2 不審から困惑へ

 樹木の生い茂る森の中を、足早に進んでいた。

 密集した葉によって遮られた雨は、レヴィンのもとまでは届かない。葉を叩く雨音と、湿った緑の濃い匂いが、なおも続く雨の気配を知らせていた。


 腕の中には、少女一人分の重みが収まっている。くるんだ外套越しに感じる少女の温度は冷たかった。


 やがて前方に目的地が見えてきた。木立の中に半分隠れるようにして佇む、石造りの小屋だ。いつからそこにあるのか、年月を感じさせる外壁はあちこちが苔むしている。


「この森に来たときに、俺がいつも使っている小屋だ。ここなら雨もしのげるし暖房もある。街までは距離があるから、今から君を抱えて歩いても、日暮れには間に合わない。悪いが今日はここで我慢してくれ」


 腕の中の少女は、さほど興味もなさそうに小屋を眺めてうなずいた。整ったその顔が変化を見せることはなく、無表情に反応を示すだけの彼女の内心は、少しも推し量ることができない。


 体を動かすこともままならない少女を雨の中に放置するわけにもいかず、こうして連れて来てしまった。けれど、いったいこの少女は何者なのか、という思いがレヴィンの脳裏には拭えずこびりついている。


 思い返しても違和感の残る、奇妙な出会いだった。






 鬱蒼とした森の中にあって、ぽっかりと空いた穴のように、木々が途絶えて開けた空間。


 何度も足を運び、すっかり知り尽くしたつもりになっていたこの森に、こんな場所があったのかと驚きながら中へ進んだとき、それが視界に飛び込んできた。余人が足を踏み入れるはずもないと思っていた場所だから、まずぎょっとした。次いで、それが仰向けに倒れたまま、ぴくりとも動かないことに息を呑む。


 視界に映るのは、一糸まとわぬ姿のまま、細い肢体を地面に投げ出している少女の姿だった。ぬかるんだ土の上で、対比するように映える透き通った肌。滑らかなその表面を川のように流れる黒髪は、雨に濡れて光沢をおびている。成年である十五にはまだ届いていないだろう。瞳を閉じたまま空を仰ぐ、幼さと美しさが混在した少女の容貌。


 まるで誰かがあつらえた舞台の上で、展示された人形を見ているような気分になった。これほど精巧をきわめた人形などあるはずもないのに。それくらいに、できすぎた光景だったのだ。


 くだらない思考を振り払って、少女の口元に手かざす。どれだけ注意深く確かめても、呼吸をしている様子はなかった。

 この少女はもう死んでいるのだ。それがわかると今度は、なぜこんな場所で、という至極当然の疑問が浮かんできた。


 もとは国の直轄地だったこの地は、今では滅びの森と呼ばれて近づく者もいない。迷い込んだすえの自然死であるならば、着衣がないことの説明がつかないし、同じ理由で、自殺というのも考えづらい。とすれば考えられるのは、何者かの意図によってこのような姿にされて、この場へ置き去りにされたということだ。


 よぎった思考に悪寒が走った。見れば、少女の浮かべる表情は、ただ眠っているだけのように穏やかなものだ。自分の思考が見当違いのものであってくれたらいいと、心から思った。


「雨は、」


 無意識に言葉が口をついて、自分でも少し驚いた。春先の雨は、すべての熱を容赦なく奪っていく。こんなに寂しい場所に一人きりで、いつから雨に打たれていたのだろうか。


「冷たくないか」


 物言わぬ少女への問いに答えなどない。発した言葉はどこへも行き着かず雨に飲み込まれたかのように思えた。けれどしばらくして、かすかな音を耳が拾った気がした。雨音とは違う、細く高いそれは、まるで人の声のような。


 気のせいか、と思いながらも反射的に視線を向けた先で、少女の体が小さく身じろぎするのが見えた。


「……生きているのか」


 目を疑った。ついさっき確認したときには、たしかに息をしていなかったはずなのに。けれど今、それは間違いだったかのように、少女が呼吸するさまが、はっきりと見てわかる。レヴィンが事態をうまく飲み込めないでいるうちに、少女は再び身じろぎした。


「声に反応しているのか? ……おい、大丈夫か」


 とにかく今は、目の前で起こっていることがすべてだ。そう自分に言い聞かせて、レヴィンはなんとか頭を切り替えた。


 地面に膝をついて、少女を見下ろす。怪我はないように見えるが、意識のないまま無闇に動かしていいものなのか、わからなかった。


「目を開けられるか?」


 まぶたを伏せたままの少女に声をかけながら、揺さぶり起こすわけにもいかず、怖々と頬に触れた。途端、あまりの冷たさに背筋がぞくりとあわだつ。これが本当に生きている人間の温度なのか。


 生じた疑念を吹き飛ばすように、次の瞬間、少女が大きく身ぶるいした。パチリと音が聞こえてきそうな勢いで瞳が開く。あらわれた黒い双眸は、まどろみの中にいるように、ぼんやりと世界を映している。やがて、目覚めたように動き始めたそれは、あちこちに忙しなく視線を転じた。そこに在るものを、ひとつひとつ確かめるように。


 最後にそれが、自分を捉えてぴたりと止まったのを感じた。






 小屋の中に入ると、そこは仕切りのない一間になっている。中央に設置された煙突につながる薪ストーブと、古びた木製の棚が壁際にいくつか並んでいるほかは、大きな家具もない。がらんとした空間だった。


