第3話

 女将が完全に声が聞こえない場所まで離れるのを待ってから、俺は千鶴に向き直った。

「お前は、俺以外の者に対しては口もきけぬのか?」

 概ね言われることが分かっていたのか、縮こまっていた千鶴が、亀みたいに首を更に縮こめた。

「そ! それは……」

 一瞬だけ顔を上げて言い返そうとしたが、言い訳さえも思いつかなかったのか、猫を持ち上げて口元を隠した。

 ふぅ、と、これみよがしに溜息を、くてっとしている猫に向かって吐く。

「そんなことで、お前の望みは敵うとでも?」

 千鶴が黙ったままで居たので、更に追い打つ俺。

「喋れもしないのでは、交渉では負けは決まったも同じだぞ。恋だって出来ないだろう。……いっそ、その猫の嫁にでもなるか?」

 鼻で笑ってバカにすれば、少しは元気が出てきた千鶴が「ばかを言うな」と、怒ってみせ「この子は、初めて見つけた親友だ」と、続けた。

 家人と許婚意外に初めて見た男の俺が恋人候補で、これまた初めて出会った猫が親友とは、随分と狭い世界だ。

 苦笑いを浮べる俺を、しばらく恨みがましく見ていた千鶴だったが、ふとなにか思い当たったのか、猫を膝の上に乗せ、少し真面目な顔で言ってきた。

「……ちょっと、疑問に思ったのだが、な。お前は、安易に恋に落ちようとするなとずっと言っているが、そもそもがひと目で落ちるものが恋なのではないのか?」

 口調はしっかりとしていたんだが、目が合うとどこか照れたような――いや、違うか、どこか困ったような顔で黙られてしまった。

「もう少し、多くの人を見た上で判断しろ。身内と下人以外のほぼ初めて会った男というだけだろ、俺は」

 右手を上げて目の前でヒラヒラと振って、話題を追い払う。

 千鶴は、不満そうに膨れ、最後に一言だけ付け加えた。

「初めて会った外の男が、あの許婚のようだったなら、ワタシは、きっと、なにも変えようとは思わなかった」

 しかし、そこまでの言われようの許婚というのにも、少し興味があるな。どんな醜男なのか。話の種に調べておくかな、時間がある時にでも。


 鍋は、すぐに食べられるように火を通した上で出てくるのか、まだ運ばれてくる気配は無い。

 一度降りてしまった沈黙が尾を引いていたんだが、黙ったままでいるのが不安になった千鶴が、意を決したように話しかけてきた。

「任せろ、とは、こういう事だったのか」

 こんなのも千鶴が人に慣れる訓練にはなるか、と、雑談に付き合うことにする。

 火を通した上で来るなら、特上の鍋の支度にはもうしばらくかかるだろうし、この程度の会話を心配する必要はない、周囲の気配だけは探りつつも、普通の声で俺は答えた。

「宿帳に記録をされる心配はないからな、これなら足は付き難いだろう。頭の固い憲兵は、まずは旅館を虱潰しに当たるはずだ。その間に、一度国外に出れば勝ちさ」

 俺の答えを吟味するように俯いた千鶴は、熟慮はしなかったらしく、すぐに顔を上げて真っ直ぐに俺を見据えた。

「最初から知っていたのか? 裏では宿もやっていると」

 それなら何故教えなかった、と、非難する目で尋ねて来た千鶴。

「店に二階があったからな」

 うん? と、それだけの情報では察せなかった千鶴が、重ねて問い掛ける目を向けてくる。

 少しは自分で考えろ、と、軽く目を閉じ、嘆息した俺。


 表通りから裏通りへと抜ける店の造りで、表玄関から右手側に大衆席、左側に座敷が有り、二階へ上る階段が飲み食いの場になければ、何に使うのかを疑問に思って当然だろう。

 よしんぼ、店の人間が住んでいたとして、人数と規模を考えれば不審がある。丁稚だけを入れておく、もしくは泊まりの番の従業員の休憩用だと考えれば納得出来ない事も無いが、それだけで遊ばせておく程、商人は甘くはない。


 千鶴は、考える気が無いだけかもしれないが、分からない、という顔のままだったから、ごく簡単にだけ説明する。

「秘密の商談で逗留するには、よくある手さ。もっと位が上の人間なら、地元の権力者の別宅に逗留するのが普通だが、商人は商人同士で、とな」

「どこで覚えた?」

「軍とは言っても、全員が全員、銃を持って撃てばどうにかなるというものではあるまい。陸士で習う内容にも――というか、陸士は、士官として兵の運用を学ぶための場なのだから、野営地や宿の確保の仕方から、補給線の維持まで広く教わるものだ」

 つまらなそうに俺は答える。

 尤も、その知識を応用出来るか否か――大半は、右倣えの教育のせいか、応用の利かない人間ではあるが――が、重要なんだがな。上手く活かせれば、たいていの事はどうとでもなる。そもそもが、大人数の部隊は移動させるのがなによりも大変なのだ。その間の寝食の確保に関しては、かなりの頁が割かれている。

 今回の件も、軍で飲み屋を貸し切って逗留したという事例が教本にあったので、それなら普通の料亭でもと思い、調べた事があったから、すぐに思い付いた。

 安易と云えば安易な発想だが、調べる方にとっては、電話一本で調べられる旅館や旅籠と違い、相当の面倒が伴う。

 いつかはばれるが、充分に時間は稼げるはずだ。


 行動を顧みた後、満足して肘に顎を乗せた俺に、千鶴が刺々しい眼差しを向けてきた。

「この際、はっきり言っておくが、お前は、もう少しワタシに――」

 喋っている最中の千鶴に、し、と、人差し指を口に当て、会話は終わりと伝える。

 露骨に千鶴が顔をしかめた時に、襖が開いて牛鍋が運ばれて来た。

 最初は、女中と女将がたじろぐほどに、一層顔をしかめた千鶴ではあったが、牛鍋から立ち上る香りに、そのしかめっ面はすぐに解かされ、一口目を運んだ際には、もう笑顔になっていた。


 鍋は、どうやら口に合ったようだが……。

 まったく、単純な女だ。

 値段以上には美味い牛鍋をつつきながら、斜に構えながらも俺は千鶴を見続けていた。

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