第八章:違和感
第1話
千鶴と活動写真を観に行った数日後。
深夜の牛鍋屋の二階。
雨戸に何かがぶつかるごく小さな音で、俺は目覚めた。息を潜めると、千鶴の寝息に混じって、再び音がした。風でも……、千鶴の拾ってきた猫でもない。
襲撃者対策で元々普段着で布団も毛布も被らずに寝ていたので――千鶴には散々変だと言われたが――、脳を覚醒させると同時に、物音を立てずに起き上がり……。
千鶴の布団の上に乗って寝ていた猫が、ピクリと耳を動かしたが、飼い主に似て不精な性格なのか起き上がったり、鳴き声を上げたりはしなかった。
慎重に雨戸を開け、素早く周囲の様子を窺う。顔や手足は出さない。直情から刃が振ってくることもあるから。
空は晴れ、半月にはやや足りない月が、路地をうっすらと照らしている。今年は空梅雨だったが、水無月の夜の大気は皐月にはなかった重さがある。
空を見上げ、一呼吸の後に雨戸の下へと降ろした視線の先に、やけに目立つ風体の男が立っていた。
嘆息して、雨戸から飛び降りる。
「船の件か?」
たいした高さでもなかったので、転がることはせずに膝を曲げて衝撃を逃がし、見上げるようにして、いきなり用件に入った。
「四日後。沖を素通りする客船で、米船籍のハワイ行きだ」
章吾は、事務的に言って、懐から英字の書かれた封筒を差し出した。
中身を改める。
船主は、米国の……海運業者じゃないな、これは、たしか、観光系の会社だ。極東支店の支店長の捺印もあり、正式に途中乗船許可が証明されている。
充分すぎる代物だが、懸念が無い事もない。
途中で経由する欧州の植民地は、火種こそ無い物の、くすぶり始めて入る状況だ。
とはいえ、だからこそ日本も不要な摩擦を出さないように、不用意に臨検が出来ないという、俺達にとっては好都合な部分もあるわけで……。
「残りの二十円だ。しかし、良く正式な書類が入ったな」
金を渡しながら言うと、章吾は少し気まずそうに顔を背けた。
「いや……」
「何かへまをしたのか?」
渡しかけた金を取り上げ、一歩間合いを詰めて追求する。
「……話が、すんなり通り過ぎた気がする」
「どういうことだ?」
言うべきかどうするべきか悩む顔ではあったが、章吾は訥々と語りだした。
「普通、俺等みたいなのからの手配は暴利られるのが普通なんだが……」
まあ、それはそうだろう。普通は、誰かの代理……つまりは厄介事、コイツ等自身が乗り込むにしたって、身形やマナーを弁えているとは到底思えないしな。
「今回は、違ったのか?」
訊ねると、章吾は素直に頷いた。
「向こうも、分かっているような反応だった」
「憲兵隊、警察、港湾保税局員」
罠を張るなら、それなりに動きそうな場所の名前を挙げてみるが、章吾の反応は……。
「他県からの増員も無ければ、警戒態勢に入った節もない」
「ふむ」
かなり、妙な話だ。
普通、警察も軍も、その日にいきなりで動けるような性質の物ではない。緊急以外の場合は――緊急でさえ、状況次第で動かない事もあるのに――、書類手続きに二~三日、その後、装備を整え移動に一日かそうこいらは掛かる。いくら、ここが副帝都で、相当数の軍人がいるとはいえ、岩倉の家の関係者ではないからな。政府に働きかけたとしても、どの程度、新華族のお遊びに付き合うのか……。
「どうする?」
「お前は、手配の依頼を完遂するつもりはあるな?」
根が真っ直ぐな男なので、返事は分かっている。あくまで、修辞語としての質問だ。
「無論だ」
この男には、損得の概念が薄い。一度請けた仕事という自負があるのだろう。ありがたいはありがたいが、長生きできない性質だ。あの悪党が衰え始めてるってのに、未だにこいつが次の頭領に指名されていない理由はそこだろうな。ならず者を纏め上げるには、恐怖や恫喝も上手く使える必要がある。場合によっては……と、いうか、あの貧民窟の連中を食わせていくためには、いくらでも汚れ仕事はしなきゃならないんだからな。
……ふん。
いや、別に俺の知ったことではないがな。
章吾に頷き返し、答える。
「直前まで各所を探れ、なにかあれば連絡に誰か寄越せ」
章吾は、わかったと告げ、そのまま夜の闇に紛れた。
さて……。
面白くなってきたな。遊びは、やはりこうでなくては。
軍や警察絡みで、尻尾を掴ませつつも、搦め手で来るのは意外だった。
こういう仕事が出来るのは――、やはり、大佐か? 役人の遣り口ではないし。それなら、日頃の教育の成果を見せて差し上げないといけないだろう。
動き始めた事態にほくそ笑みながら、跳躍し、屋根の端をつかみ、階上に上る。
半月少し前の薄明かりの夜は、蒼く冴えていた。
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