第3話

 大都市、まして、油で汚れる軍港ともなれば、近海の漁業は立ち行かない。

 そんな職にあぶれた漁師やら、浮浪者やらが集まって、貧民街は生まれ、何度かの不景気を経て、その町並みは拡大を続けている。


 ガキ共がいた通りを抜け、更に歩を進めていくと、ガラクタの不法投棄場があり、そこから屑鉄を拾って加工する、小さな違法工場があって、最奥の一角に、出鱈目に立てられた――二階以上の部分が、一回よりも横幅のある不恰好な集合住宅がある。

 無造作に近付いていけば、門番のように、朽ちかけの木箱に座る二人の男が、駄弁るのを止め俺を見た。

「なんだ、また、懐かしい顔だな」

 コイツ等は、俺も覚えている。

 右側の落ち武者みたいな禿げは、さらしで中年腹を隠している作治で、左側は……確か、その甥の真次だ。どっちも一度は大八車を引いて軍の厨房に来たことがあったし――その後の妙な一件で話もしていた。

 作治は昔と全く同じだが、真次の方は、潮風に程よく漬け込まれたのか、二年前と比べれば、前髪がうっすらと薄くなって、作治に似てきたな。

 かっちりと着こなした洋装を煙たそうに見る二人に、まず、右手の手土産を渡す。

「焼酎だ」

「お? 気が利くな」

「おい! 酒だ! 酒が来たぞ!」

 酒樽を受け取った途端、さっきまでの顔は何所へやら。親しげに横に並び、旧来の友を迎えるように、掘っ建て小屋の奥へと俺を案内し始めた。

 さっきのガキ共の十年後の姿がそのままこの二人に被って、俺は少し苦笑いする。


 尤も、心のままに本音で生きている、こういう人間は、嫌いではない。

 要は極端な生き方をする人間に美学を感じるのかも、な、俺は。

 それに――。

 意気揚々と酒樽を掲げた真次には、どこか虚ろな目で、命令に妄信的な陸士の同窓よりも余程精悍な印象がある。

 何者にも委ねられない人生を生きる、ということは、それなりに、損得も信条も獲られるものなのだろう、きっと。


 通された奥の座敷――というには、畳も傷みが目立ち、木材がむき出しの壁も、穴だらけだが――、ともかくも、最奥の間では、表の声を聞きつけたのか、既に十数人の男が群がっていた。

 部屋は、正確に何畳というのは、ガラクタの多さから量りかねるが、かなり、手狭に感じる。

 俺が腰を下ろした筵と、その前の欠けた文机、その前の椅子以外にまともな家具は無く、むさい男共は、立ったまま――さっき渡したばかりの酒を、もう飲み始めていた。

 先に、商談をさせろ、と、嘆息する俺を他所に、早、分け前にありつこうと、枡を片手に我先にと酒樽に群がる男共。

 暫く話は無理か、と、分かってはいたがうんざりする手順のひとつを、見るとは無しに見る。

 見知った顔は、幾つか消え、幾つか若い新しい顔が増えていた。

 こんな場所なんだ。命の価値は、相当に安い。

 冬ともなれば、歳を取った者から消えていく。

 来年の事はおろか、数日後には行き倒れる可能性の中、奔放に生きる連中。

 千鶴は、こういう生き方をどう思うんだろうな……。

 いや、アイツは、自由に憧れつつも、求めているのは完全な自由ではなく、手の届く範囲の幸せ、という事だろう。

 海外で――、欧州は戦争の最中だから、それ以外の平和な……落ち着いた町並みの国を探して、裕福ではないが清い生活が送れる程度の家柄の青年を探せば、それで千鶴は満足するだろう。

