3 王の秘密

「アルフレート。喉が渇いたから、お茶をお願いできるかな」


 背後を振り返ったエイリックが、優しい声でそう言った。彼の後ろに控える二人のうち、ボードではない方――青みがかった灰色の癖毛をもつ温和そうな青年が、了承の意を返して退室する。


 レヴィンはそれをなんとも言えない気持ちで眺めていた。


 エイリック・ジア・プリシピア。この国の王であり、血縁上は兄でもあるこの青年とは、顔を合わすのも、言葉を交すのも、これがはじめてだった。いや、レヴィンの発した言葉は途中で捻じ伏せられたから、言葉を交したとは言えないのかもしれない。


 もし会うことがあるのなら、どういう反応をされるだろうかと思っていた。王となるべく望まれて生まれた彼にとって、その統治下における自分の存在は、忌々しい障害以外の何者でもないだろう。それはわかっていた。


 そのはずなのに、レヴィンはきっと、どこかで少しだけ期待していたのだ。エイリックの中に、望まずそう生まれついた弟を憐れむ気持ちがあるのではないかと。彼の人となりなどなにも知らないくせに。


 一方的な感情を他者に押し付けて良しとする人々の理不尽さが、自分を滅びの種にしたのだとレヴィンは思っている。同じような感情が自分の中にも存在していたことが恥ずかしく、彼の自尊心を傷つけた。


「さて、」


 エイリックは軽い調子でつぶやいてから、中断していた話を再開した。


「そこのティシャール公は、すでに王籍を廃したとはいえ、王の血を引く子であることに変わりはない。彼の存在を、滅びの種だと不安視する民は多くてね」


 滅びの種とは、滅びにつながりかねない要素や存在を言い表す言葉だ。幅広く定義するのなら、そこには、あらゆるものが当てはまる。乱暴に言い換えれば、それは不安の種なのだ。


 レヴィンがこの世に誕生して以降、その言葉は、彼を示す代名詞となっている。レヴィンがこれまで、滅びにつながるような行動をとったことなどない。危惧されていた王位を巡る争いについても、エイリックが王として即位している今、王籍を廃されたレヴィンにいったいなにができるというのか。それでも、いったん滅びの種だと断じた存在を、民が忘れてくれることはなかった。


 彼が滅びの種であると知れば、誰もが拒絶し距離をおく。そのくせ滅びの種という言葉は、折に触れ人々の口の端にのぼるのだ。素性を隠してかかわれば、目の前の人物が挨拶程度の気軽さで自分を否定する言葉を吐き出すのを、他人のふりをして受け止めることになる。


「彼は、今なお微妙な立場なんだよ。だから、王である僕に対して定期的に暮らしぶりを報告する義務があるし、一応、監視役もついてる。君も知っているよね? アトロス伯爵家の双子」

「……エルマと、ゼルマ」


 目を瞠ってそうつぶやいたユキに、エイリックは「たしかそんな名前だったね」と応じた。


 エルマとゼルマは、かつてレヴィンの後見役を任されていた貴族の家の子だ。彼らの母はレヴィンの乳母であり、彼らとはきょうだいのように育った。けれどもそれは、あくまでレヴィンが成年を迎えるまでの話。後見役から解放されたあとも彼らがレヴィンと共にいるには、滅びの種の“監視役”という名目がどうしても必要だった。アトロス伯爵家が白眼視されないために。


 隣に座ったユキが、ゆっくりとレヴィンに顔を向ける。それを視界の端で捉えたレヴィンもまた、彼女を見やった。


 こちらを見上げる少女の表情には、戸惑いがにじんでいる。安心させようと、レヴィンはできるかぎりの笑い顔をつくって見せた。小さく息を吐いたユキの細い肩がわずかに下がる。余計な力が入っていたのだろう。


 ユキの挙動を見守っていたらしいエイリックが「……さて、もういいかな?」と首を傾けた。


「そういうわけで、君がティシャール公のもとへ身を寄せたことも、公自身の報告で知ったんだよ。そうして、君にここへ来てもらうに至った。その理由こそが、今日の本題なんだ」


 ようやく辿り着いた、といった表情でエイリックが言う。


 そのとき、計ったかのような間の良さで、先ほどアルフレートと呼ばれていた青年が戻ってきた。席に着く三人の前にカップを並べると、彼は再び後ろに控える。

 流れるような所作でカップをとったエイリックは、ゆっくりと喉を潤してから、再び口を開いた。


「さっき話の中で、滅びの種という言葉を出したね。実のところ、民の目線で語る滅びの種と、王の目線で見る滅びの種はまったく違うものなんだ。この時代、民の言う滅びの種はティシャール公だけど、王の目に映る滅びの種は彼じゃない。だから、君をここへ呼んだんた」


 ユキに向けて微笑むエイリックを見て、レヴィンは心中で、やはりそうなのか、と嘆息した。彼女と出会ったときから抱き続けてきた、この少女は何者なのか、という疑問が、ようやく答えに辿りつこうとしているのを感じた。


「ティシャール公からの書状では、君には目覚める以前の記憶がないとあった。けれどそれは、記憶を失ったからじゃなく、そもそも君に、目覚める以前なんてものは存在しないからだ。そうだよね?」


 反応を求められたユキは首肯した。


「伝え聞くところによると、最後の神イレイネシアは二百年前、時の王にこうお告げをしたそうだよ。当年より百年に一度、王の一族のもとへ神の娘を遣わせる。その娘こそが、この国の存亡を決めるだろう、と。この国の滅び方は、もう決まっているんだよ。――さて、最初のお告げがあってから、今年でちょうど二百年だ。つまり君は、三番目の神の娘なんだよ」


 その言葉には、エイリックの背後に控える二人までもが目を見開き、驚愕を隠せない様子だった。

 エイリックは、まわりの者の反応にも構わず話を続ける。


「神の娘である君は、お告げの通り二百年目の今、王の血を引くティシャール公の前にあらわれた。君はこれから、この最後の国を存続させるか否か、選択することになる。滅びを選んだ場合には、君と君が愛するもの、すべてが息絶えたそのあとにこの国は滅びるだろう。そして存続を選んだ場合には、その引き換えとして君の命を神へ捧げることになる」


 そこまで言い終えてから、探るような視線をユキに注いだエイリックは苦笑した。


「少しは驚いたり動揺したりするのかと思ってたけど、あっさり受け入れたみたいだね。……そのへんの情緒はまだ育ってないのかな」


 エイリックの指摘通り、ユキは平然とした表情で彼の視線を受け止めていた。先ほどレヴィンを見上げたときの方が、よほど揺らいだ顔をしていた。


「……まあ、話が早くていい、と思っておこうか。ずっと話しっぱなしでいい加減に疲れちゃったし、この場はいったんお開きにしよう」


 そう提案したエイリックは、しかし思い出したように「ああ、でもその前に言っておかないと」とつぶやいて姿勢を正した。


 瞬間、エイリックの纏う空気が一変したように感じられた。他者を圧する気配を放ちながらも、表情だけは変わらず柔らかなまま、彼は口を開く。


「神の娘については、かたちに残すことも危うい話であるために、歴代王のあいだでのみ口伝として伝えられてきたことだ。神の娘に際したとき、当代王の判断でもって必要最低限の者にのみ伝えることが許されている」


 エイリックは、背後に控える二人を含め、全員に視線を一巡させた。命ずることに慣れた者の厳然とした声が、場に重たく響く。


「今この場にいる者が、私の判断した必要最低限のすべてだ。これより生涯、いかなる理由をもっても、この話を外部に漏らすことはけして許さない。全員、かたく心得よ」

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