1章 雨の日に目覚める
1 それは少女と自覚する
はじめに音が聞こえた。
静かで柔らかな、無数の響きだ。ひとつひとつは儚く短い。それが、絶えず生まれてはつながる。連なる音はひとつの大きな流れのように、途切れず続いている。
次に、匂いを感じた。
湿った気配を色濃く伝える匂いだった。
次は、冷たいなにかの感触。
形の定まらないそれらは、あちらこちらをぽつり、ぽつりと触れては崩れ、そのまま音もなく離れていく。
捉えた刺激はそれですべてだった。世界はそれ以上、広がらない。
繰り返される同じ刺激が、永遠に続いてゆくのかもしれない。そんな中で、たゆたうようにぼんやりと、それは存在していた。
「雨は、」
あるとき不意に、異質な音が混ざった。低く、それでいて抑揚のあるその響きは、たくさんの音に溢れる中でも不思議とはっきりと聞こえた。
「冷たくないか」
わずかな間を置いてから、再び響く。けれどそれきり、その音は途絶えてしまった。いくら待っても、もう聞こえてこない。
残ったのは、これまで通りの音の重なりだけだった。同じ刺激をただ繰り返すだけの、一瞬が永遠のような時間。
――もういちど。
もう一度、あの音が聞こえたらいいのに。
それは、そう望んだ。瞬間、それは、かすかに動いた。
「……ぁ、」
はじめて聞く音がした。かき消えそうなほどに小さな、か細く高い音。それでもたしかに聞こえたのは、それが、これまで聞いたどの音よりも近いところで響いたからだ。
「……生きているのか」
――ああ、この音だ。
求めていたものだ。そう感じたとき、それはまた動いた。
「声に反応しているのか? ……おい、大丈夫か」
音が、先ほどよりも近づいてくる。
「目を開けられるか?」
なにかが触れる。その先から、これまで感じたことのない刺激が伝わってきた。少し遅れて、それが熱であると気づいた。触れた場所から広がる熱さ。はじめて出会うその感覚にすくんだように、それは一度、大きく震えた。
その瞬間、世界に光が差し込んだ。
はじめに見えたのは、まばゆく、ぼんやりと歪んだ景色だった。それは、ゆっくりと時間をかけて明瞭になってゆき、やがて曖昧だったすべての輪郭がはっきりと定まる。
世界が広がった。
同時に、激流のように押し寄せる、膨大な情報。その中で、それが最初に知覚したのは、自身のかたちだった。
白い肌。その上を流れる、黒く長い髪。小さな膨らみのある胴と、そこから伸びる細い手足。それは少女の体だった。ぬかるんだ土の上で、仰向けになっている。
これが、自分のかたち。これを起点として世界を感じていたことを、それは――彼女は理解する。
目に映るものと、これまで感じたものとが、急速に結びついていった。
真上には空があった。それを隙間なく覆う雲は、ところどころに濃淡の違う灰色をしている。そこから地上へと、降り注いでは弾ける透明の粒。数えきれないほどたくさんのそれは、雨だ。
彼女がはじめて目にした世界は、空から降る雨と、その音に満たされていた。
世界のちょうどまんなかには、一人の人間がいる。
暗い色を纏う青年だった。雨に濡れた髪は暗い赤色をしていて、前髪から滴る雫が、かすかに幼さを残す頬を辿って首筋へと流れている。地面に膝をつき、彼女を見下ろす瞳の色は黒い。痩身を包む衣服もまた暗色だった。
青年の片手は、彼女の頬に伸びている。先ほどから感じていた熱の正体は、この手の温度だったのだろう。
青年の唇が動いた。そこからこぼれたのは、彼女が求めていた音だ。あれは声だったのか。瞬時にそう理解した彼女は、音の意味を追いかけた。
「……怪我はないようだが、どこか痛むところはあるか?」
投げかけられた言葉を解した彼女は、体に意識を巡らせてみる。どこにも痛みはなかった。それを伝えるため、青年がしたように声を使ってみようとする。
「……ぁ、あ……」
喉から出た細く高い声は、聞き覚えのあるものだった。はじめて聞いたとき、これを近い音だと感じたのは、自分の身の内で響いたからなのだろう。
「……ぁ……あぁ、ぁ……」
なんとか意図した声を出そうとするが、難しかった。唇が思うように動かないのだ。もう一度試してみても、それは変わらなかった。
そこで彼女はふと、この体はどれくらい動くものなのか、と疑問に思った。確かめてみると、満足に動かせたのは一部分だけだった。まぶた。首。肩。それ以外の箇所は、力を込めることはできても、動かすことはできなかった。
「話せない、というより動かないのか。……雨で体が冷えすぎたせいかもしれないな」
それまで彼女のすることを黙って見ていた青年が、そう言った。
「俺の言っていることはわかるのか? 話せなくても、動かしやすいところで合図をしてくれればいい」
促され、首を動かしてみると、青年もまた同じようにうなずいた。
「よかった。伝わっているようだな」
その言葉に、彼女もまた伝わった、と感じた。胸の内で、なにかがふわりと柔らかく弾む。
「痛むところはないか?」
楽しくなってきた彼女は、もう一度、首を動かした。
青年は「そうか」と短く応じると、着ていた黒い外套を脱いで彼女に被せた。そのまま外套でくるむようにして、両腕で彼女を掬い上げる。体を持ち上げられる一瞬の浮遊感のあと、抱き上げられて近くなった距離から青年が言った。
「君がなぜ、こんなところに一人で倒れていたのかはわからないが、このまま置いていくことはできない。話せるようになれば事情を聞くし、協力できることがあるなら力になるから、まずは雨のあたらない場所で体を温めよう。それでいいか?」
青年の黒い瞳は、まっすぐに彼女を映していた。言葉がないぶん、反応を見逃すまいと待ち受けているのだろう。
彼女がここにいることに、話して聞かせるほどの事情などない。目覚めたのがこの場所だった。ただ、それだけのことだ。
彼と出会うまでの彼女は、自身と世界との区別さえ曖昧だった。それを雨とも知らないままに打たれ続け、冷たさは知っていても、温かさは知らなかった。聞こえるすべてはただの音だった。そこには語りかけてくる声も、伝えるべき言葉も存在しなかった。
そんな彼女を目覚めさせ、世界を広げたのは、目の前にいるこの青年だ。
世界を知り、自身を知覚し、他者と接してはじめて、彼女は自分が一人きりだったことに気づいた。
被された上着と触れあうところからは、青年の温度が絶えず伝わってくる。ゆっくりと温かさが染み込んでくる感覚は、心地よかった。この温もりを知ってしまえば、失うことは考えられない。
青年の話す置いていくということが、一人きりに戻ることなら、それは嫌だった。ほんの少し前のなにも知らなかった彼女なら、きっと平気だっただろう。けれど、今はもう違った。置いていかれたくはない。この青年と、離れたくはなかった。
切実な思いに突き動かされて、彼女は首を動かした。
「レヴィンだ」
青年から返されたのは、短い言葉だった。はじめて聞く意味の理解できない言葉に、彼女はゆるく首を傾ける。それを見た青年は、静かな声で「俺の名前だ」と付け加えた。
――レヴィン。
耳にした響きを、心でそっと反芻した。それが、青年をあらわす言葉なのか。声に出せないことが惜しいような、簡単に呼んでしまうのがもったいないような、不思議な気持ちになる。
その短い響きが、彼女にとっての特別になった。
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