あるいはその未来、
nine-six
あるいはその未来、
1995年は、多くの人々にとって大きな出来事が起こった年、それもあまり良くない出来事が起こった年として認識されているだろう。オウム真理教による地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災、あるいはラビン・イスラエル首相の暗殺、いずれにしても人の命が簡単になくなってしまった。
2006年生まれの芽衣は、1995年など自分の生まれる前のことであり、地下鉄サリン事件や阪神淡路大震災など名前などは聞いたことはあるが、しかしその詳細は知らない、自分から知ろうとも思わない。ラビン・イスラエル首相などにいたっては、名前すら知らない。
しかし、そんな芽衣にとっても、1995年は特別な年だった。それはフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズが自殺した年だった。ドゥルーズは自宅アパルトマンの窓から投身自殺した。それまでは自殺などしてはいけないと何度も述べていたにもかかわらず。
芽衣は、ドゥルーズの著作を読んだことはない。父親の本棚にドゥルーズの本があることは知っているが、それを自分が読んだところで理解できないことはわかりきっているから、読むことはない。しかし、自分にとってドゥルーズの思想が大切であることは知っていた。なぜならドゥルーズの思想は父親が熱心に理解しようとしたものであり、そして父親もまたドゥルーズと同じように自殺していた。
今日は6月21日だ。芽衣は自分の部屋のカレンダーに丸を付ける。今日も生き延びた。死ななかった。
生きるということは死ぬことだ。あるいはそれに近づくこと。もちろんそんな単純なものではないのかもしれない。しかしたとえば毎日のように死に近づいていっているとして、どうせ抗いようもなく死んでいくのに、どうして死にたいという気持ちが日に日に強くなっていくのか、芽衣にはそんな自分が不思議でしかたなかった。
まだ芽衣は16年ほどしか生きていない。父親は42歳の時に死んだ。ドゥルーズは自殺したとはいえ70年も生きた。しかし何年生きたとしても死んだら結局は同じなのか。
「あなたはあの人に似たのね」
部屋を出てリビングに行くと、テレビを観ていた母親にいきなりそう言われる。この家には、この空間には、母親と二人きりだから、それは間違いなく芽衣に向けられた言葉だった。だけど芽衣は何も答えない。答えることができない。芽衣は母親に対して何を言えばいいのかいつもわからない。
「自分だけまるで特別な存在みたいな顔をしてる。みんな考えてることなんてだいたい同じなのにね」
そうなのだろうか。確かに私は自分を特別な存在だと思っているかもしれないが、それはみんなと同じように自分を特別と思っているのであって、しかしその特別なそれぞれはきっと違うことを考えているのではないのだろうか。そんなことを芽衣は思う。だけど言葉にはしない。
今日は日曜日で、芽衣はずっと家にいた。気が付けばもう夜だった。8時を過ぎている。一日中なにも食べていない。だけどお腹も減っていない。いまから買いに行く気力もない。このままきっと明日のお昼まで何も食べないだろう。父親がいなくなってから、母親は料理を作ることをしなくなった。芽衣も料理はしない。そもそも食べることにあまり関心が向かなかった。生きることに対しての関心がどんどんと薄まっていくように。
梅雨の終わりかけ、あるいは夏のはじまり。そんな季節だった。夏はいつも不思議な匂いがする。いや、夏だけじゃない。季節のはじまりはいつも特有の匂いがする。芽衣はその匂いが好きだった。
「だからさ、いまこの瞬間の私たちの存在が、いつか振り返って青春って呼ばれるんでしょう? そんなの、クソだと思わない?」
目の前にいる香奈はメロンパンを食べている。小さな口で、こぼさないように上品に食べている。一口食べるたびにいちご牛乳で流し込んでいる。そんなかわいらしい姿から、汚い言葉が発せられる。
「十年後、二十年後、たぶん私たちは普通に生きてて、でもその普通っていうのは楽っていう意味じゃなくてきっとすごく辛くて、それでも毎日を何とか生き抜いてて、だから高校生活のことなんて滅多に思い出さないし、まさか実際に私たちが会うことなんてもうない。でも忘れることもできなくて、どうしてもふいに芽衣の顔が浮かんで、だけど私が思い出す芽衣はいつだって高校生のときの芽衣で、大人になった顔なんて想像さえできない。もしかしたらもう生きてないって思うかもしれない。もしかしたら芽衣なんて友達は最初からいなくて、全部私の妄想かもしれないって思うかもしれない」
