第4話

 二両を言葉無く通り抜け、辿り着いた食堂車。品書にあるのが洋食ばかりのせいか、食堂車には独特の香辛料の匂いがした。

 怪しまれない程度にさっと車内を見渡す。

 食堂車は流石に――、いや、時間を考えれば当然の事だが、かなり混み合っていた。相席を頼まれる程ではないが、席は埋まっている状態。ここでも、あまり込み入った話はしない方が良いだろう。何所に耳があるか分かったものじゃないんだし。

 間取りの関係から、出入り口からは死角になる一席があるのに気付き、丁度そこが空いていたから、肩越しに振り返り、千鶴を促す。


 一瞬だけ合った視線は、随分と落ち込んでいた。

 冷たい態度という薬は、それなりには効いたらしい。

 ……もし、食事後にもそんな様子だったら、その時は改めて優しい言葉を選んで補足しておこうと思う。


「切符を」

 席に掛けてすぐに現れた真っ白な制服の給仕に、切符を見せる。

 三等以下の車両の乗客は、食堂車両に来る権利がないから、席に着いた瞬間に切符を求められるのは当然なんだが――。

 しまったな、当たり前の事過ぎて、千鶴に伝え忘れていた。

 それとなく様子を窺うが、もたつきながらも自分の切符を出した千鶴に、ひと安心する。もし席に置いて来ていたら、戻って出直す必要があったから。

 切符を一目見た給仕は、一礼して尋ねてきた。

「お食事は、切符の内容のままで宜しいですか?」

 問われて、千鶴を一瞥する。

 千鶴は、何故視線を向けられたのかが分からないといった顔をしていたが、さっきの反省のつもりか、もしくは反抗のつもりか、自分からは何も言って来なかった。

 千鶴の食生活が分からないので……いや、昨日出された夕餉から考えると、相当な物を食ってそうではあるが、だからこそ逆に、どこまでの低さに耐えられるのかを量りかねているのだが……。

「……いや、ここは、商売の成功を祈る意味でも、良い物にしておこうか」

 少しだけ考えた後、ここから先は長いんだし、まずは体力を付けておいて貰おうと思い、質を上げることにした。

 前金で十銭銅貨を二枚、追加で支払い、上等と同等の食事内容に変える。

「かしこまりました。……奥様、良い旦那様と一緒になられましたね。では、本日の商談のご成功を祈りまして」

 前金を受け取った途端、愛想の良さが増した歳若い給仕は、ニコリと笑って軽いお世辞をおまけして厨房へと向かって行った。

 半分は軍用の車両なのに、随分と愛想の良い奴もいたものだ、と、感嘆してその背中を見送っていると、不意にどこか呆然としたように呟く千鶴の声が耳に入ってきた。

「奥様……か」

 ゆっくりと向けた視線の先の少し黄昏たような表情からでは、望まない婚約を思い出して落ち込んでいるのか、これからの自分のことを想像しているのか判別できなかった。

 結婚などは、周囲の勧めのままにするもの、必要に応じて適当に受ければ良いし、気に入らなければ逃げるなり妾を探すだけ。ごく一般的な考え方だし、俺自身も漠然とだと感じていたので、千鶴の心情は理解し難い。

 しかし、理解し難いからこそ面白くもある。

 男と女の違いは勿論の事だが、それとは別種の、俺とは違った真実を手にするんだろうという、期待が持てるから。


 あれこれと推理を巡らせていると、不意に千鶴と目が合った。

 ――が、千鶴は何かを見咎められたと思ったのか、俯いてしまったため、さっきの言葉の真意を訊き出す機会を逃してしまった。

 甘やかせば調子に乗り、叱れば必要以上に萎縮する。

 嫌という訳ではないが、まったくもって難しい女だ。


 千鶴の扱いの難しさに俺が苦笑いを浮かべた丁度その時、料理が運ばれて来た。

 皿が四つ並んだ四角い食事盆が、俺と千鶴の前に置かれる。

 腸詰と西洋野菜がたっぷりと入ったポトフに、みっしりとした胡桃の麺麭がふたつ、牛乳に林檎が二切れ。

「ありがとう」

「ぁ、あり、がとう」

 料理を運び終えた給仕に礼を言うと、千鶴がつっかえながら俺に続いた。

 この程度のことで礼を言う習慣は無かったんだろう。軍でも、配膳係は兵ではなく、軍属だから、いちいち礼を言うことはないし、上流家庭なら尚更の事だろう。

 だからこそ、敢えてそれらしくない人の良さそうな商人の表情や態度を――千鶴以外の人間に向けて使っているんだが、気にし過ぎだろうか?

