第六章:喧嘩

第1話

 時間はまだかなり早いが、要談も済んだので立ち去ろうと思った時、聞きたくない名前を聞いて、時節を逃してしまった。

「そういや、章吾には、もう顔、見せたか?」

 この場にいなかったので、てっきり路地裏で野垂れ死んだか、海で鱶の餌にでもなったと思っていたが、どうやら、まだしぶとく生き延びているらしい。

 きっと、憎まれっ子世に憚る、というやつだろう。

「露骨に嫌そうな顔だな、おい」

 横からからかわれて、そんな顔はしていない、と、眉間を揉んで努めて普段の無表情を出す。

 意識した訳ではなかったが、思ったことがすぐに顔に出るようでは、俺もまだまだだな。

「陸士の決闘に首突っ込む馬鹿は嫌いだ」

 溜息交じりに俺が答えると、どっと笑い声が上がった。

 ったく、こいつ等は、昔のネタでいつまで笑えるんだか。

 毎度の遣り取りに辟易して、今度こそ本当に帰ろうとした所で、聞きたくない声が聞こえてきて、俺は盛大に溜息を吐く。

「馬鹿とは何だ! 馬鹿とは!」

 振り向けば、魚桶を肩に担いだ馬鹿がそこにいた。

 周囲の連中よりは頭ひとつ分高い背丈で、筋骨隆々。目は大きく、濃い髭を伸ばしているせいで、顔の周囲は、まるで獅子の鬣のようだ。

「五人に虐められている所を助けてやった――」

 魚桶には、小振りの石鯛や平目が入っていて、喋りながら章吾はそれらを捌き出した。

 俺が来てから酒の肴を探しに行った……のではなく、丁度漁から戻ったら酒宴が開かれていた、といった状況だったんだろう。

 油で汚れた軍港近海じゃ、こんなのは獲れないんだし。

「悪ガキから助けただなんて、貴様は浦島太郎か?」

「じゃあ、手前は、亀だな」

「竜宮城で爺になるのがお望みかい? なんなら、その頭、俺が今すぐ枯らしてやっても良いぞ?」

 軽口を叩き合う俺達に、親方が呆れたような口振りで言った。

「二年も会わねぇってのに、仲が良いよな、お前等は」

「どこがだ!」

 捌き終えた魚を魚桶に雑に盛り、文机に乗せながら章吾が叫んだ。

「こいつがいなくても、俺は勝ってた」

 章吾のように感情的にはならず、事実を端的に俺は述べる。


 あれは、二年ほど前の事だ。

 陸士の海都での移動研修中に、自称優等生の連中から因縁を吹っ掛けられた。

 元々、陸軍幼年学校出ということを殊更ひけらかし、雑用を俺のような中学校出の連中に押し付ける普段から鼻持ちならない連中だったので、この際、殺して海に捨てるつもりで――おそらく、向こうもそういう意図で――貧民街の路地へと誘い出されてやった所……。

 そこをねぐらにしていたどっかの馬鹿が、変な正義感を出して、助太刀を勝手にしあがった。

 奴曰く、五人がかりで一人を襲う等、卑怯極まりなく、言語道断、云々……。

 闘いは、勿論俺が勝った。

 しかし、余計な闖入者が俺に加勢したせいで、興も削がれたし、殺る気も失せた。

 他人の人生に、無遠慮に、正義感なんて偽善を振り回して首を突っ込むような輩は、一等、好かない。そんな奴が、貧民街に居る事も気に食わない。そして、更に、その馬鹿が、俺程では無いにしろ、そこそこの腕っ節だという事も。

 だから、その腹いせも込みで、その後、この馬鹿とも戦い、それも俺が勝った。

 省吾が残飯屋で下働き――もっとも、残飯屋は貧民窟では高給の反面かなりの重労働なので、持ち回りで力の強い男が働いており、省吾の場合は他の仕事と掛け持ちだったらしいが――していて、俺とも何度か顔を合わせていたことに気づいたのは、倒した後だった。

