第2話

 宿を出ると、日差しが目を焼いた。

 雨空も終わり、夏の盛りにむけ、これからどんどん暑さを増していく季節だ。

 目の前の表通りは、日差しなど気にしないように、多種多様な人がひっきりなしに行き来し、活況を催している。

 昔ながらの綿織物のボロの和装で初物の西瓜を荷車で運ぶものから、俺と同じく背広の会社員、呼び込みをしている売り子、手押し車の羅宇屋、そして、港湾警備の巡視の軍人もちらほら。

 通りの人並みに飲まれるようにしながらも、自らの意思を持って流れを制御するように、合間を縫って進む。

 肩が随分と軽い。

 おそらく、気分も。

 意外と、あの女が重しになっているという事に、初めて気付いた。

 特に、意識して丁寧に扱っている、というつもりではなかったが、それでも幾分、無意識には気を使っていたりはしたのだろう。

 とはいえ、緊張があるから開放があるのだし、ただ、だらけるだけの人生は一番つまらぬ事も事実。特に、現状に不満はない……し、そこそこには楽しませてもらっている、か? まあ、普段は余裕綽々の大佐の様子や、子爵家の今の騒動を想像すれば、それなりに。

 千鶴も駄目ではないが、もう少し、凝った駆け引きが出来ぬと、な。


 ごく僅かに不満な溜息を漏らしてから、目当ての酒屋に俺は入った。

 暖簾を潜ると、十六畳位の土間に、酒棚が四つ並び、店の奥には酒の大樽も積まれている。

「毎度、旦那、何にいたしましょう」

 分かり易く媚びる揉み手で擦り寄る――店主、か? 店主の他は、丁稚が三人しかいない割とこじんまりとした店だった。

 品揃えも、小規模の小売店としては普通の部類で、最近流行の麦酒等は無く、主に安い焼酎と、幾つかの日本酒、味醂……といった所だ。

 近所の台所用、と言った程度か。

 尤も、今は高いものが必要な訳じゃないので、ここで充分ではあるが。

 棚の壜の日本酒を素通りし、店の奥の樽を幾つか眺め――この酒屋で、一番強い焼酎をひと樽注文した。

「あれをひとつ貰おうか」

 値札が樽には付いておらず、普通はここから交渉する事になるのだが、この系統の小さな店は余所者に吹っかける悪癖があるものだから、相場は分かっているという顔で、一円金貨を二枚無言で差し出す。

 一斗の容量とはいえ大棚で買えば、一円七十銭程の、強い、安い、不味いの、三拍子揃った安酒だ。

 こちらの必要性を考えれば、手間賃を掛けても、これ以上の値段なら買う必要は無い。

「毎度ッ!」

 儲けそびれた、と、素直に顔に出した店主が、やけっぱち気味に叫んだ。

 ……この街にあって、この程度の規模の店なのは、きっと、この店主の直情的な行動のせいだろう。

 そんな風に、小馬鹿にするような目で蔑んでいると――。

「配達はいらないが、手持ちするから紐を掛けてくれ」

 丁稚が樽を――おそらく、店の裏の荷車へ運ぼうとしたので、それを止めて、この場で受け取る旨を伝える。

「色は紅白に?」

 商魂逞しい店主が、再びいやらしい顔で尋ねたから、俺はぞんざいに答える。

「いや、そこまで格式ばる相手じゃない。悪いな、追加の手間賃を出せなくて」

 皮肉を最後に乗せれば、しまったという顔をした店主は、すぐさま態度を改め胡麻を擦り出した。

「いやぁ。お客さんみたいな気前の良い方は、またウチにいらっしゃって下さるはずですから」

「流石は商人、口が上手いな」

「アタシの口なんか比じゃない程、上手い酒もありますよ」

 さっと見た店内から、そんな上物が出るとは思わなかったが、世辞の意味も込めて返事をして、丁稚から酒樽を受け取る。

「それは、自分用に仕事が終わったら見させてもらおう」

 俺の返事を聞いた店主は、顔を分かり易く綻ばせ――。

「ありがとうございます、また、よろしくお願いいたします」

 ――と、丁稚達と声を揃えて言った。

 確定もしていない口約束で、よくこんなに気を良く出来るもんだ、と、半ば感心したように呆れ、俺は本来の目的地へと――人通りが少なくなる方向へと、足を向ける。


 町外れの貧民街の入り口は、相変わらずだった。

 均整の取れた和洋折衷の建物群は消え、掘っ建て小屋がちらほらと見える。薄暗いその小屋や小屋の隙間、橋の下なんかの暗がりには、人や獣、むしろ、その両方の性質を持った何者かの、独特の湿度の視線があった。