そこまで言うと芽衣は私から目を逸らし、メロンパンをもう一口食べた。そしていちご牛乳を流し込む。もうほとんど入っていないのか、ずずずっ、と音がして、紙パックが少しだけへこんだ。
「私が何を言いたいか、わかる?」
わからない。芽衣はすぐそんな言葉が頭に浮かんだが、しかしそう返事をすることは誠実のように見え、実際のところそうではない、私たちは他人のことなんて何も分からないけれど、それでもできるだけ推測して、自分なりの答えを提示するべきだ、なんてことを一瞬のうちにして思い、そんな面倒な思考をする自分を少しだけ軽蔑し、同時に誇らしくもなった。
「わかるかわからないかって聞かれたら、たぶんわからないって答えるのが正しいけど、それでもあえて言うなら、香奈の言いたいことは、いまこの瞬間は確かに私たちにとって特別ではあるけれど、それは別に未来の自分や、まして他人から指摘されるようなことではなくて、いままさにこうして存在していることが特別だってこと、だけどこのいまという瞬間を言葉にしようとしてもすぐにいまこの瞬間は過去になってしまって結局私たちはいまという時間を掴むことができないこと、それに香奈は苛立っている」
話しながら、芽衣は自分が普段から思っていることを言っているだけだと気づいた。もちろん香奈はそんなことは考えていないし、せいぜい大人たちから何かくだらないことを言われてそれが気に食わないだけだろう。そんなことは芽衣にもわかっていたが、芽衣は話しながら考える癖があり、咄嗟に自分から出た言葉の意味を瞬時に考え、次の言葉を紡いでいく。しかしそうしていくうちに普段から自分が考えている事柄につなげてしまう。意味を拡大に解釈してしまう。つまりは芽衣にとって他人のことを考えることなど結局はできず、いつだって会話は一方通行になってしまう。
もちろんそれは芽衣だけのことではなく、誰しもが多少はそのような傾向はあるのかもしれない。しかし芽衣は他人のことを思っている、考えているというような素振りさえすることができなかった。だからいつもなんとなく人から避けられてしまっていた。
「……芽衣って、ほんとにいつも一人でいるみたいだよね」
香奈はそんな芽衣に慣れきっているからもはや傷つきはしなかったが、それでも思わずそうぼやいた。
「だって、いつも一人でいるから」
「何言ってるの。私がいつも一緒にいるじゃん」
いつも一緒にはいない。すぐに芽衣はそう思う。そしてそんなことを思う自分は薄情と呼ばれるべき人間なのだろうとわかってる。わかっているだけで自分を変えられるわけでもないのだが、むやみに香奈を傷つけたいわけでもない。
「そうだね。私にはいつも香奈が一緒にいてくれる。それはほんとにうれしい」
感情を込めるということがいまだに分からない。そもそも自分がいまどういう感情なのかがわからない。どうすれば相手が喜ぶのかというのは少しずつわかってきている。だけどわかることと、実際にそれができることは、まるで違うことだった。
お父さんは私に似た人だった。そう思ってすぐに、私がお父さんに似たのだ、と芽衣は考え直す。そしてそんなことを母親に昨日言われたことを思い出す。
二年前、お父さんが自殺したときはどうして死んでしまったのかと不思議に思った。しかしいまとなってみれば、どうしてお父さんみたいな人が42年もこんな世界で生きてこられたのか、その方が不思議に思えてしまうのだった。
それくらい、芽衣の父親は不器用な人だった。
夏休みに入っても、学校に行く日は多かった。補習授業が午前中まであり、一日休みという日は少なかった。
はじめて芽衣がジル・ドゥルーズの著作を読んだ日、その日も午前中は補習授業があった。帰宅すると家に母親は居らず、芽衣は鞄を片付けるよりも、服を着替えるよりも先に父親の部屋に、何かに導かれるように入っていった。
父親は読書家だった。だから部屋にはたくさんの本があった。過去の話だ。今ではもう小さな本棚一つしか残されていない。その他は母親が捨てたのだ。それでも一つだけ本棚が残ったのは、父親がこの本棚に置いてある本をとても大切にしていたことを母親も芽衣も知っていたからだった。