 いや、より正確には倒した後で貧民窟の住人に囲まれていることに気付いた後、というのが正しいか。

 それで、俺が厨房で残飯を世話してやってたのを知ってるのも何人かいて――、気絶していた自称優等生の誤認の身ぐるみを剥ぐ反面、あいつらを倒したのは俺で、倒した後は街角に放置したので誰が装備を奪ったのかは知らないと報告するという取引を、今の親方とした。

 まあ、優等生連中を殺せはしなかったが、陸士の恥として連中は自主退学させられたし、貧民窟は特に憲兵に掃除もされず、事件は有耶無耶になった。

 それだけの、どこにでもあるような話だ。


「相変わらず、口だけは達者な野郎だぜ。こんなとこへ逃げ込んできた分際で」

「口も達者なんだ。接続詞を間違うなよ。だから貴様は、頭が達者じゃないんだ」

 続く軽口の応報は……まあ、五分五分、といった所か。

 尤も、たいした学校も出ていない章吾を口で押さえ込んだとして、自慢になどなりはしないから、俺が適当にしか答えていないせいもあるだろうが。

 しかし、案外、口が上手くなったな、コイツも。

 昔は、今よりも直情的だった。

 まあ、そのうちここいらの親方をやるんだろうし、そうならざるを得なかったんだろうが。

「ヤるか?」

 埒が明かない、という事をようやく察した章吾が、景気付けに焼酎をひと枡貰って飲み干し、挑戦的な目を向けて来た。

「やれやれ、背広なのを考えて欲しいもんだがね……」

 とか何とか言いながらも、少しは運動したい気分でもあったので――千鶴のお守りばかりでは、身体が鈍る――、章吾の挑発に乗る。

「負けて汚しちまうからな」

 そう鼻で笑う章吾に、嫌味のひとつも返せば、後は――。

「貴様の返り血は落ちにくそうだから、嫌なだけだ。勝って服代請求しても、払えんだろ?」

「……吹くぜ、コノヤロウ」


「「表出ろや!」」

 声を揃えた俺達。

 その俺達を、周囲は盛大に囃し立てた。酒が入れば次は喧嘩なんてのは、ここいらじゃ当たり前の光景だ。余興の一つ。怪我も人死も珍しいもんでもない。


 歓声を受けながら表に出れば、いつの間にか始まった祭り騒ぎを聞きつけたのが、ガキ共から、女衆も集まっていた。

 ガキ共は別に珍しくはないが、花街を流している女衆がこんな時間に出てくるのは珍しい――、と、思ったのは一瞬で、太陽の位置から察するに、気付けば昼をかなり過ぎているようだ。もうじき、出勤……というか、路地の方へと出向くんだろう。その前の憂さ晴らしって所か、この見物は。

