4 夜明け前のこと
ふわりと意識が浮上して眠りが浅くなった瞬間、自分が寝返りをうったのがわかった。体の下の感触が、馴染んだ寝台のものとは違って固い。不思議に思って薄く目を開けてから、レヴィンは気づいた。
ここは、森の小屋だ。
なら、自分は今、一人なのか。思ったそのとき、起き抜けのぼやけた視界の中で、至近距離から自分を見つめる黒い瞳と目が合った。
そうだった。今は、この少女がいる。
「起きてたのか……」
何時間かぶりに発した自分の声は、掠れて間延びしていた。
室内の暗さは、眠りにつく前よりもいくぶん薄くなっているが、まだ夜明け前だろう。起きるには早すぎる時間だ。
眠気を堪えながら少女の様子を窺うと、上掛けから顔を出す少女の頬は、赤みが透けて上気していた。浮かんだ汗のせいか、額や細い首筋には黒い髪が筋になって張りつき、潤んだ瞳はとろんとして焦点が怪しい。
眠りにつく前、少女が寒さを訴えていたことを思い出す。
「……そうだ、熱は?」
上掛けの中から手を出して、彼女の額に触れる。間違いようもなく発熱していることがわかる熱さだった。
「やっぱり、熱が上がったんだな。体は辛くないか?」
「つらくない」
少女らしい細く高い声が、妙に落ち着いた調子で言葉を紡ぐ。昨晩も話してはいたが、ずいぶんと滑らかに言葉を発せるようになっている。
「そうか。でも、熱が下がるまでは安静にしていてくれ」
「わかった」
「……朝までもう少し時間があるが……眠れそうか?」
振り払いきれない眠気を感じながらレヴィンが尋ねた裏側には、もう少し眠りたい、という自分の欲求が含まれていた。
「ねむくない」
「…………そうか」
明快な返答に力なく応じてから、レヴィンはどうしたものか、と眠い目を擦って少女を注視した。
少女の目は爛々と輝いていて、なにかを期待しているようにも見える。ふと、既視感に近いものを覚えて記憶を思い返せば、まだ無邪気だったころの幼い自分の姿が頭に浮かぶ。幼少期はよく体調を崩して発熱するほうだったが、熱が上がりきったあとは妙に元気になって暇を持て余していた。つまりこれは、
「……退屈なのか?」
半信半疑で尋ねてみると、少女は、そこではじめて自覚したようにはっとした表情を見せたあと、こくこくと小刻みにうなずく。期待できらめく少女の視線が、今度こそ疑いようもなく自分に突き刺さるのを感じる。レヴィンは、未練の残る睡眠に心の中で別れを告げた。
苦笑して起き上がったレヴィンは、少女に「少し待っていろ」と言い置いてから立ち上がり、カップに飲み水を汲んで戻った。
「喉が渇いているだろう。少し水分をとった方がいい」
そう伝えると、少女の目元がわずかにゆるんだ。
「自分で起き上がれそうか?」
問われた少女は、仰向けのまま無言で敷布に手をついた。腕に力を入れているのか、細い肩が小刻みに揺れているが、起き上がれそうな気配はない。
「一度、うつ伏せになってからやってみたらどうだ」
みかねてレヴィンが言うと、素直に従った少女はあっさりと体を起こしたあと、不思議そうに首を傾げていた。
手渡されたカップの水を休み休みゆっくりと飲み干した少女は、再び横になった。カップを片付けて戻ったレヴィンは、少女の額に湿らせた布を乗せる。その冷たさに一瞬、目を丸くした少女は、すぐにうっとりと目を細める。
「起き上がって、少し疲れたんじゃないか。朝食まで眠るか?」
「いやだ。ねむくない」
むずかる子どものように頭を振る少女に、レヴィンは苦笑して「そうか」と応じる。
「それにしても、ずいぶん上手く話せるようになったな」
「おまえが……」
「……うん?」
「はなすのを、きいた」
レヴィンはもう一度「……うん?」と声を発してから、首を、かくん、と斜めに傾けた。上手く話せるようになったな、の返しが、話すのを聞いた?
