは優しく微笑んだ。
「悪口じゃないよ。アルフレートには、そのぶん侍従としての才能があるんだからね。その点、ボードは器用貧乏なんだよ」
「そこ、あえて俺を落とす必要はあったのか……?」
エイリックは愉快そうに「ははっ」と声を出して笑った。
「加えて、情に脆くて子どもに甘い。厳つい見た目してるのにね」
「おまえらみたいになーんも考えてなくても、優しそう、とか言われちゃう顔したやつらに、目が合っただけで睨んでるとか泣かれる人間の気持ちなんて、わかんねぇんですよ……」
「うん。全然わかんない」
きっぱりと言い放ったエイリックは、「ともかくね」と前置きして続けた。
「今回は、君のその情の深さを遺憾なく発揮してくれて構わないよ。筋道は、もう見えてるから」
言葉の途中で、エイリックは苦笑した。
「神の娘には申し訳ないけど、最後の国の王さまとしては、国を滅ぼすわけにはいかないからね」
◆◆◆◆◆
夜闇に浮かぶ、無数の木々の陰影。
その狭間を縫うようにして、レヴィンは一人歩いていた。
手にした灯りが頼りなく照らす暗い森の中で、草木を踏みしめる靴音と弾んだ呼吸音が静かに響いている。
少しずつ夏の気配が色濃くなっているとはいえ、夜の空気はまだ肌寒かった。ときおり思い出したように吹く風が、汗ばんだ髪と皮膚とを冷ややかに撫で、枝葉を揺さぶって森をざわめかせる。
辿り着いた小屋の前で、レヴィンは扉に手をかけた。きしんだ音をたてて開いたそれは、迷わず中へと踏み込んだレヴィンを飲み込んでから、ゆっくりと閉まる。
そのまま扉に背を預けたレヴィンは、沈み込むようにして腰を下ろした。肩が脱力して両手が落ちると、手にした灯りが大きな音を立てて床にぶつかった。その拍子に炎が消えて、あたりが闇に落ちる。
王城から戻ったその足で、ここまで歩いてきた。
町までの移動は馬車だったとはいえ、街から森までの道のりも、普段の足ならば半日はかかる距離だ。それをいったいどのくらいの時間で歩いてきたのか、彼自身にもよくわからなかった。
屋敷には明日、戻るつもりだった。だから、それまでに立て直さなければならない。あの優しい人たちに、これ以上の心配をかけないように。
静かだった。自分の息づかいが、妙にうるさく感じられるほど。汗をかいて湿った肌に、夜気の冷たさが容赦なく染み込んでくる。
ここしばらく、当たり前のように傍らにあって、馴染んだ気配がない。
「……滅びの種か」
それは、生まれ落ちてから今日まで、彼を示す代名詞のように使われてきた言葉だ。生涯、顔を合わせることもないような名も知らぬ人々が、どれだけ自分をそう呼んだだろう。
――君だって、彼女の危うさには気づいているんだろう?
エイリックに言われるまでもなく、レヴィンもわかっていた。
ユキがなにを選ぶのか、ということも。その選択に、レヴィンの意思を介入させることの容易さも。
いつだって、思慕のこもった強い瞳が、まっすぐに彼を映していた。
――おまえと一緒にいたい。
その言葉を、どれだけ受け入れたいと思ったか。
――行かないで……レヴィン。
悲痛な声ではじめて名を呼ばれ、どれほどの思いで振り返るのを自制したか。
どうすればいいのか、わからなかったのだ。
ユキの隣に居続ければ、自分はきっと、彼女の選択を誘導してしまうだろう。たとえ、エイリックの命令がなかったとしても。
レヴィンにも欲はある。それに付随するものが、レヴィンだけの罪になるなら、こうして彼女と離れる必要もなかった。滅びの種と呼ばれてきた者が、ふさわしい選択をするだけのことだから。
――背負う覚悟がないなら、君はもう黙った方がいい。
エイリックの言葉は、詭弁に過ぎないとレヴィンは思う。
人は狡い。いくらでも誰かに押しつけ、背負わせて楽な方へと逃げることができる。滅びの不安を、生まれたばかりの赤子に押しつけた人々のように。
どんな過程があろうと、最後に選ぶのはユキなのだ。選択に介入する者が持つべきなのは、己が背負う覚悟ではなく、彼女に背負わせる覚悟だ。
滅びの種。
今ではそれが、生まれついた境遇によって結びつけられた呼称にすぎないと理解できる。けれどレヴィンがその境地に到達するまでのあいだ、少年だった彼の精神は、その言葉がもたらす苦しみと向き合いながら生きることを強いられた。
呼吸することさえ罪深く思えて戦慄し、生きていることの重圧と恐怖に心が蝕まれるような、あの真っ暗な罪悪感。
それを知っている自分が、どうして彼女に背負わすことができるだろう。
ユキを失うことなど考えられない。
けれどレヴィンには、彼女を滅びの種にする覚悟も持てなかった。
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