 俺は、過程のみを楽しんで――、ま、それなりの金も頂いて、頃合で……そうだな、一年から、長くても三年で消えようと思う。

 その頃には、欧州大戦もひと段落し、また、面白そうな事も転がっているだろう。


「何だぁ? また、喧嘩か? お前は、陸士でも幼年学校出の連中とよく遣り合ってたからな」

 ――酒の半分が連中の腹に収まり、場が落ち着き始めた頃、ようやく漁協の親方……もとい、この辺の悪党の親分が顔を出してきた。 

 奥から悠々と現れた、厳つい四十の男は、しかし、以前と比べれば少し痩せたようにも感じた。

 取り巻きから受け取る酒も、その飲み方に、記憶との微かな違和感を覚える。

 後数年もすれば代替わりするのだろうな、と、あまり感慨も無く思い、ともかくも、今の頭領は彼なのだし、むしろ、だからこそ一花咲かせてやろうと考え直し――。

「いや、今度はもっと凄いぞ」

 ――もったいぶったにやけ面で、俺は顔を近付ける。

 近付いて見た歴戦の悪党の顔は、やはり以前よりも歳を感じさせた。

「ほぉ?」

 少しは興味を惹かれた顔で、親方が顎に手を当てる。

 周囲が程よく静まり、俺の話しを聞く体制が整ったのを確認した後、俺はにやりと笑って話し始める。

「お姫様連れて逃げ出した。話題に上がってたり……手配は掛かってないかね?」

「オレらの方には、何にも。お前ぇの件なら、ごろつきより、もっと偉いさんが動いてんだろ」

 だろうな、と、姿勢を正すものの、お偉いさんは切羽詰ればごろつきを使い捨てにするのも常套手段。となれば、先手を打って、釘を刺しておくのは悪く無いだろう。

 概ね俺の意図を正確に理解した親方は、ひとつ頷くと、それで、お前は俺等とどんな取引をするんだ? と、首を傾げて俺を見た。

「最悪、漁船でも構わんが、遠洋向けの密航は手配出来るかい?」

 尋ねれば、親方の横にいた猫背の男が、帳簿を捲りながら、何事かを調べ、最終的に二枚の紙を引き抜いて、俺の方に向ける。

「千島列島向けと、ハワイ方面なら、どっちがいいね」

 今は夏だし、北へ行きたい所ではあるが、千鶴に北海道の冬が越せるとは思えない。

「南にしとこうか」

「急ぐか?」

「早ければ早い方がありがたい。それと――」

 言いながら、連中の顔を見て、部屋もざっと見る。

 千鶴は、絶対に拒否するだろうな、とは思うものの、他に無法地帯の当ても無いので、どうせ保険だしな、と思い、次の要望を出す。

「もしもの時は、一時、避難させてくれ」

 幾ら出す? と、周囲の顔が訊いていたから、懐の財布から一円金貨を取り出して放った。

「予約金は一円だ。部屋を綺麗にしておいたなら、使う際にはもう二円出す」

「ま、そんなもんだろ」

「船の手配は、別額だぞ」

 一円金貨を親方が納め、分け前にありつけなかった取り巻きは、露骨に不満そうに文句を垂れたので、俺は、織り込み済み、という顔で、本題の船の手配用に準備した金を出す。

「前金二十円、手配後にさらに二十円」

 予め袋に分けていた金を、親方の前に放った俺。

 ドシャっと中の金貨が重い音を立て、文机の上に鎮座すると、周囲からの不満の声は、歓声に変わった。

「ヒューウ」

「偽もんじゃねえだろうな!」

「取引でそんな馬鹿するかよ」

 親方が金を数えている間、やっかみに適当に応じてやっていると、その中に、少し気になる要望も混じった。

「女も手配してくれよ、弓弦。お前の面なら、何人か引っ掛けてこれるって」

「手前で買いな。ああ、あと、俺の連れには手を出すなよ」

 この街じゃ、そこそこ早耳遠見のこいつ等の事だし、俺達の事もちら見されているだろうと当たりを付けて釘を刺せば、分かり易く指を鳴らして残念そうな顔をしたのがちらほらと居た。

 元々そんな気は――有るのか無いのか、微妙な所だが、後金の二十円の加護が有る限り、ちょっかいを出されることもないだろう。


 それに――。

 敵対されたとして、それならそれで、容赦をしないというだけの話だ。

 と、そこまで考えた所で、親方が金に納得し「商談成立だ」と、全員に宣言した。

 その声に、わっと、場が盛り上がる。

 約束が完璧に守られる保証は無い以上、口約束だけで能天気に安心出来る訳も無いが、ともかくも、第一段階は無事終了……と言った所だろう。


 今後は、保険と擬装用の船や鉄道の切符を旅行会社を通じて、普通に手配し……。目立たないように、目立ち過ぎる女を御するのが、当面の仕事だな。

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