「それは……つまり、俺が話すのを聞いて、話すのが上手くなった? 俺の話し方を模倣したってことか?」
投げかけられた問いかけに、少女は口の中で「もほう?」と小さく繰り返した。はっとしたレヴィンがやさしい言葉に言い換えようとした瞬間、少女は一人で理解したように「ああ」とつぶやいてから、うなずく。
「そうだ。もほうした」
少し舌足らずでゆっくりとした彼女の幼い喋り方と、使う言葉が釣り合っていない。
「なぜ、模倣する必要がある?」
続けたレヴィンの問いに、少女は即答した。
「ほかをしらないから」
平然として言う少女を前に、レヴィンは少しのあいだ沈黙したまま、天井に視線をさまよわせた。少女と出会ってからこれまで抱えてきた違和感を、ぶつけてみるいい機会なのかもしれない、と思う。
「他を知らない? 俺以外の人間と、会ったことはないのか?」
少女はこくりと一度、首を動かす。
「じゃあ、俺と会うまで、おまえはどうしていたんだ?」
「おまえとあうまで?」
考える様子でゆるく首を傾けた少女は、やがて短く「ない」と答えた。
「ない?」
「おまえとあうまえは、ない」
自分の発言のおかしさに気づかない少女は、淡々と続ける。
「おまえとあって、はじまった。だから、まえはない」
「おまえは何者なんだ?」
反射的に口をついたレヴィンの疑問に、少女は首を傾げたまま動かなくなった。レヴィンが「わからないのか?」と問うと、こくりとうなずく。
「おまえが俺のもとに現れたのは、なにか目的があってのことか?」
「ちがう」
言葉の真意を推し量るようにレヴィンがじっと見つめると、少女の瞳は困惑したように揺らいだ。それが、訳もわからず大人に叱られている子どもの目のように思えて、レヴィンは「わかった」と応じてから、意識して視線をやわらげた。
この少女はたぶん、嘘をついてはいないのだろう。どう見ても十代半ば前くらいの年ごろの少女が、昨日“はじまった”ことは非現実的で意味不明だが、それさえ吞み込んでしまえば、出会ったとき呼吸をしていなかったことも、人の体温とは思えない冷たさだったことも、辻褄はあう。話し方の幼さ、体の動かし方の不器用さについても、すべて“はじまった”ばかりの経験不足からくるものと考えるなら、レヴィンの話し方を模倣している点も含めて説明はつく。つくことにした。
いや、正直に言えば最初の前提すら呑み込めているわけではいないし、細かい疑問なら他にもあるのだが、目の前の少女の、よくわからないけど、なんだか怒られてる? と言いたげなしょんぼりした様子を見ると、それ以上の追及はできなかった。
話題を変えるために、レヴィンはふと思いついたふうをよそおって「そういえば、」と切り出す。
「おまえのことは、どう呼べばいいんだ?」
問われたことの意味がわからなかったのか、少女は黙ってレヴィンを見上げた。
「おまえの名前だ。……俺の名前は覚えているか?」
「レ、ビン」
うまく発音できなかったのか、“ヴィ”のところで少女の舌が引っかかる。
「レヴィン、だな。言いにくいならレビンでもいい。好きに呼んでいいぞ」
レヴィンが言うと、素直にうなずいた少女は「なら、おまえ」と言った。
「…………うん、そうか」
「いちばん、よびやすい」
「うん、そうだな。呼びやすいな」
邪気のない少女に合わせて相槌をうっていると、ふと懐かしい気分になった。同じように自分のことを「おまえ」と呼んでいた人物の顔が、ふっと脳裏をよぎる。
――おまえ、かわいそうだよ。
途端、その人物が口にした言葉まで一緒に蘇って、苦い気持ちになった。それを振り払うためになにか話そうと口を開いたとき、少女が「あ、」と小さく声を発した。
「……うん?」
なにかしらの予兆があったのか、少女が自身の腹部に視線を落としたそのとき、それに応えるように、きゅるるるるぅ、と切なく響く音が空腹を訴えた。
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