第五章:魔窟
第1話
「ニャー、ニャー!」
若い錆猫の
しかし千鶴は、そんなネコの様子などお構い無しに、ついでに言えば、俺にも配慮せずにネコの手や尻尾を抓んで遊んでいる。揺れる尻尾を追う千鶴の細く白い指先。黒い毛の中に混じった錆色の模様が、朝日を受けて金色に揺れた。
「今日は、今後の手配をつけてくる。出来れば部屋で大人しくして貰いたいが……」
結局、昨日の千鶴は、あのまま寝入ってしまい、そのせいで今朝方、日の昇る前に起き出した。しかも、朝餉を待つ間の暇潰しに、俺と百を付き合わせていた。
まったく、唯我独尊のお姫様だ。現在後ろ盾無しの分際にも関わらずに。
偉そうな態度を改めない千鶴に、俺は、早朝勤務の代償として言うことを聞け、という顔で告げた。
尤も、嫌と言われても――おそらく千鶴はそう答えるだろうが――、行き先の治安には相当に不安があるのだし、縛ってでもここに残すつもりだったが。
「構わぬぞ」
あっさりと返って来た理解のある返事に、一拍後れて驚いた俺。
千鶴の事だから、是が非でも付いてくると思っていたので、予想外の言葉の裏をその表情から読み取ろうとする。
まじまじと俺に見られた千鶴は、してやったりとばかりに余裕たっぷりの表情で告げた。
「お前に思う所があるように、ワタシにだって、企てる陰謀のひとつふたつはあるものだ」
「……成程」
陰謀というよりは悪戯の類だろうが、ややこしくなるので敢えてそこは追求しなかった。
いや、自分が自由に出来る愛玩動物が出来たので、それに執着して動きたくないだけかも知れないな。百には迷惑この上ないことかもしれないが。
しかし……。素直に言うことを聞かれてしまったので、夕べに千鶴対策として仕入れてきた物が無駄になってしまったな。
……まあ、俺が持っていても仕方が無いし、渡しておく、か?
しばし悩んだ後、調子に乗るのだろうな、とは思いつつ、どの道、千鶴のために調達してきたのは事実なので、素直にそれを渡す事にした俺。
「これはなんだ?」
俺が少し乱雑に投げ渡した文芸誌を丁寧に検めながらも、中は開かずに不思議そうな顔で尋ねた千鶴。
「流行の文芸誌だ。世俗を知るには良いだろう?」
暗に、世間知らず、と、茶化す表情で俺は告げたが、千鶴からは、予想していた怒声が返ってこない。
「あ、あ」
それどころか、不意に言葉を詰まらせたので、何事かと思えば、俺に見守られながら千鶴が告げたのは――。
「ありがとう」
……ありふれたお礼の言葉だった。
「そのぐらい、
千鶴の不器用すぎる礼の言葉にからかう気も失せ、俺は脱力してしまう。
だが、脱力する俺に向けられたのは、精一杯本気だったのに、という千鶴からの非難の眼差しだった。
やれやれ、と、嘆息して俺は付け加えた。
「それと、気が向けば、官報も目を通してくれると助かる」
もし俺達の情報が載っているなら、まずは新聞より官報の方だろうと目星を付けたが、ただ、軍の面子もあるので、秘密裏に憲兵を動かす可能性の方が高いだろうとも読んでいる。
尤も、岩倉家の対応方針と、俺の原隊の大佐の洞察力次第でもあるが。
ただ、そこは昨日の今日で結び付けて考えない方がおかしいし、そのどちらもが恥を嫌う立場なのは自明の理なのだから、後は推して知るべし、だ。
とはいえ、それすらも後で自分でも確認するつもりなので、千鶴に言いつけた最大の理由は、……まあ、言ってみれば、小人閑居して不善をなさないようにさせる為、だ。
ただ、言いつけられた当の本人はといえば……。
官報? と、千鶴が小首を傾げたので、分からなければ良い、と、俺はやんわりと首を横に振って、小さな鞄を肩に掛け、背広に合わせた中折れ帽子を深く被り直し――。
「いってらっしゃい」
外へ出ようとした所で、千鶴に声を掛けられた。
意外な一言に、帽子のつばを弾いて上向かせ、不躾な視線を千鶴に向ける俺。
「いってらっしゃい」
返事をしない俺に向かって、もう一度同じ言葉を手向けた千鶴。
「軍人は、そんな挨拶はしない」
聞き慣れない言葉、という事もあったが、そもそも俺は帰って来る前提で動いているつもりがない。
自分に明日があると思って今日を生きていないし、千鶴との縁を仮の家ともしていない。
「今のお前は、もう軍人ではないだろう?」
不思議そうに尋ねた千鶴に、俺は肩を竦めて答えた。
「明日知れぬ身、という部分では変わらんさ」
「素直になれ!」
皮肉っぽく返す俺に、千鶴は笑いながら怒る顔で叫んだ。
端から素直なんだがな、とは思ったが、このまま無駄にじゃれていても仕方が無いので、ふ、と笑って俺は、余計な言葉も付けて、出立を告げる。
「行ってくるから、愛想を尽かされない程度には良い子でいてくれ」
斜めに構えた態度は崩さない俺に、千鶴は不器用な敬礼を手向けていた。
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