第2話

 タン――。


 と、軽い発砲音が、路地に残響している。

「ああ! あぁ! う、腕、ボクの、腕」

 一拍置いて、散弾銃が地に落ち派手な音を立て、千鶴の元許婚が腕を押さえ喚き出した。

 血はそれほどでもないが、腕が僅かに妙な角度で曲がっている。おそらく、弾が骨で止まった代わりに、骨そのものが折れたのだろう。


 肩越しに振り返れば、青い顔をした千鶴が、拳銃を構えたままの姿で立ち竦んでいた。振り返った俺とは目も顔も合わない。

 唇を震わせた千鶴は、地面に顔を向け、その瞳にはなにも映していなかった。


 千鶴は、不安から俺の腰に手を伸ばしたわけではない。これまでの道中、しっかりと目に焼き付けていたはずだ。俺が腰に拳銃を隠していることを。

 力を抜いたのは、不慣れな千鶴が拳銃を取り落とさないため。子爵との会話は、注意を逸らすため。

 全てが終わると、子爵も許婚の男も思った瞬間に、千鶴は引き金を引いたのだ。

 想像以上の結果だ。素晴らしい。

 劇的な幕引き――、大逆転、完全に、欠ける事も無く、俺の望んだ結末が目の前にあった。


 ただ、訓練もせずによく腕なんて狙えたな、と、感心したのは一瞬で、表情や態度を見る限り、どうやら千鶴は腕を狙って撃った訳ではなかったらしい。

 殺す覚悟。

 いいね。

 それならそれで、面白い。


「ちちうえ……」


 微かな震えを銃口に伝えながら、千鶴は縋るように子爵の方に顔を向け、弱々しい声で呼びかけた。

 まるで、許しを請うように。

「――この! 馬鹿者が!」

 子爵から返って来た怒声に、身を強張らせる千鶴。

「何故撃った! 自分のしたことが分かっておるのか! 岩倉家が今後どうなるか――」

 喚く子爵と、身を竦ませる千鶴。

 子爵が先程はっきりと千鶴を捨てたのに、未だに千鶴は子爵に敵意を向けられないらしい。

 ま、俺程に非情になれる人間は珍しいようだし、これ以上は期待すべきではない、か。

 許婚を打った時点で充分に及第点だし、どちらにしろこの場はもう詰んでいる。見苦しい場面を引き伸ばされても、興冷めだ。なにより、周囲の兵隊に先程の発砲音を聞きつけられ、踏み込まれれば、それなりに面倒だ。

 なら、俺のするべき事はひとつ。

 一歩目を踏み出すと同時に、地面を這うように姿勢を低く駆け抜け、散弾銃を拾い、床木で二人の脛を思い切り横薙ぎに払った。

「子爵、正当防衛ですよ。それと、お嬢様はお逃げになられたのですから、今後の事と云われましても、詮無き事でしょう?」

 にやけた顔で二人を睥睨する俺。

「キサ……マ」

 子爵が苦痛にもだえながらも、歯軋りするように言った。

 散弾銃の銃口を二人に向ける。その顔は、恐怖で歪んでいた。


 ふふ、と、腹の底から込み上げる感情を抑え切れず、ついに俺は笑ってしまった。

「ゆ、づる?」

 楽しみつつも油断無く銃を構える俺に、背中から千鶴の声が掛かった。

 身体の向きを少し変え、転がる二人を視界に入れつつも、目の端に千鶴を捕らえ、横目で千鶴を見ながら俺は返事をした。

「うん?」

「お前は……何故笑っていられるのだ?」

 心の底からの笑みだと看破した千鶴が、非難の混じった声で問い掛けてきた。

「俺の目的は、こういうのだからさ」

 即答する俺に、分からない、と、千鶴の途方にくれた顔が告げている。

 やれやれ、と、今度は苦笑いを浮かべ、俺は何度も言っていることを再び口にする。

「言ったろう? 貴賎も、清浄も汚濁も無い、混沌とした情念の絡まる結末が見たいのさ。腹の奥に隠した本音、筋書きの無い物語、その劇的な結末」

 今が正にその瞬間だ、と、言外に表情で告げる。

 量り損ねた一手で立場がころころと変わり、悲劇も喜劇も、何もかもがこの瞬間にある。

 これを楽しいと云わずして、なにを人生の醍醐味と云うのか。

「千鶴は楽しくないか? 撃った気分はどうだ? 鬱憤は晴れたか?」

 高ぶる感情を隠しもせずに、今度は俺から千鶴に尋ねる。

 千鶴は、俺の狂気の部分に最初慄いた顔をしていたが、ここに至るまでの全てから、すんなりと俺という存在を再認識したのか、辛そうに俯いてしまった。

「弓弦。……ワタシは、……怖い」

 必死で口から千鶴が搾り出した言葉は掠れていた。

 千鶴が『怖い』と、言い終えた瞬間、千鶴の目からは涙が溢れ出した。

 涙滴が、地面に点々と染みを作っている。


 千鶴が、怖いと、言うのを初めて聞いた。

 逃げてから今日まで、どんな場面にもそれを言うことはなかったし、様子から、家や許婚を怖がっているとは察せても、千鶴自身ははっきりとそれを俺に伝えた事が無い。

 そういう強がりが俺は嫌いではなかった。


「ワタシは、縛られていたが、守られても居たはずで、なのに……。そうだ、逃げていても、どこかでワタシは助けられると、そんな甘い思いもあって……。なのに、今、殺されかけて、そして、ワタシも、殺すつもりで、……撃った」

 静かにゆっくりと、銃を持っていない左手を頬に強く当て、顔を歪め、膝を折り、祈るように崩れ落ちる千鶴。


「もう――。なにもかもが、もう」


 その言葉を最後に、千鶴は声を殺して泣き始めた。

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