第2話
床板も所々ささくれ立っていたので、荷物からもしもの時にと準備していた薄手の毛布を取り出して広げる。
いつかの鍋屋の時と同じように――尤も、部屋の汚さは雲泥の差だが――、千鶴は、敷かれた毛布の上にさっさと座り込んだ。
「足が疲れた」
四方を壁で守られたからか、視界から初対面の――しかも、厳つい容姿の――男がいなくなったからか、それとも一応の危機からは脱したと判断したからなのか、千鶴は普段通りに、偉そうな癖にどこか気の弱さもある声で呟いた。
「揉んでやろうか?」
あえて下心を隠さない意地悪な下衆の笑みで提案すれば、千鶴はまったくそうしたことを意識していない警戒心の無い顔のまま命じてきた。
「ああ、そうしろ」
……まったく、世間知らずというかなんと言うか。
冗談で言ったつもりだったのだが、ここまで解っていないとは思わなかった。
しかし、……尊大に命令されると、多少は意地悪をしてやりたくなるのも事実ではあって――。
「手が滑ったらどうする気だ?」
「うん?」
惚けているのか本当に気付いていないのかの最終確認の為に訊ねても、千鶴は解っていない顔をしただけだった。
こいつは、時々本当に鈍いから始末に終えない。
「こういう事さ」
軽薄に俺は笑って、太股よりも少し上に向かって手を伸ばし――、その手を、予想以上に俊敏に反応した千鶴に抑えられた。
ま、ここまでが予想通り。
次からはもう少し警戒しろよ、と、からかうように俺は目を細めると――。
「手順は守れ」
悪戯をしようとした俺の右手を取ったまま、千鶴が仏頂面で言い放った。
「手順?」
怒るならもっと率直に感情を表す女だから、向けられた中途半端な表情の解釈に一瞬遅れ、その隙に千鶴は一尺の間合いを詰め、俺の視界の全てを占める。
「――だから、ふつうは、だな」
千鶴は緊張しているのか必要以上にゆっくりと話し、まだ微かに躊躇いのある目ではあったが、それでも真っ直ぐに俺の目を覗きこみ、じれったい速度で顔を寄せてきた。
千鶴が何をするつもりなのかは、直ぐに分かった。
――が、まあ、その程度の事におたおたする必要もなし。俺は、特になにもせず泰然と千鶴を見続ける。
唇が――まず、軽く触れた。
一瞬だったので、よく分からなかったけど、柔らかかったかな? と、考えているうちに、下唇を千鶴の上下の唇で挟まれ、軽く甘噛みされる。
真似して千鶴の上唇を挟み、同じように動かすと、千鶴は俺の下唇をなにかで――舌だと気付くのに一瞬遅れ、そこまで積極的になっている意外性に口を緩めた瞬間、口内を嘗め回された。
前歯の裏、奥歯の付け根、舌裏。
くすぐったいような、独特の感覚がして、――千鶴の舌を自分の舌で押さえつけようとすると、じゃれあっているような状態になってしまい……。
結局、随分と長い口付けをしてしまった。
「っふ」
「ふぁっ」
唇が離れた瞬間、お互いに――、いや、むしろ、肺活量の違いからか、千鶴の方が荒い息をしていた。
「……上手いな」
多分、いきなりここまでした千鶴に、俺も、ちょっと動揺した。だから、つい、そんな皮肉が口から出てしまった。
言った後で気づいたが、それじゃ、まるで俺が――。
「うん?」
千鶴が、少し照れ臭そうに小首を傾げる。深読みはしていない顔だったので、俺も敢えて恥を解説するのは止め……しかし、別の言葉に置き換えるには少しだけ猶予が足りず、素直に答えるしかなかった。
「接吻が」
素っ気無く俺は言ったつもりだったのだが、存外にらしくない台詞だったのかもしれない。
千鶴は、俺の台詞に意外そうな表情をして――、暫く目を瞬かせてから、なにか思いついたのか、相好を崩した。
「安心しろ」
ふ、と、妖艶な笑みで命令するように告げた千鶴が、一瞬の後に子供のようにはにかんで続けている。
「許したのはお前が初めてだ」
本当かどうかを俺は知らない。
が、残念ながら、千鶴の人生の全てを証明するのが不可能な以上、それは悪魔の証明にしかならないのだから、まあ、素直に信じておくことにする。
とはいえ、別に俺は相手の恋愛遍歴を気にする性質でも無いんだがな。
いや、ただの一度の接吻で千鶴に関する認識を変えたってわけでもないが。
そうか、と、気のない態度で返事すると、千鶴はもう少しこの話題を引っ張りたいのか、どこか弱気な表情で尋ねて来た。
「はしたないと思うか?」
「はしたない?」
一応、からかい目的であったとはいえ――先に手を出したのは俺の方だったので、千鶴がどの部分を気にしているのか、全く解らなかった。
「普通は、女からこんな事はせぬ」
意外と敏感に俺の表情から疑問を察した千鶴が、不貞たような表情で口を尖らせている。
……ああ。
言われてみれば、というのが正直な感想だが――あれだけゆっくりと迫ってきた以上、なにか障りがあるなら、さっさと逃げるのが普通だ――、千鶴は意外と気にしていたらしい。
フン。
面白いな。感情の伝達が露骨な時と、控えめな時の差が、かなりある。平素、あれだけ自分から言い募る癖に、な。
矢張り、千鶴は最後の最後に意気地が無い。
「今更だろう?」
肩を竦めてからかうように訊ねれば、思い当たる節があるのか――というか、多少は自覚があったのか、千鶴は気まずそうな顔で――でも、それを声には出さずに、少し強気な口調で答えた。
「お前相手だからだ」
千鶴の返事に、ふふん、と鼻で笑って応える。
千鶴は、俺のそんな態度に顔を顰めるも――、最後には呆れた顔になった。
「世の男は、もっと素直で分かり易いものだと聞いている」
拗ねたようにいった千鶴は、それから小さく溜息を吐き、さっきから変わらない距離にいる俺の肩に手を当てた。
余裕ぶった笑みで、千鶴の次の一手を俺は見守る。
千鶴は、俺の肩に当てた手に力を込め、壁に押し当てた。
再び、千鶴の顔が迫る。
「まったく、どうすれば、お前は本当にワタシのモノになるのだろうな?」
俺の左耳に囁く千鶴に、俺はただ微笑を返した。
それが人の心である以上、どういう手段を以っても、縛りつけ続けることなどは出来ぬであろうよ、と。
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