2 急転
レヴィンに促され、ボードの残る応接室をあとにする。そのまま廊下をしばらく歩いたところで、前を行くレヴィンが立ち止まり、ユキを顧みた。
「……驚かせてしまっただろう」
つぶやく声は沈んでいる。瞳には、困惑がにじんでいた。
レヴィンの言う通り、ユキはたしかに驚いていた。ついさっきまでは、間違いなくいつも通りの静かな一日だったのだ。それが、たった一人の人間、たった一通の書状で、簡単に覆ってしまった。
どうしてなのか、と問いたい気持ちはもちろんあったのだが、それ以上に心の動揺を隠せていないレヴィンが気にかかり、かける言葉を見つけられないでいた。
「さっき受け取ったのは、国王からの書状だ。ゆっくり説明できる時間がないから、最低限のことだけでも伝えておきたい」
抑えた声でそう言って、レヴィンは続けた。
「これからユキは、俺と一緒に王城に行くことになる。この国の王がおまえに会いたがっている」
「なぜ?」
説明する時間がないと言われているのに、無意識に思ったままが声になっていた。レヴィンはそれを咎めることなく答えてくれる。
「理由のひとつには、俺の生まれが関係していると思う。それについては王城で話が出るかもしれないし、そうでなければあとできちんとユキに話す。……だが、それだけでは急な召喚の理由としては説明がつかない。だからおそらく、もうひとつの理由はおまえ自身にあるのだと思う」
思いもしなかった言葉に、ユキは瞬いてそれを言った人間を見上げた。視界の中のレヴィンは、まっすぐユキを見ている。その瞳に、疑いや鋭さはないように思えた。ただ、彼が真剣にそう考えていることは伝わってくる。
「わからない。そんな理由は見当もつかない」
頭を振ってユキが言うと、レヴィンはなだめるようにささやいた。
「そうだな。すまない、俺の勘違いかもしれない」
着替えてくるようレヴィンに言われ、ユキは自室に戻った。そこにはすでに着替えの準備を整えたエルマが待っていて、身支度を手伝ってくれた。手を動かすエルマの表情は、ときおり心配そうに曇ったが、最後まで準備と関係のないことには言及しないままだった。
エルマとゼルマに見送られて、ユキは屋敷を出た。傍らにはレヴィン、前方にはボードが立ち、そのさらに前には、二頭の馬につながれた馬車が停まっている。
この街へ来たとき、レヴィンと乗った布張りの幌馬車とは違う、頑丈そうな四角い箱の馬車だった。窓はあるが、カーテンが引かれているため中の様子は見えない。
これから、この箱に詰められて王城へと運ばれるのか。そう思うと、なぜだか無性に背後の景色が恋しくなって、ユキは振り返った。
見慣れた屋敷と、その傍らに広がる庭が目に入る。風が葉を揺らす、ざわめきが耳をうった。少し前まで白くに染まっていた樹は、花が散って本格的に葉が茂りはじめたことで、濃い緑色に変化している。
「ユキ?」
控えめな声に名を呼ばれ、ユキは目線を隣へ移した。気遣わしげな顔をしたレヴィンが、ユキを見ている。
どこへ行くのだろうと、彼が一緒ならそれでいい。はじめてこの屋敷に来たときだって、そういう気持ちだったはずだ。赤毛の青年に向けて、ユキはいつも通り淡々と言葉を伝えた。
「大丈夫だ」
馬車に乗り込んだあとは、王城までの数時間を狭い空間で揺られて過ごすことになった。ボードも同乗していたが、彼は道中ずっと目線を伏せたまま、口も開ざしていた。
王城に到着したのは、太陽が中天に達しようとしているときだった。
扉の前に馬車が横付けされたため、城の全体像を見ることは叶わなかったが、見える範囲だけでも、ユキがこれまで目にしたどの建造物よりも巨大で堅牢であることはわかった。
王城に足を踏み入れてからは、ボードに促されるまま、ひたすらに歩くことになった。数回ほど階段を上り、かと思えば反対に下る。あちこちで繰り返し右へ左へと曲がっていくうち、当初の進行方向は完全にわからなくなっていた。すれ違う人の姿もまばらになり、しばらくたったころ、これまで何度も目にしては通り過ぎてきたような、平凡な扉の前でボードは立ち止まった。
彼がノックをすると、扉が開いて一人の青年が姿を見せた。
ボードと同じ年ごろだろう。厳つい印象のボードとは真逆の印象を与える青年だった。薄青の瞳は大きく、上に乗る眉は下がり気味で、少し困っているようにも見える。癖のある青みがかった灰色の髪は、ふわふわと空気を含んで柔らかそうだった。中肉中背で目立つ特徴はないのに、構成する要素のすべてが優しげで、見る者の警戒心を薄れさせるような柔和さがある。
「どうぞ」
穏やかに青年が言って、部屋の中へと促される。そこは続き部屋になっているようで、部屋の奥にはまた扉があった。
「こちらで陛下がお待ちです」
そう告げた青年は、扉の向こうへ来訪者の存在を伝えたあと、静かにその扉を開けた。
そこは、レヴィンの屋敷にあるものとそう変わりない応接室だった。中央に置かれたテーブルを挟むようにして、両側に一人掛けのソファが三脚ずつ並んでいる。
そのうちひとつに、腰かけている者の姿があった。
明るい金色の髪と澄んだ空色の瞳を持つ、繊細な容貌の青年だった。悠然とした挙動で立ち上がった彼は、ボードほどではないが上背があり、細身であるのに貧弱には見えない程度の安定感があった。立ち姿は、本の中の挿絵のように優美だが、あまりに整いすぎているせいなのか、どこか作り物のようにも感じられた。
「やぁ、よく来てくれたね。待っていたよ」
耳に心地いい、落ちついた声音でそう告げた青年は、微笑んだ。
「はじめまして。僕は、エイリック・ジア・プリシピア。この国の王だ」
笑顔を保ったまま「立ち話もなんだから、座って?」と言った国王エイリックは、自身の対面にあるソファを一瞥すると、視線でそこへ着席するよう促した。何気ない動きだったが、自らの挙動に他者が注目し、従うことに慣れている者の行動でもあった。
レヴィンとユキが席につくと、エイリックもまた元の場所に腰を下ろした。そのやや後ろの位置に、ボードともう一人の青年が立ったまま控える。
「さて、」
エイリックは、ユキに視線を向けると目元をやわらげた。
「君がユキだね。ティシャール公から知らせは届いているよ」
ティシャール公?
