第2話
表で感じた予想の通りではあるが、店は空いていて、すぐさま奥座敷へと俺達は通された。
内装も概ね予想通り。
入ってすぐ右手側に有る大衆向けの早飯用の広間でさえ、衝立は朱塗りで内には山水が描かれているのだから、左の襖で仕切られた座敷なんて言わずもがな。千鶴の家のような、洋風の煌びやかさは無いが、重厚でしっかりした、漆黒と純白に彩られた和の趣がある。
元々、牛鍋が流行っている上に、人の出入りの多いこの街という立地の良さも有るだろうが、随分と儲けていそうだ。
品書にさっと目を通し、返事が分かる問い掛けで……、あくまで修辞後のひとつではあるが、訊かなければ訊かないでそれに不満を持ちそうな女だから、一応、尋ねてみる。
「何が良い?」
「どれが、お勧めだ?」
目を輝かせながら品書を見詰めている千鶴は、顔も上げずに問い返して来た。
鍋屋の品書ごときに、そこまで興味を引かれるものも無いだろうに。
どうやら、この落ち着きの無さは――鉄道での一件も含め、生来のモノのようだ。
本当に大佐の妹なのか随分と疑わしい性質だが……。いや、尤も、あの子爵自体が、鈍くて権威に弱そうな成金の印象があったし、大佐だけがあの家では異質なのか?
「肉と魚ではどちらが好きか?」
今更ながら、それなりに良かった上官を思い出し――それを目の前の、今の……一応は、相方に、重ねてみる。
自身が刹那的で享楽的なのは性分と納得してはいるが、俺も随分と早まった真似をしたものだ。
「肉……お? この、ほうとうとは何だ?」
生返事を返しながら、更に別の疑問を乗せた千鶴。
「ほうとうは、平たいうどんだな。味噌味で、野菜の入った――」
「それで、お前は何にするのだ?」
訊いたから説明してやっているのに、ころころと話題が変わり、落ち着きがない。
料理を選ぶという事をこれまでした事が無いのだろうから、多少は仕方が無いとしても、人の話をきちんと聞けないのは別問題だと思うんだがな。
「磯鍋か、軍鶏鍋だな」
微かに嘆息して俺は答える。
千鶴は、俺の返事を聞いたのか、聞き逃したのか、判断が難しい唸り声を上げて悩んでいた。
「ふーむ」
「どれが気になる?」
暗に、希望があるなら早くしろ、という意思を込めて尋ねると、一拍間を置いて、溌溂とした顔で千鶴は小さく叫んだ。
「ぜんぶ、だ!」
……確かに、全部注文しても――それどころか、店ごと買い取れる金はあるが、それをする意味は無い。
本気か冗談か量り難いお嬢様の戯言に、俺は口をへの字に曲げた。
「……嘘だ。……お前と同じもので良い」
呆れた目をしている俺に、少し気まずそうな顔と声で千鶴は言った。
「一番、困ることを言うな」
「困るのか?」
驚いたような千鶴の目に射竦められ、俺は肩を竦める。
「口に合わぬと言われれば、それは、もう」
「我侭は言わぬ」
その時点で、駄々っ子のように千鶴は口を尖らせていた。
なんだかそれが可笑しくて、つい噴き出してしまった。
「言っておらぬだろう?」
少し心配そうに、だが、あくまで自分の主張は正しいと信じている顔で、詰め寄る千鶴。
先程の人の話を聞いていなかった件のお仕置きの意味も込めて、返事もせずににやにや笑いを返せば、心外だ、とでも噛み付きそうな勢いで千鶴が息を大きく吸い――。
「なら、そういう事にしておこうか」
吸い込んだ息を千鶴が怒声に変える前に、俺はゆるゆると首を横に振って返事をした。
肩透かしをされつつも、含みを持たせた俺の言い回しに納得も出来ない千鶴は、吸い込んだ息でそのまま頬を膨らませ、本気で拗ねた様子で腕を組み、あさっての方へと顔を背けた。
「では、一番一般的な牛鍋にするが、それで良いか?」
もし、牛鍋が合わなければ、食事は今後別の場所にすれば良いと考え、口も利きたくない、という態度の千鶴に、敢えて返事が必要な疑問を投げ掛けた。
「……任せる」
そっぽ向いて言った千鶴に少しだけ口角を下げ、俺は給仕を呼んだ。
襖を開けて入ってきた女中は、随分ととうが立っていた。
小豆色の和服で、床に手をついて深々と頭を下げた女中。
「どうも、いらっしゃいませ。ご注文は、いかが致しましょ」
「牛鍋、特上ふたつ」
注文も自分でしてみたいのかもしれぬな、と、気を利かせ、最初は千鶴の様子を窺ったが、千鶴は注文するという慣れない行動に戸惑っているのがはっきりと見て取れたから、横から俺が注文した。
「はい。締めは、白米で宜しかったでしょか?」
身体ごと俺に向き直った女中は、まあ、その性質から言えばごく普通の提案だったが、一番高い白米を締めに勧めてきた。
節約する必要など全く無い程に金が有る以上、それでいいか、と、無言で頷くと、女中は小皺が目立ち始めた顔をにんまりとさせ、もう一度頭を下げた。
「しばらく、お待ちください」
頭を下げてから、膝で一歩分下がり、襖を開け、首だけを外へ出した女中は、牛鍋特上ふたつ、と、大声を張り上げてから、襖の中へ顔を引き入れ、再び戸を閉めた。