 しかし、どうにも、今朝方、馬鹿みたいな時間に千鶴に起こされたのが尾を引いて、時間感覚が少し狂っているらしいな。


 周囲に輪形に集った人間は――、つかみで二百と言った所か。

 尤も、貧民街の人口はかなり流動的だし、この人数が多いのか少ないのかは判断に迷うが――。

 ま、顔が通れば、裏通りでの面倒は減るので、少々派手な遊びにしてやろうか。

 拳は握らず、掴み、いなしやすいように、緩く手を開き、両膝は深く、足を開き気味に、左右へ小回りが利くように爪先に重心を持っていく。

「来い」

 俺が構えを取っても、泰然と仁王立ちのような姿で拳を握る章吾に、挑発するようにけしかける。

「上着は良いのか?」

 来い、と言われても、自分から先に攻めるのは性に合わないのか、章吾は、手ではなく口で先制してきた。

 尤も、上着に関しては――指摘の通り、激しく動くと袖や肩が破れそうで嫌なのも事実だが……。

「ああ、盗まれるからな」

「……それもそうか」

 俺が端的な事実を答えると、章吾は、自分の棲み処の事を少し恥じたのか、少々気まずそうに同意した。


 改めて、摺足で距離を縮めたり広げたりする。

 章吾は、誘いには乗ってこなかった。


 それは、手招き挑発をしても同じだった。

 ふむ。

 昔よりは、兵法を心得たようだが……。

 それならば、と、前にした左足を軸に、浅く狭く一歩目を踏み出し、その右足の一歩目と同じくらいの詰まった短い幅で二歩目三歩目と一気に加速し――。

 三歩目で章吾の間合いに入ったのを俺が認識したのと同時に、章吾は前傾姿勢で突進してきた。


 体躯に任せ、広く素早い一歩で一気に距離を詰め――足を出しながらも、右手を振り被り大きく身体の後ろに引いて、大弓に番えた矢のようにその腕を突き出して来る。


 ……まったく。

 この猪め。

 なってないにも程がある。

 つられて前に出る事程、愚かしい自殺行為も無い。

 喧嘩においても、隊伍を組んでの戦争でもそれは同じ。

 そして、組んず解れつの大格闘等は、所詮、見世物の中だけの話だ。

 殆んどの闘いは一撃で決まる。

 事実、章吾の巨体が俺との距離を、俺が望む以上に詰める事はなかった。


 短く踏み込む一歩で、爪先に一気に力を入れ、背後に大きく――しかし、高さを出さぬように跳び、そのまま小刻みに下がれば、その刹那、章吾の腕が目の前を掠める。

 掠めた腕の肘を浅く右の裏拳で打ち、真っ直ぐに向かっていた章吾の力を左に逸らすと、腕の勢いに引き摺られる形で章吾は身体を反転させ――。

 体勢を崩されながらも、章吾は右膝蹴りを繰り出した。

 俺の顎に向かって振り上げられるそれは、かわすには距離が縮まり過ぎており――。

 勝利を確信した章吾の横顔が、視界の右端を掠めて行くと同時に俺は……。

 顎に迫る膝の少し奥。

 左肘で、太股の筋肉のふたつが交錯している場所を突き通した。

 俺の顎に届かなかった膝は押し戻され――。

 左回転を始めていた上半身と、背後に向かって突かれた下半身との捻れで、章吾は派手に地面に転がった。

「クソッ! ……ッツ!」

 地面に転がりながら、太股を押さえ章吾が悶えている。

 勝負ありだな、と、俺はつまらなそうにその様子を一瞥して、吐き捨てるように言った。

「貴様は、動きが素直過ぎんだよ」

 ゴロツキらしい、といえばそれまでだが、章吾は力任せに押し切る傾向が強い。だから、少しいなしてやれば、自滅する。

 そもそも、前進一辺倒で歩法がなってない、腕を振りかぶって殴ろうとするなんて隙だらけの行動、馬鹿としか言えない。

 下らない。

 想像以上に退屈な喧嘩だった。

 盛り上がらない展開に、消化不良の不満を燻らせていたその時、転がったままの章吾が、真面目な声で尋ねて来た。

「手前は、軍を抜けたのか?」

「ああ、お姫様さらって逃げ出した」

 俺の言葉に、がはは、と、笑った章吾は、知った風な口で話し始めた。

「まあ、いつか、手前は軍を抜ける、と、思ってたけどな」

「うん?」

「らしくなかったって話だ……。尤も、女連れで逃げ出すのも、らしくないが」

 成程、らしくない、か。

 確かにそうかもしれない、な。

 ただ――。

「俺はお前らほどには、心が動かん。失っておかしくなれるだけのものも持ち合わせていない。所詮は暇つぶしだ。人生なんて、そんなものだ。」

 理由があって千鶴を選んだ訳じゃ無い。

 絶対に千鶴じゃなければならなかった理由等、俺には無い。

 ま、敢えて付け加えるなら、一時的にしろ、らしさを棄てる程度には魅力的だったという事……なのかもしれないが……。

「だから、俺は、手前が嫌いなんだ」

 吐き棄てるように言い、抵抗者の眼差しで見上げる章吾に、見下す支配者の視線で俺は言い返した。

「それは、お互い様だ」

 価値観――、特に人との関わり方が俺とこいつは決定的に違う。


 俺は、困っている人間を、気紛れに新しい扉の前までしか案内しない。どうするのか、どうなるのかはそいつ次第だ。

 章吾は、困っている人間と、一緒に新しい扉を開けて寄り添っていたがる。助けたのなら、情が移る。行く先が共倒れだとしても。

 お互いの美学が、全く正反対なんだ。 

 意見が一致する筈なんて無い。

 これからも。

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