第2話

 馬鹿と一戦したおかげで、帰りの予定が一刻ばかり遅れた。


 あの後、銭湯に寄り、服も軽く整え、喧嘩の跡も貧民街の悪臭も洗い流した。本来の次の目的であった旅行業者に行ったのは、それからだ。九州までの鉄道と船の切符の手配を――こちらは、偽装と撒き餌用で、それとなく敢えて疑われるように――依頼し、他にも工業部品の輸出名目で、海運業者に輸送船の場所を――こちらは、保険用に――確保し、漸く、下準備を全て終えた頃には、日がどっぷりと暮れていた。


 店の前の提燈には灯りが入っていたが、夕餉には遅い時間のせいか、人の入りは疎らのようだ。

 そういえば、この店は酒を出さないんだな、と、そんな事実を今更少し訝しく思ったが、酒を出すなら出すなりの面倒もあるし、女将の流儀と納得出来ない事も無い。

 ただ、この店には、男衆も殆んどいないようだし……。

 元は飯盛女を宛がう店だったのか?

 それが、明治の頃の旅館法の改正で変わったか、もしくは――、今も密やかには、そうした営業もしていて、だから二階が宿になっている?

 ……ふうむ。

 ――と、つい、余計な事まであれこれと考えてしまう俺だったが、丁度、暖簾をしまおうとした女中が店から出て来た。

 向こうも、すぐに俺に気付いたようだったので、商人風の外面を被り直し、普段よりは愛想の良い笑みで話し掛ける。

「遅くて済まないな。ああ、風呂はいらない。外で済ませた。こっちでは、何かあったか?」

 店に入りながら背広のネクタイを緩め、俺が女中に尋ねると、その女中は困ったように女将に視線を向け――女将が、少し気まずそうに話し始めた。

「いえ、お連れ様が……」

 女将のその言葉に、ああ、そういえば、今朝方、千鶴は『企てる陰謀のひとつふたつ……』とか何とか騒いでいたな、と、思い出し、何を仕出かしたのかを尋ねようとした所――。

「ゆ、づる、か?」

 鍛えた耳のおかげか階上の千鶴の声が、届いてしまった。

 余裕のある声じゃない。

 誰か来訪者? 岩倉の家の者? 動きが早過ぎる……が、平常ではない状況と認識。

 思考が一気に加速し、そのまま俺は衝動に任せるように姿勢を低く踏み込み、一気に階段を駆け抜け、襖も開け放つと――。敷いた布団の上に、掛け布団も被らずに――いや、まあ、猫が胸の上に乗っているが――千鶴が横になっていた。

 部屋には、他に誰もいない。

 押入れ、窓の外の屋根……何所にも気配を感じない……?

 俺が状況判断してさらに一呼吸の間が開いてから、千鶴がゆっくりと顔をこちらに向けた。

 ばれた……訳ではないようだが……? 朝の、悪巧みの結末が、これなのか? 何をしてこいつは寝込んでいるんだ? 心配されたいのか?

 ……まったく意図が分からんな。

 ともかくも、力無く俺を呼んだ千鶴の枕元に顔を近付けてみる。

「……腹が減った」

 ――と、千鶴は、至って真面目な顔で訴えて来た。

 ……率直に、……ぶん殴りたい。

 この女は、どういう思考形態で動いているんだろう?

 遅れて駆け上がってきた女将の方へ視線を向ければ、女将の方も困りきった顔で答えてくれた。

「どうしても、旦那様と食事を取ると聞かないもので……」

 大きく溜息をついて俺は――。

「遅れた分の金は出してもいい。夕餉は頼めるか?」

 と、尋ねたところ、無料で問題無い旨の事を女将は答えて階段を下りていった。

 もう一度俺は溜息をつき、再び俺は千鶴に向き直る。

「俺を待って餓えてへばる馬鹿が何所にいる。この、馬鹿が」

 千鶴が寝転がる布団の枕元にしゃがみ、その額を軽く弾いた。

「二回も馬鹿と言うな。……健気だろう? 愛らしいだろう?」

 へばっても偉そうな千鶴は、誇るように言い切った。

 それを、苦笑いで笑い飛ばして、台詞を添削してやる。

「自分で考えて動けない内は、そういう言葉で表さん。子供らしい、と言うんだ」

「この、捻くれ者め」

 千鶴に恨みがまし声を投げられ、それが何だか清々しく、つぼに嵌り、俺は声を上げて笑った。

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