普段はどこにでもいるような会社員で、家に帰ると妻と娘に対してはたいして興味すら持っていないような態度をとり、一心不乱に本を読む。それが芽衣が覚えている父親のすべてだ。いまよりもっと幼かったころの芽衣は、そんな父親を憎むというよりは、本という存在を憎んでいた。少しずつ、でも確かに増えていく本。それに比例するように殺伐としていく家庭。
もっと普通の家に生まれたかった。そう思ったことがないわけではない。だけど、芽衣は父親のことを嫌ったことは一度もなかった。むしろ母親のことがどうしても許せなかった。芽衣は幼いころ、友達と外で遊ぶことを半ば強制された。男の子たちの集団の中に一人でサッカーをして遊んだりした。それは芽衣にとって苦痛でしかなかった。
母親の気持ちがわからないわけでもない。実際、父親は自殺したのだ。本という本を読んだ結果、自ら死ぬことを選んだのだ。自らが命がけで産んだ子どもをそんな人間にさせたくないという思いは、倒錯はしているが、芽衣のことを考えての結果なのだろう。しかし芽衣は、やはり自分は父親と似たような道を生きるしかないとわかっていた。きっと私が行く道は正しい道ではなくて、行かざるをえない道なのだ。芽衣はドゥルーズの本をペラペラとめくりながら、そう思った。
『快感は一貫して求められ、苦痛は一貫して避けられるものとなるというかたちで、原則が組織されること、それこそ一段次元の高い説明が要請していることなのだ。要するに、少なくとも快感だけでは説明しがたい何ものかがあり、それは快感の外部にとどまりつづけている。すなわちそれは、原則をめぐる価値であり、心的生活のうちにそれを求めねばならない。快感を一つの原則たらしめ、快感に原則たる地位を与え、快感を心的生活に従属させる上位の結合とはいかなるものか? フロイトが提起した問題は、普段彼のやり方だと思われているものとは逆の問題である。つまり肝腎な点は、快感原則の例外ではなく、この原則の基礎の成立である。』
まるで何が書いているのかわからない、そのこと自体は予想通りだったが、しかし、不思議と、ドゥルーズの文章を読んでいると、芽衣は懐かしい気分になった。まるで自分の中に父親が宿り、父親の目を使って文章を読んでいるようだった。もちろんそんなことはありえない。芽衣は自分の目でドゥルーズの文章を読んでいる。そしてその内容はなにもわからない。なにがわからないのかということさえもわからない。
それでもずっとドゥルーズの本を開いていると、ふいに、自分はこの文章を読んでいるのではなくて、ただ見ているのだと感じた。インクの染みである言葉たちを、まるで絵画を鑑賞するかのように眺めている。そう考えた途端に、芽衣は生まれてはじめて自分が自分であるということを実感したような気がした。それはつまり、自分が生きている、存在しているという実感であり、そしていずれ死すべきものであるという、誰もが知っているはずのことだった。
死にたい。
芽衣は自分が自分であるということが耐えられなくなった。もっと言ってしまえば、自分が存在してしまったということをどうしても受け入れられなかった。
こんな本を読んでいてはいけないと思った。このままわけもわからずドゥルーズの本を読んでいると、自分の思考もわけがわからなくなる。芽衣は慌てて本を閉じて元の場所に戻し、父親の部屋を出た。
その夜だった。
芽衣は夢を見た。あるいは、夢を見たという夢を見た。
真っ白な部屋に、アンティーク調の椅子が二つ置かれている。その一つ、芽衣から見て左側に父親が座っている。父親は本を読んでいて、その本のタイトルは見えない。その前の椅子には香奈が座っている。香奈もまた父親と同じように本を読んでいる。その本のタイトルは見えない。
二人は無言でただ本を真剣に読んでいる。決して本から視線を逸らすこともなく、まるで互いが同じ空間にいることさえ気づいていないように、ただ本を読んでいる。
そこに一人の女が現れる。芽衣だった。夢の中の芽衣は、まず父親の本を無理やりに奪う。そしてポケットからライターを取り出して、それを燃やす。同じことを香奈にもする。芽衣はそんな夢の中の自分を見ている。あるいは、そんな夢の中の自分を見ている夢を見ている。
二人は抵抗することもなく、ただ燃やされていく本を見ている。火は消えることがない。どうしてかその火はどんどんと大きくなっていく。そのうちに二人が座っていた椅子にまでも引火してしまう。白い部屋はあっという間に赤く染まる。二人はそれでも動かない。夢の中の芽衣はもういなくなっている。そしてそんな夢を見ている芽衣もいなくなる。あるいは、そんな夢を見ている芽衣がいなくなる夢を見ている芽衣もいなくなる。