 ともかくも、温かい内に出てきた料理を冷ましても仕方がないし、千鶴もいつまでも萎れさせておくわけにもいかないので、微笑みながら優しく告げた。

「頂こうか」

 表情の温度を急に上げ、二回頷いてから、千鶴は手を合わせた。

 千鶴にやや遅れて俺も手を合わせ――、手をつける前の皿の中身に、やれやれと、少し呆れる。


 俺とは違い、皿の中身に驚くことも無く、ごく普通に食べ始めた千鶴。

 小さく千切った胡桃の麺麭が入った形の良い唇が、微かに動いている。

 千鶴にとっては、むしろこのぐらいの食事が普通なのかもしれないが、一般人ではおいそれと手が出せない質の朝餉なんだが、な。

 食事の内容と、それを全く気にしない千鶴の両方に少し呆れながらも、自分の食事に取り掛かる。

 ――が、やはり麺麭は慣れない。

 軍では米二合に、少々のおかずというのが基本だった。

 麺麭も、腹が膨れない訳ではないのだが、重たくならないので、半端に足りないような気にさせられる。

「そういえば、お前はどんな人間なのだ?」

 麺麭の軽さを誤魔化す為にポトフの具をスプーンで大きく掬った所で、千鶴に声を掛けられた。

「うん?」

 質問そのものは理解出来たが、意図をいまいち掴みかねて俺は小首を傾げてみせる。

 まあ、ただ、取り合えず、即答できるものでもなさそうなので、スプーンの中身を口に収めた。鳥の出汁が効いていて、こちらはかなり良い味だ。

 俺が飲み込むのを見届けてから、千鶴は真顔で矢継ぎ早に質問を投げかけて来た。

「出身は何所だ? 陸士の席次は? 趣味は?」

 空のスプーンを一度置き、千鶴の目を覗き込む。

 真顔の千鶴は、吸い込まれそうな深い黒の瞳で俺を真っ直ぐに見詰めていた。

 悪意は無く、真摯に訊いているらしいのは分かる。

 ――が、学習能力には難があるらしい。

 逃げている最中に、痕跡を残してどうするつもりなのか。

「そういう話は、後でしよう」

 ポトフの中にあった、短めの腸詰をスプーンで掬って頬張り、会話を終わらせる俺。

「……わかった」

 千鶴は、そう言って食事を再開したが、ちらちらとこちらを窺う視線や、無理して急いでいる食べ方等、見るからにそわそわしていた。

 覚悟や自覚がない人間は、こんなものなのか、と、食事しながら考える。


 そもそも俺は、千鶴を完全に守るつもりはない。

 望む方向への可能な範囲での手助けはするが、それは、我が身を滅ぼしてまで尽くすような忠誠ではない。だから、千鶴自身がした失敗で幕が降りるなら、堕ちていくのを観察する方向へと立ち位置を変えるだけ。そういうおかしくなるなりかたを眺めるのも、そう悪くはない。

 完璧な信頼等というものは、現実ではありえないのだ。

 尤も、自立していくなら、この程度の知見は持っていて当然のこと。もし持たずに独り立ちしたなら、高い授業料で身を以って学ぶだけ。

 さて、千鶴は破滅する前に己の分というものと、俺との距離をきちんと掴めるかな。


 今後起こりうる事態を考え、それによる変化を予想するのは、それなりに楽しい。

 ――と、気付かぬうちに笑みが浮かんでいたのか、正面の千鶴が、少し不思議そうな顔になって、そのすぐ後、どうした? と、尋ねる笑顔を向けてきた。

 何でもないと首を振って牛乳を飲み干し、再び、暢気なものだと、微かに鼻で笑う。

 俺も千鶴も、それで皿が全て空になったから、給仕に退席する旨を伝え、食堂車を後にした。

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