後編

実験結果。


人間は、寂しすぎると、水になるが、死ぬことはできない。


詳しく話そう。


身体が動かなくなってしばらく経った。


洗濯機は窓のない洗面所に置いていたから、太陽の登り下りによる時間の経過は感じられなかった。


ただずっとそこにいた。いるしかなかった。


すると、そうっとドアが引かれた。


「…たかしなさん?」


遠慮がちに僕の名字を呼んだのは、職場で隣の席にいた後輩だった。

思わぬ登場人物に声を出せずにいると、次に部屋の奥から響いたのは聞き覚えのある野太い先輩の大声だった。


「いたかー?」

「いえ、今からお風呂場も見てみますけど。でも、ちょっと一緒に見てもらってもいいですか?」


まさかとは思うんですけど、と気まずそうに付け加える後輩の頭を先輩はグーで強めにどついた。


「変な想像すんのやめろ。」


そして、そのぶ厚いグーをパーにして、心細げな後輩の背中をばすばすと叩いた。


「大丈夫だよ、あいつは。うわっ、なんだ、この水たまり。」


先輩は、何が何だかわからない僕の上をひょいと跨いで、洗面所の奥にある風呂場のドアをバンと開け放った。そして、ふうと大きく息を吐いた。


「気晴らしで旅行にでも行ったんだろ。」


その言葉にやっと弱々しく笑って、管理人さんにお礼言ってきますねと言って、後輩は洗面所を後にした。


混乱する僕は先輩を見上げた。

すると意外なこと目が合った。

状況から僕は幽霊のような存在になったのだろうと予想していたが、彼の目は確実に実体を見つめている。


ただ、彼の真っ黒の瞳に映っているのは、僕ではなかった。先輩は元僕である水たまりをしばらくじっと見つめていたのだ。


彼は面倒くさげにぽりぽりと頭をかいた後、またひょいと僕を跨いでドアを閉めた。


そこで、僕は改めて身動きがとれないだけでなく、声も出なくなっていることに気づいた。


それだけじゃない。かろうじて目と思考だけが今までどおりの僕なだけで、洗濯機の小さな蛇口に映る自分はもう人間ではなかった。


液体。

綺麗な水ではない。

おそらく垂れ流していた排泄物や涙がすべて一緒くたになったのだろう。赤土色、黄土色、黄色にと、どんどん薄い色のグラデーションになっていて、僕の頭があった部分だけ透明だった。


そして、実験結果を訂正すべく、今に至る。


僕はもう液体である自分を受け入れている。


蛇口に映る自分が時間を追うごとにどんどん小さくなっているのを確認している。もうすぐ目視できなくなるだろう。


実験結果は訂正することになる。

今の悩みといえば、これを死とするかだけだ。


でも、このまま蒸発したら母さんと同じところに行けそうな気もした。


もう自分の目では液体を確認できなくなった。改めて最期まで目が見えていたことに感謝した。僕の目という器官は、最期まで見えるという役割を果たしたのだ。


ありがとう、母さん。

母さんが僕をここまで健やかに育ててくれたおかげだよ。


…すこやかに?

僕は水になって消えゆく。

僕はこれでいいと思ってる。

これって母さんが望んでいただろうか。


すると、今までにない変化を感じた。

身体の一部が温度をもったのだ。

それはほんのりとあたたかくなったり、かっと熱くなったり。

それが続いた。


そんな思考と温度が繰り返されるうちに、僕という液体はまたどんどん広がり、空腹を感じるようになったと思ったら、僕には膜ができていた。


その膜は液体を包み、その膜はどんどんぶ厚くなった。


僕は今も実験を続けている。

ただそこに望む結果は、当初実験を始めたときのものとはまるで違う。


人間に戻ったら1番初めにやりたいと思っていたことをやろう。


スマホを充電器に繋げるのだ。

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