はじめて聞く名前に、ユキは小さく首を傾げた。それを見とめたエイリックが、「もしかして、わからないのかな?」と穏やかな声で尋ねてくる。
「陛下――」
「君に発言していいって言ったかな?」
口を開いたレヴィンは、遮るように声を発したエイリックにそう返されて、押し黙った。
「言ってなかったよね。じゃあ、わきまえないと。違うかな?」
聞き分けのない子どもに、優しく言い聞かせるような声だった。口を閉ざしたレヴィンの瞳は、痛みに耐えるように揺らいでいた。それを視界に入れているはずのエイリックは、表情ひとつ変えずに「返事をしてもいいよ」とだけ言い添えた。
「……おっしゃる通りです、陛下」
「そう。よかった」
それきりレヴィンに興味を失ったように視線をユキへと戻したエイリックは、すぐに困ったように苦笑を浮かべた。
「やだなぁ、そんなふうに睨まないでよ」
ユキは自分の視線が険しくなっていたことに、指摘されて気づく。
「そう。もうそんなに懐いてるんだね。……まあ、仕方ない。話を進めよう。本題に入る前に、別のことも説明しなきゃいけないみたいだしね」
ため息まじりにそうつぶやいたあと、エイリックは切り替えたように滔々と語り始めた。
「この国が最後の国と呼ばれていることは知っているかな? この国がそう呼ばれるようになってから、すでに二百年が過ぎている。それは、この世界に他にも国があったことを生きて知る者はもういないけれど、親から子、そのまた子へと口伝えに受け継がれる歴史が風化するには、まだ少し早い。そういう歳月だ」
この国に生まれた者は、幼いころから繰り返し歴史を語り聞かされ育つことになる。国はあっけなく滅びること。幸福は簡単に失われること。目の前の日常は、いつでも危うい均衡のうえに成り立っていて、滅びの種は目に見えないこと。
そうして未完成の柔らかい心に、しっかりと刻みこまれるのだ。まるで呪いのように。もっとも近しい存在から繰り返し与えられる、負の予感を。
この国の根底には、拭いようのない不安と恐れが沈んでいるんだ――とエイリックはささやく。
「そんな世の中だからね。歴代の王の役割は、いかに民の心を波立たせず、穏やかなままその治世を次へ引き継ぐか、ということなんだ。そこに例外はない。僕の前に王であった人もまた、定められた役目に従順に生きていたよ」
そこでいったん言葉を切ったエイリックは、なにかを想起するように空色の瞳をわずかに細め、説明を再開した。
彼の王には、幼いころから定められた婚約者がいた。幼馴染のように近しく育った二人だったが、婚姻後は誰の目からも仲睦まじい夫婦となった。
しかし、子どもには何年たっても恵まれなかった。
血縁間での争いを生まないために、王は王妃一人だけを娶るのが慣例となっていた。それでも早く世継ぎを、と求める声が高まると、王は一人の側妃を迎えて男児を産ませた。国民の安堵と祝福の声に溢れる中、国王夫妻はそれでも変わらず睦まじく日々を過ごしていた。六年後に、王妃が身籠るまでは。
再び民の声は乱れた。請われて娶ることになった側妃の子どもと、今なお愛する王妃の産む子。王はどちらを次代の王と望むのか。これは波乱の、ひいては滅びの種となりうるのではないか、と。
継承権は男児が優先されるものであったから、誰もが女児の誕生を願ったが、産声をあげたのは男児だった。生まれた子どもが一月を迎えたころ、王はその子の王籍と継承権を廃して公爵位を授け、王城から遠ざけた。
「ここまで言えば想像がついているかもしれないね」
エイリックは、無感動に言った。
「側妃の産んだ子どもが僕で、王妃が産んだ子どもが、そこにいる彼。レヴィン・トワ・ティシャール公爵だよ」
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