 通りは通りで、舗装されていない土が剥き出しの道で――。広い道の真ん中、昔と同じ場所に一斗缶の焚き火があり、その周りではガキ共が集まって、拾ってきた蟹やら小魚やら、小鳥なんかを焼いている。貧民街で三度の飯なんて、夢のまた夢。ガキ共が年中腹を空かしている光景も、ありふれたものだ。

 ただ、この辺りには軍の施設――特に海軍関連の物が多いので、その大量の残飯が出るだけましな方、か。だからこそ、これほどの貧民街が維持されているんだしな。


 相変わらずのえたような匂いの貧民街に、軽く嘆息してから、小屋の視線の主よりはましか、と、ボロを着流しているガキ共に寄って行く。

「漁協の親方は、居るかい?」

 最初、場違いな格好の俺に向けられたのは怪訝な目の方が多かったが、数年前の事を覚えているのも居たのか、今にもかっぱらいに変わりそうなチビ共を押しのけて、背は高いが痩せた坊主頭の子供が前に出てきた。

「お、ユヅルだ。ユヅルだろ。ユヅル」

 指差して連呼する――ガキ共の仲では、それなりに年長の部類に入っている一人。

 そいつが叫ぶと、他にも二~三人は覚えていたようで、所々、おお、とか、そんな声が聞こえた。

「よう」

 とはいえ、数年でも子供の成長は早い。気安く挨拶を返してはいるものの、コイツが誰だったかは思い出せていないんだが、な。

 尤も、日に焼けきったガキ共は、元々、いまいち見分けが付かないような容貌と背格好ではあるが。

「ばしょ、かわってない、かわってない」

 鼻詰まりしているような、独特の訛りのある声で最初に前に出てきた奴が、右に折れた路地の先を指差す。

 蓄膿か?

 まあ、この辺りじゃ、医者なんて行ける筈も無いからな。

「そうか」

 短く返事して、記憶を頼りに再び歩き始める。

 あのボロ屋が、まだ崩れていなかったのには驚きだ。


 感慨に耽りながら通り過ぎる俺だったが、右手の酒樽を目聡く――いや、そもそもが酒樽は目立つから、普通の反応か……――見つけたガキが一人駆け出し、それを追って全員が俺に向かって突っ込んできた。

「ぐんたいめし? ぐんたいめし、もってきてくれたんか?」

「阿呆、よく見ろ、酒樽だ。そもそも、なんで俺が残飯を運ぶんだよ。章吾どっかの馬鹿でもあるまいに。軍隊飯が欲しけりゃ残飯屋に行け」

 貧民窟では、竈で煮炊きできるだけの炭は買えない。そもそも、竈のある家さえ少数だ。自然と調理済みの食料を買う羽目になるが……、きちんと屋台なんかで買ったり食ったりできるならそもそもこんな場所には居ない。

 だから残飯屋がある。

 残飯屋が旅館や軍施設から残飯を買い漁ってきて、手間賃を上乗せして売る。それでも、最低限の飯を作るよりはるかに安いから繁盛する。

 ……まあ、俺も軍学校の頃には厨房の当番の際に、残飯を渡して小遣い程度を得ていたし、それが正しい残飯の処理方法だったしな。

 それが、なんにでも需要はあるし、は使いようだという事を俺に教えてくれた。


 ま、そんな古い妙な縁ではあるが、役に立つ限りは使わせてもらえばいい。

「オレたちにも、なんかくれよ」

 案の定といえばそれまでだが、結局はたかりに変貌したガキに足に群がられた。

 やれやれ、残飯屋が大八車を引いてるような状態になっちまったな。

 ガキとはいえ二十人も固まれば、それなりの圧力になる。

 ――が、散らし方のひとつふたつ心得ていない俺ではない。

 上着の隠しから小銭を幾つか握り――。

「物は手前等で、あつらえな」

 言いながら、十銭銅貨を数枚放れば、あっという間に、蜘蛛の子を散らすように、足元に纏わり付いていたガキ共は転がる硬貨を追って四散した。

 相変わらずだな、ここも。

 そう苦笑いしながら歩き去る俺に、背後から大声が投げられた。

「ユヅルー! ありがとなー!」

 振り向かず、右手を上げて応える。


 ふと、籠に飼われるのと、野良とではどちらの生き方を俺は望むのだろう? と、疑問が心に湧いた。

 ――が、一拍後に頭を振る。


 俺は千鶴のようにも、ここのガキ共のようにもなる気はない。

 とらわれず、気侭に流れるのが一番性分に合っている。

 それを自覚している以上、俺は俺らしくしか生きていけない。


 それで充分だ。

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