第3話

 一夜明けた朝。

 貧民街の飲食物は、都市生活に慣れた千鶴には――尤も、この辺りは雨水を飲料水にしているのだから、俺にとってもだが――、合わない。そもそもが軍施設からの残飯がご馳走であり、普段の食事でもある連中だ。腹の出来が違う。まさか、勝負の日に食中毒なんて、笑えない事態にするわけにいくまい。

 買い置きの水を沸騰させ、そのままでは千鶴には噛み切れないであろう調理用の堅麺麭をふやかし、粥にした。味は……まあ、軍の食事も、なんだかんだで洋食を出すことも多いし、初年兵から里心を奪う意味でも、肉の多い料理も出すからな。ここの住人よりマシだが、田舎の農村に劣る程度だな。

 そんな、これまでと比べればかなり質素な食事の最中に、さりげなさを装って俺は切り出した。

「ひとつ、言っておく」

「どうした? 改まって」

 昨日の今日だから甘い言葉でも期待したのか、千鶴が随分と気安い笑みを向けて来た。

 そういう話じゃない、と、俺は苦笑いで前置き、本題を話し始める。

「千鶴は短慮だ。だから、この言葉を覚えていられるかは分からんが、俺の主義信条に関わる事なので、注意だけしておく」

 短慮、という言葉にムッとしながらも、俺の雰囲気に口をはさむ勇気がなかったのか、千鶴は黙って聞いていた。

「悩んだら、身の程に合うと思う選択をしろ。拘り過ぎるな。特に、俺には執着しない事だ。仮に、俺以外の協力者が現れ、その道が俺と来るよりも魅力的に思えた場合は、そちらへ迷わず進め。もしくは、これからの漂泊に耐えられないと思った時には、元の鞘に戻るという筋書きも無い訳ではない」

 話を聞く千鶴の視線の動き。

 確証はない、が、疑念は有る。外部の――岩倉の息の掛かった――人間、状況を知りすぎている大佐や、憲兵の動きの不自然さに。

 そして、なにより、千鶴自身の判断の甘さと幼さに。

「いきなり、どうしたのだ?」

 様々な不安がない混ぜになった表情の千鶴が、いつもとはまるで違う自信の無い声で訊き返してきた。

「千鶴が、何も思い当たることがないのなら、それでいい。その際は聞き逃せ。ただの老婆心だ。ただ、自分が望むように動け……という事を再確認しただけだ」

 問い詰めてもいいが、それは、あまり楽しくないのでしたくない。元々、利用されるのは込みで始めた逃避行なのだ。

 千鶴が不安から、家に関わる誰かに連絡を取っていたとしても、俺は責める気は無い。

 結局は何時だろうが何所だろうが、どんな状況だろうが俺が取るべき手段は一つだけ。

 斜めに構えて笑いながら切り抜けるだけだ。ゾクゾクする様な、心臓を鷲掴みにされるような、そんな命を賭けるに値する瞬間に出会えるまで。

「日本を出るまでが勝負だとは、向こうも気付いている。ここが最後の山場だ。言い換えれば、今なら、上手い手段を使うなら、千鶴は被害者として元の生活に戻れるという事だな」

 追い詰められればなんでもすると言う意思表示としてなら、今回の千鶴の行動は、それほど悪いものでは無い。子爵も考えを改める、かもしれないし、婚約者の側からお断りが――まあ、よっぽどの身分の差が無い限り、男の側から断ることは、中々難しいらしいが――あるかもしれない。

 いずれにしても、これだけの騒動の後にすぐ婚姻とはいかないだろう。暫くの猶予なら、確実に手に入れられるはずだ。

「お前は、それでいいのか?」

 触れれば割れてしまう程に張り詰めた、切実な顔で尋ねてきた千鶴。

 俺は、普段通りの表情のまま質問を返した。

「ここの連中を見ただろう?」

 話の道筋が分からなくなったのか、目を瞬かせた後、どこか口を尖らせながら千鶴が頷いた。

「浅ましいと思ったか?」

 重ねて問い掛ければ、千鶴は――流石に、匿って貰って置いて、という思いもあったのか、首を縦には振らなかったが、どちらかといえば侮蔑に近い感覚を抱いているのは見て取れた。

 ふ、と、俺は笑って話し始めた。

「俺も、ある意味ではここいらの住人と変わらん。貴賎も、清汚も関係無い。どうせ死ぬまでの命なんだ、燻ぶるよりも、激情の結末を楽しみたいだけ。俺はお前が嫌いではない。――が、俺が拘らない以上、千鶴が俺に拘り過ぎるのは危険だ。分かるな?」

 千鶴への配慮からの台詞ではない。

 が、別に千鶴をどうでも良いと思っているわけではなくて、……まあ、むしろ好きになりかけている部分は零ではない、と、思う。だが、いや、だからこそ、今日も明日も……これからも、ありのままの千鶴で無ければならない。そうでなければ、俺がここにいる意味は無い。

 昨日がそうであったように、理屈じゃなくて、義理でもなくて、心の赴くままに振舞って欲しい、というだけだ。変に自分を枠にはめては、いずれ岩倉家にいた頃と――俺と出会う前と――同じ窮屈さに戻ってしまう。

 自由にさせてやると唆して連れ出した俺が、そんな馬鹿をしてたまるものかよ。


 最初、様々な葛藤を表していた千鶴の表情だったが――、たっぷりの間を置くことで、自分自身の感情の全部を飲み込み、その上で、真っ直ぐに俺に尋ねてきた。

「相手がワタシでなくても、構わないが……。お前自身は、自らの情念や、……愛しい人の情念に絡め捕られたいとは思わないのか? 想った事はないのか?」

 最初に会った頃と比べ、千鶴も世間というモノや複雑に絡み合った人の心というモノが見え始めているんだと思う。自分本位なだけではなくて……。だから、行動にも考えるという過程が入り、……少しずつではあるが良い女になりつつあるように感じて――。そんなことを考える自分自身を、つい嗤ってしまった。

 娘を見守る父親か、俺は。

「沢山の人間が居るんだ。……中には、そうした、何所へも縁を持てない者も居る」

「今日まで、ひたすらにお前を見てきた、ワタシが言う。お前は、自らに根が無い、と思っているだけだ」

 傲然と言い放つ俺に、千鶴は少し悲しそうに言った。

「本当のお前は――」

 言い掛けた千鶴の唇に、人差し指を当てる。

 言葉を遮られた千鶴は、今度は、最初と同じ幼さの残る怒った顔になり、やはりまだまだだな、と俺は笑う。

「いずれにしても、会ってまだ一ヶ月も経っていない相手を完全に理解した、等と思うべきではない」

 千鶴は、憤然と俺を睨んでいたが――不意に、表情を崩し、少し呆れたように胸を張って言い放った。


「手に入ったと思えば逃げていく。本当に、お前は困った男だな」

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