朝、起きてまずすることは、自分に挨拶をすることだ。
おはよう、芽衣。
うん。おはよう、芽衣。今日もいい天気だよ。
全身鏡の前に立って、寝起きの自分を見る。芽衣は、自分の顔が好きだった。高校受験の面接のとき、自分の長所を挙げてください、と言われ、顔が美しいことです、と言いかけたくらい、自分の顔が好きだった。
リビングに行っても、母親はいない。もちろん、父親もいない。本だけがある。この家には、父親の本だけがある。それ以外は、なにもない。
家を出て、学校へと向かう。夢のことを思い出す。不思議と考えるのは父親のことではなくて、香奈のことだった。どうして香奈が夢に出てきたのだろう。どうして香奈が本を読んでいたのだろう。香奈は、本を読むような人ではなかった。少なくとも、芽衣が知る限りは。
いや、そもそも私は香奈の何を知っているのだろう? ふいに芽衣はそう思う。通り過ぎる茶色の子猫、いつもタンクトップで自転車に乗る男なのか女なのかもわからない人、朝の六時から開いているという決して安くはないニシジマストアの店長、いつも決まった場所で何かを唱えている宗教信者、学校に行かず陰謀論を信じる男子中学生、ボランティアで交通安全行動に取り組むペドフィリアの老人、いつか人を殺めてみたいと思う善人、いつか世界を救いたいと思う悪人、死にたいと思う人、死にたくないと思う人、実際に自殺してしまう人、今日は生き延びる人……
いつもなら見過ごしてしまうものが、いまの芽衣には見えている。実際には見えるはずのないものまで見えている。そのすべてが美しいわけでもなく、美しくないわけでもない。ただ、そこにある。
学校に着くと、香奈がすぐに声をかけてくる。おはよう、と挨拶をして、他愛のない会話をする。
「ねえ、香奈」
芽衣は呼びかける。何気ない言葉だけれど、芽衣から話しかけるのは珍しいから、香奈は少しだけ驚いている。
「なに?」
「いい話と、悪い話があるんだけど、聞きたい?」
芽衣がそう言うと、香奈は一瞬だけぽかんとして、それから笑いだした。
「なにそれ? 芽衣が言うと、そんな馬鹿げたアメリカンジョークみたいなものも、ちょっとだけ詩的に聞こえるね」
「聞きたくないの?」
もうすぐ朝礼が始まる時間だった。周りの子たちはなんとなく自分の席に戻り座りだしている。香奈は少し考えたあと、
「いい話だけ聞きたいな」
と言った。
「じゃあ、いい話だけ言うね。今日の夢に、香奈が出てきたの」
「うん、それで?」
「……いや、それだけ?」
「なにそれ、ぜんぜん良い話でもないじゃん」
香奈は芽衣の答えが想像よりもつまらなかったのか、不服そうな顔をして言った。
「なに言ってるの。夢に香奈が出てくるなんて、幸せじゃん」
芽衣は真剣な顔をして言った。香奈は何かを言いかけたが、その前に先生が教室に入って来たから、その言葉は遮られた。
休み時間、芽衣と香奈はさっきの会話なんて忘れてしまったかのように、次の授業の教室へと移動する。その途中にトイレに行く。そこで鏡に映る自分を芽衣はふいに見る。そして思わず笑ってしまう。
「……どうしたの?」
香奈は不審そうに芽衣を見る。それでも芽衣は笑うのをやめられない。
——ぜんぜん、私は美しくなんかない。
芽衣は自分の顔を見てそう思う。今朝までは美しかったはずの顔が急に変わったわけではない。それでも、いまの芽衣は自分を美しいとはまったく思えなかった。
私は美しいわけでも美しくないわけでもない。ただ、いるだけ。
そう思うとどうしてか不思議と元気が出てきて、芽衣は隣にいる香奈にこう言った。
「ねえ、香奈。私ってこんなに普通なんだね」
「……そんなことを急に言い出すくらいには、変だと思うけど?」
香奈は芽衣の考えていることがわからず、しかしそんなことはいつものことだったし、とにかく芽衣が楽しそうだったからその姿を見ていたら嬉しくなった。
「そんな私とずっと一緒にいる香奈の方こそ変なんだよ」
芽衣はそう言って、もう一度鏡に映る自分の顔を見た。そこには普段から笑うことに慣れていない人特有の、どこか歪な笑顔をしている自分がいて、そんな自分を見ていたら、やはりどうしても笑うことをやめられなかった。
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