第6話
俺の答えに安心したのか、さっきよりは幾分上向いた表情で――おそらく、俺の事は知ったので、今度は自分の事も知って欲しいというつもりなのだろう――、手始めに千鶴自身の家の事について、俺に尋ねて来た。
「岩倉の家は知っているか?」
「大佐から多少は。維新に際し、武功を上げた公家と」
尤も、大佐はあまり語りたがる人間ではなかったので、武功の詳細も、血筋の縁起も聞いた事は無い。……まあ、大佐の先祖の武勇伝を聴きたかったかと云われれば、首を縦には振れない話ではあるが。
そんな俺を他所に、千鶴は俺の言にもっともらしく頷き、それから神妙な顔で語り始めた。
「後は、ワタシ自身の事だが――、フフ。大した事は無いな。……あの家で、ずっと独りでいただけだ。他には何もない。異性は家族か使用人だけで、そもそも友すらいたことはない」
自嘲するような笑みを浮かべながら語り終え、少し寂しそうな表情をした千鶴。
女学校が出来たのはごく最近だし、千鶴の歳では、家で家庭教師を付けている方が普通なんだろう。
普通の上流階級の身の上……だと思う、あくまで、俺の知見の範囲の話ではあるが。
相槌も打たずに、真顔で聞いている俺に、千鶴が縋るような目を向けてきた。
慰めが欲しいの……か?
いまいち、その判断に自信は無かったが、フン、と、鼻で微かに笑って口を開く。
「友もいないとは、人望がないのか?」
自分の事を棚に上げ、からかうように尋ねると、千鶴は気色ばんで言い返して来た。
「そういう意味ではない! 父上の息の掛かった人間と、親しく出来ないというだけだ」
ムキになる辺り、図星のような気がしないではないが、そこまで苛めては可哀想だし、俺は見ぬ振りをした。
だた――。
「成程……しかし、味方の一人もいないで、どうやって逃げ出せたんだ?」
てっきり、あの手紙を渡して来た下女にでも手引きさせたのだと――千鶴にあまり聡い印象も、俊敏な印象も無かったからだが――思っていたので、少し引っかかりを覚え、素直にそれを訊いてみた。
もし、なんらかの特技があるようなら、今後、是非とも見物してみたい。
しかし、千鶴が得意げな顔で言い始めた内容は、俺の予想とは微妙に違っていた。
「家が大きければ、抜け道のひとつやふたつあってもおかしくはあるまい」
随分な論理だとは思ったが、事実として千鶴は抜け出して今に至っているので、頭ごなしに否定は出来ない部分もある。
釈然としない顔の俺を見て、にんまりと笑った千鶴が続けた。
「知っているか? ワタシは、ずっと前から抜け道があるのを知っていたのだ。上の馬鹿兄――ああ、違うぞ、お前の言う『大佐』ではなく、その下の二人の出来損ないの方だ。その馬鹿兄達が夜遊びに行くのを尻目に、いつかの為に気付かないフリをしていたのだ」
成程。
おそらく、千鶴の家の千鶴以外の誰かが開けた抜け道なんだろうが、使用人達はそれを指摘したら角が立つのを分かっていて、塞ぐ事もせず、見ない振りを決め込んでいたんだろう。
……子爵はそれに気付いていただろうか?
いや、気付いていたとして――見張りは置かなかったのか?
……駅までの行動を顧みるに、尾行のあった様子もないし、もし誰か気付いた人間が居たのなら、ここまで非常線が全く張られていないというのはおかしな話だ。
多少のしこりが無い訳ではないが、懸念材料では無いと判断する。
判断した時、千鶴が物欲しそうな目で俺の顔を覗き込んできた。
「随分と用意周到で」
多少、皮肉めいた口調で、そう一言褒めてみる。
「それだけか?」
明らかに残念そうな素振りで、その一言で済ます筈が無いよな? と、詰め寄る千鶴。
「切り札は最後までとっておくのは基本だ」
さも当然の事だとでも言うように、つまらなそうに俺は言い放った。
そして、その台詞を聞いた千鶴がむくれるのを見届けてから、フ、と、僅かに相好を崩し、尋ねてみる。
「――が、まあ、褒美を出せないという事では無い。どうして欲しいんだ」
途端、ぱあっと千鶴の表情が華やぎ、やや媚びるような仕草で頭を俺の方に少し傾けてきた。
……その行動から、多分千鶴は、俺が微笑んだ意味を正確には把握していないと思ったが、千鶴が誤解したいならそれを止める必要性を感じなかったので、そのままにして置き、そっとその髪に手を伸ばし、優しく頭を撫でた。
「髪は乱すなよ。そうだ、流れに沿って優しくだ。強く押さえつけるのは論外だが、触れられている感触が髪だけではだめだ。ほんの少しだが、しっかりと頭に触れるようにな」
あくまで高慢な態度は崩さずに、俺の一挙手一投足に注文をつける千鶴。
しかしその口元は緩みきっていて、うっとりとした目に威厳は無く、安心し切っているのか、全身から力を抜き椅子に深く寄りかかっている。
公衆の場で、そういう様を晒すのは好ましくは無い。
好ましくは無んだが……。
しかし、俺の方も苦言を呈する機会は失っていた。
千鶴の髪は長いのに良く手入れされており、滑らかな手触りは病み付きになる。
本当に、今更ではあるが、千鶴は美人だったんだな、と思う。
髪や肌の質感も、顔立ちも、表情も、立ち振る舞い……雰囲気? いや、もっと別の……そう、無垢なまま磨かれた魂そのものの煌めきのような、均整の取れた美しさがある。
普段の俺ならどうって事は無いんだが、不意に気を抜いた瞬間に、ぞくりとさせる色香ではあった。
貴族連中の腹の中――、へどろのように絡みつく深い愛憎は、こういうものが牽引しているのかもしれない。本人の自覚の有無は別としても。
そこまで考えてから、フフ、と、自嘲を浮かべ、悪い妄想を頭から払う。
どうせ色恋等には、完全にはのめり込めず、もしのめり込んだとして、すぐに飽きて次へと移る俺なんだ。下らない執着の糸は必要無い。
そう、例えるなら先の朝餉の料理のように、美味しい部分だけを啄ばむように、世の人の織り成す舞台を、壇上に上がらずに楽しみながら渡り歩く方が、俺には向いている。
どうせ死ぬまでの人生だ。世俗の栄達にも興味はない。
金には多少の執着はあるが、無限に欲しがる事でも無い。
俺が観たいのは、台本の無い人の織り成す悲喜交々の物語。
はてさて、硬貨の導きはあったとしても、千鶴はそれを俺に観せてくれるのかどうか。
いつも通りの俺を取り戻してから千鶴を見れば、目をトロンとさせた千鶴の顔が映る。
ここにきて疲れが出たのだろう。千鶴は頭を撫でられている内に、ゆっくりと目を細めだし、いつしか俺の肩に寄りかかり、静かに寝息を立てていた。
ともあれ、先は長いのだし、今日だけは油断させておこうと思い、そっと千鶴の髪から手を離し、規則正しい寝息を聞きながら、俺は外の風景を眺める。
車窓から見上げる向こうには、気の早い初夏の青空の下、緑の風景がどこまでも広がっていた。
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