第5話

「席に戻ったぞ」

 人の少ない車両で、自分達の席に戻った途端、千鶴は先程よりも横柄な態度で言った。

「それがどうした?」

 さっと辺りを見渡し、席の人間に大きな変化がないことを確認し、また、すぐ近くの席にも人が居ないのを確認してから、俺は訊き返す。

「さっきの話の続きだ」

 察してくれることを期待して惚けて見せた俺だったが、千鶴はすぐに膨れた顔で言い返して来てしまう。

 言葉を吟味する習慣は、千鶴には無いらしい。

 嘆息して千鶴の目を見ると、う、と、息を呑んだが、それでも、どうしても訊きたいのか、腰が引けつつも尋ねる態度を改めずに俺を見詰め返し続けている。


 数分、見詰め合ってはみたが、千鶴も引かず、そもそも隠す程の事でも無かったので、いい加減飽き飽きし、俺は口を開いた。

「今後は、場所を選ぶと誓えるか?」

「誓う」

 千鶴は即答した。

 だから、余計に説得力が無かった。

 疑わしげな眼差しを向ける俺に、少し拗ねた顔をして、もう一度深く、誓う、と、頷いた千鶴。

 そんな行動のひとつで買えるほど、俺からの信頼は安くはないが、今はそれで良しとした。

「……まあ、いいだろう。それで?」

 何を知りたいんだ? と、視線で促すと、千鶴はどこか不貞たような顔をして、やや不満そうな口ぶりで話し始めた。

「ワタシはお前と逃げたが、そもそもワタシは、お前の事を何も知らない」

「どうでも良いだろう? 俺の事なんぞ」

 肩を竦めて見せながら、俺は言った。

 千鶴にとっても俺にとっても、互いの都合と時節が得られたから連れ立って逃避行を始めただけで、そこに特別な理由は無い。

 少なくとも、俺には。

 そして、おそらく、状況から察するに、切羽詰っていた千鶴にも。

 千鶴としては、ちょっと使い勝手の良い使用人程度の認識なんだと思う。

 一般家庭なら、見ず知らずの男からの誘いにはもっと警戒するだろうに、箱入り娘として育てられたせいで――おそらく、外で自由にさせる気は子爵にも、千鶴の婚約者にも無かったんだろう――、他人は従僕かなんかだと思い込んでしまう。危険云々以前に、手を噛まれる、とさえ夢にも思っていないはずだ。

 ふふん、と、自嘲と皮肉を混ぜた笑みを口の端に乗せる。すると――。

「どうでも良くは無い!」

 強く言い切った千鶴に視線だけで尋ね返すと、やや居心地悪そうにしながら顔を背けられた。

 顎に手を当て考えながら、千鶴の横顔をまじまじと見詰めると、表情の欠片に照れが見え、それで、口を噤んだ千鶴の言葉の続きに――俺の自惚れでなければ――、気付いてしまった。


 思いの外、稚拙な感情の変遷に、鼻白んでしまう。

 千鶴は精神的に未熟な部分が目立つし、彼女自身の頭の中では自然と――、簡単に想像出来る形で、俺と自分自身との距離を掴もうとした結果なんだろう。まあ、刷り込みの一種だ。親の庇護を出た後での刷り込みなんて、皮肉が利いているとは思うが。

 ……しかし、そう安易過ぎる台本は、全く楽しめないな。

 心の内面を素直に表情に出し、酷薄な薄ら笑いで俺は痛烈に皮肉った。

「何だ? 恋をしたい相手というのは、俺のことだったのか? ……恋とは、随分と簡単に出来るものだな。それなら、案外、許婚とやらとも、会って話せばわだかまりは消えたかもしれないだろうに」

 千鶴は、すぐには答えなかった。

 俯いた顔や、強く握った指から、俺の言葉に打ちひしがれているのは分かったが、助け舟を出す気も、冗談にする気も俺には無い。簡単な選択肢を選ぶようなら、所詮、そこまでの女、そこまでの覚悟だったというだけだ。


 俺自身の感覚としても、都合良くそこに居たからという理由で、恋心を抱かれても迷惑だ。俺は、あくまで観客もしくは監督なんだから、舞台には上がっていない。上がる気もない。それにふさわしい激情が無い。おかしくはなれない。

 俺は、あくまでも見届けたいだけだ。

 演者は、ふさわしい相手を選ぶべきだし、そうした選ぶ目を持っていなくてはならない。


「……ひとつだけ理解しろ。お前は、ワタシの許婚と比べれば、遥かに素晴らしい相手だ。……今は、それだけだ」

 昨日の真夜中と同じような、絞り出す声で言い放った千鶴。

 無論、ただの一時凌ぎの強がりで、これからも依存の度合いを強めていくだろうという事は、声色や態度の端々から推察されたが、俺は台詞以上の物は見ない振りをした。その程度の褒め言葉だけなら受け取っておこう、という意味の、ひとつの意思表示として。また、必要だからただ側に居るだけの人間と、強い想いから執着する人間とは別であるべきだという線引きを、暗に示すためにも。


「出身は、千葉だ。薩長土肥ではないから中央へのコネはないが、早くに新政府に付いた地方の士族の家だから、上部への受けはまあまあだ」

 千鶴から引き出した強がりの褒章として、気の無い言葉で俺は簡単に身上を明かし始める。

 まあ、中央の連隊勤務者で言えば、ごくありきたりの部類の経歴だろう。特別、語るような苦労は無いし、鼻に掛けるような高貴な出自でも無い。

「良かったのか? ワタシと逃げて」

 沈んだ気分を引き摺ったままの声で、問い掛けてきた千鶴。

 唆した身で言える事ではないが、本来ならそれは、昨夜の内に千鶴自身が考え、覚悟を持って冷徹に命じるのが筋だ。

 望みを叶える為に、お前と、お前の家族を犠牲にさせてくれ――と。

 命じた責任それを背負わずに、ただ、勢いと成り行きだけで命じた千鶴は、やはり幼く弱い。いつか、自分の行動によって起こされた事態に、……そこから生じる自責の念に押し潰されて仕舞いそうな程。

 ま、それならそれで、静かに壊れる過程と結末を見届けるのも一興ではあるが。


「悪いといえばどうする?」

 射抜くような目で千鶴を見据えると、肩を強張らせ縮こまったものの、それでも蚊の鳴くような声で言い返して来た。

「それでも、ワタシには、……これが最後の機会だった」

 これだ。

 俺は、こういう意思表示は嫌いでは無い。

 望みを叶えたいなら、誰かの犠牲は必須なんだ。変に正当化しない所は評価出来る。

 フン、と、ごく僅かに上向いた機嫌を口に乗せつつも鼻で笑い、左手を軽く払って、気にするなと伝える。

「元が妾腹だ、家に義理はない。それに、俺は俺が可笑しいと思うようにしか動かない」

 そう、所詮浮世の人生なんぞ業を尽くしてなんぼのもので、楽しければ善悪を顧みる気は俺には無い。軍で、決まりきった階段を年を追う毎に上るだけの人生に、未練なんて無い。刺激も無いし、面白みが無いからだ。

 むしろある程度の階級になった後は、軍の資産を横流しして、それを元に大陸に渡って馬賊でも率いている可能性が高いんだし、それがちょっと早まっただけと思えば好都合だったといえる。

 お姫様を唆しての火遊びなんて、西洋の寝物語のようで面白そうでもあるんだしな。

 果たして攫われたお姫様を奪いに来るのは、どこの王子様か、それともより腹黒い毒蛇なのかを思えば、ワクワクしてくる。

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