 壁を背もたれにして敷物の上に少女を座らせたレヴィンは、手早く薪ストーブの火を熾すと、棚を漁って布と服を見繕った。


「体を拭いて服を着た方がいいと思うが……手伝いは必要か?」


 ここで少女が首を横に振るようなら、そのままにしておこうと思っていた。けれど少女は、小屋を見たときと同じ調子で、ためらいもせずうなずく。そのまま、雨と泥のついた肌を布で拭われ、乾いた服を着せられるのを、羞恥とは無縁の様子で平然と受け止めた。


 あまりに頓着しない少女に、レヴィンは戸惑いよりも違和感を深めた。やはりこの少女はどこかおかしい。


 だからといって、自分の体さえ満足に動かせない少女を放置するわけにもいかない。レヴィンは新しい布を手に、少女の髪を拭きはじめた。腰まで届くほど長さのある黒髪は、雨を含んでずっしりと重い。次々と雫の滴る毛先を拭いていくうち、きりがないことに気づいた。水分は上から下へと流れ落ちてくる。最初に根元から拭くべきだったのだ。


「頭を拭いていいか?」


 これにもやはり躊躇なくうなずく少女の頭に、布を被せるようにして両手で頭皮を拭っていく。しばらくして、相変わらず平然としているのだろうと何気なく視線をやったレヴィンは、驚いた。布の合間からのぞく少女の顔に、はじめて変化が見えたのだ。


 顎を撫でられた猫のように、口元をゆるめたまま目を閉じて、気持ちよさそうにうっとりしている。思わず布を取り払って確認したが、そのときにはいつも通りの無表情に戻ってしまっていた。


 髪の湿り気を念入りに拭き取ってから、毛布と上掛けで少女をくるむ。音をたてて燃えはじめたストーブが目に入って、そういえば、スープの残りがまだあったはずだ、と思い至り、ストーブの上に小鍋を乗せて温めた。


「昼食の残りだが、体は温まると思う」


 器に注いだ湯気立つスープを、匙ですくって少女の口元近くまで運ぶ。少女はじっと匙の中身を凝視したあと、レヴィンに視線を向けて首を傾けた。


「食べられそうにないか?」


 問うと、少女は、はっとした様子で匙と器とを二度見する。まるで、これが食べ物だと今気づいた、というように。ぎゅるるるるうぅ、と少女の腹に住んでいるらしい虫が意外に元気な返事をしてきた。


「……食欲はありそうだな」


 その様子に、このときばかりは得体の知れない少女への警戒心もどこかに忘れ、思わず吹き出してしまった。笑いながら少女を見やると、口をぽかんと開けたまま固まっていた。その視線は、目の前の匙を素通りして、まっすぐレヴィンに注がれている。


 まじまじと見られることに耐えられなくなったレヴィンは、開きっぱなしの少女の口に匙を突っ込んだ。


「……!」


 毛を逆立てる猫のようにぎょっとした様子を見せた少女は、次の瞬間、目を輝かせた。


「そんなにうまかったのか?」


 こくこくと弾むように首を動かす。なんだろう、この素直な生き物は。先ほどまで測りかねていたことが嘘のように、少女の心情は、言葉がなくとも十分にわかりやすかった。


 ちらりと匙に視線を注がれるたび、追加の一口をすくっては少女の口へと運んでいく。雛鳥の餌付けもこんな要領だろうか。スープの入った器はあっという間に空になり、底の見えた容器を見せると、少女は残念そうに視線を伏せた。


 少女を仰向けに寝かせてから、毛布と上掛けをかけ直す。室温が上がり、スープで内側から温まったおかげか、細い体からは、ようやく人間らしい温度が感じられるようになっていた。


 そのことに少しほっとして、レヴィンは後片づけにとりかかった。洗い物用のたらいを出して使った物をすすぎ終えてから、背後にいる少女の様子が気になって振り返ると、半ば閉じかかった目でうつらうつらしているところだった。


「眠くなったら、そのまま寝ていいからな」


 声をかけると、応じるように一瞬だけこちらへ視線を向けた少女は、すぐに眠りへ落ちていった。


 片づけを終えてから少女の傍らに戻る。静かに寝息をたてる少女は、レヴィンが動いた気配にも気づいた様子はなく、深く眠っているようだった。


 この少女は、いったい何者なのだろう、と改めて思う。

 はじめはたしかに息をしていなかったはずだし、触れた温度は生者のそれではないように感じた。それが錯覚でないのなら、普通の人間ではありえない。


 変化のない表情と薄い反応も相まって、人形のようだと感じていた少女は、よくよく観察してみれば、心地いいとか、おいしいとか、びっくりしただとか、快、不快の刺激に対しては、驚くほど素直な反応を見せる。年ごろの少女というにはあまりに未熟で無垢なその様子は、まるで犬や猫か、あるいは赤子のようだ。


 こんなに無力で幼いさまを見せられたら、警戒する気持ちも薄れてしまいそうになる。得体の知れない存在であることには変わりないというのに。


 大切な人たちに心配をかけることだけは避けたかった。けれど同時に、訳がわからなくてなんとなく不吉だから、という理由で遠ざけることはできない。


「まいったな……」


 少女の眠りを妨げないよう小さな声でこぼしながら、レヴィンはため息をついた。

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