もしかしなくても、女中ではなく、この店の女将、か? 女将として見れば逆に歳がやや若い気もするが、注文の声の貫禄から察するに、多分、そうだろう。
「こちらへは、観光で?」
女将は、座敷から出ずに世間話を始めた。
千鶴は、そんな女将を軽く睨み、二人での話が出来ないのを不満そうにしている。
どっちも態度も全て予想の範疇だったから、俺は曖昧に笑って女将に答える。
「いえ、こっちの方で」
親指と人差し指で丸を作り、銭儲け、と、野卑な笑みを薄っすらと口の端に乗せる。
「へえ、そりゃまた大した事で」
大袈裟に相槌を打つ女将だったが、社交辞令なのは、それなりの洞察力があればすぐに見抜ける。
女将の方も、特に演技に熱は上げていないのか、そんな俺の冷静な目に臆する事無く、あくまで、人の良さそうな笑みという能面を向けてきた。
その様子に鼻を鳴らしてから語り続ける俺。
「欧州が焼けてきたおかげで、随分と最近は良い調子だね、どこもかしこも」
「へえ、へえ、そうですなぁ」
今度は心からの愛想の良い笑みで、その恩恵を充分に受けているという顔をした女将。
ま、この辺りの事情は、どこでも一緒だろう。軍需物資は勿論の事、盟友の英国では日用品まで高騰しているのだから輸出が増えないはずが無い。
と、ここで、強気を通しきっても、本来の目的は果たせないので、一瞬表情を変え、損はしたくないんだが、という少しの弱気を目に乗せ、俺はぼやくように言った。
「しかし、外国との商談だから、日数が掛かるのには難儀させられますな」
女将の表情が変わる。
食いついてきた、と、確信した時には、もうお決まりの質問が、投げ掛けられて来た。
「……逗留先はお決まりで?」
「いやぁ、ここには、帝都からまだ着いたばかりで」
なあ、と、千鶴に同意を求めれば、展開に置いて行かれがちだった千鶴は、慌てて頷いた。
ふ、と、軽く笑い、女将に合わせるように商売人の表情をして、ここからは、食事とは別の商談と、雰囲気を改める。
「予算は如何程?」
目の奥に強かさを出した女将が、値踏みするように俺と千鶴を見た。
含み笑いでその視線を受け流した俺は、相場よりもやや高い値を口にする。
「十四日で五円、食事は朝夕二回」
ここで更に吹っ掛けるようなら他所を当たる方が無難だし、安すぎる値は、安全も売る破目になる。
「ウチなら、四円で同じ条件を出せますが、いかが致しましょ?」
女将の提示した値段は、妥当だった。
彼方此方を巡るのは、俺と千鶴にとっては面が割れる危険が伴うから、一軒目で当たりを引けたのはありがたい。
しかし、ここで二つ返事で同意しても、それはそれで少しの不審があるので、部屋の質を上げる要求をした。
「……二人なのでね、八畳以上の部屋と風呂も手配出来るなら」
この程度なら、店構えから言って妥協点のはずだ。
案の定、女将が返事に掛かったのは、一分もしないほどの時間だった。
「毎度。前金でも?」
「勿論」
「――あ!」
財布を取り出す俺に、不意に千鶴が大きな声をあげたので……ああ、そういえば、アレが居たか、と、げんなりしながら千鶴の方を顎でしゃくって見せた。女将は、訝しげに千鶴の方へと顔を向けたが――。
千鶴が、あの錆猫を取り出すのを見て、思いっきり渋面を作った。
ふぅ、と、溜息を吐く。だから言わんこっちゃない。
千鶴を見るが、こういう視線には慣れていないのか、あの、とか、その、と唇を動かすばかりできちんとした説明のひとつも出来ては居ない。
「五円で頼めないか?」
盛大に溜息を吐く俺。
「まあ、裏には残飯を漁りに来る猫もおりますが……」
財布から五円金貨を出し、渋面の女将に手渡す。あまり流通していない高額硬貨だからか、女将はしげしげと金貨を検め――しっかりと握り締めた。
この場はこれでよしとするしかない、か。
目的の全てを終えたのか、女将は料理の様子を見てくるという名目で、部屋を出て行った。
大物でも小物でもなく、程々の肝っ玉女将、といったところだな、と、女将の態度から、凡その器の大きさを判じる。向こうも、おそらく、背広と立ち振る舞いから、凡その経歴――尤も、俺が偽装した方の、軍需物資を流す酒保商人という方のだが――、それを見抜いただろう。
それに、そこから、余り公にするのは好ましくない武器の取引という想像を……勝手にしただろうし、だからこそ、俺たちの事もあまり口外にはしないだろう。
全て、予定通りだ。
実地での交渉ごとは初めてだが、意外と楽なものだな。
尤も、十四日間を本当にここに居るかは、今後の船の手配次第ではあるが、まあ、余りが出たら迷惑両にして貰えれば良いか、と、金を惜しむ必要の無い状況なので気楽に考え、ずっと喋りたそうにしていた千鶴に俺は向き直った。
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