第三章:鍋屋
第1話
「鍋は嫌いか?」
条件に適う店は見つかったが、料理の内容までは予定通りとはいかずに、やや庶民風の店の暖簾を指差しながら俺は千鶴に尋ねた。
ただ、言い訳をさせて貰えるなら、昼を半刻も過ぎたせいか店は空いているようだったし、表通りと裏通りの両面に扉がある飲食店は、この近くには一軒だけだったという理由もある。
逃げている身である以上、逃走経路はきちんと確保して置きたい。
千鶴は、俺と目が合っても、きょとんとした顔のままだった。千鶴が胸に抱いている錆猫が、拾われたのにメシを与えられていないことへの抗議なのか、な~、と、鳴いて牛鍋屋の方に向かって前足を振っている。
猫の足を指で弾こうとしたが、千鶴に見咎められ、指を引っ込める。俺の手が下がったのを見計らい、千鶴が尋ね返してきた。
「鍋とは、どういうものだ?」
てっきり、そんな無粋なものは嫌だと騒ぐと思っていたので、千鶴の返事に最初は呆気に取られ、即答できなかった。
だが、しかし、上流の家では、そもそもが膳での食事だし、西洋かぶれの家だったなら――あの夜の夕餉の時のように、洋風の平皿に一品ずつ盛るのが当然の事だ。だから、鍋を知らないのも無理は無い事……なのか?
いや、それでも、最近の文学作品では牛鍋が出てくるものも多いので、知ってるような気がしないでもないのだが……。
「野菜と、魚もしくは肉を煮る一品料理だが……ふうむ、説明が難しいな。本は読まないか? 牛鍋の単語に聞き覚えは?」
鍋を説明出来なくはないのだが、調理方法から教えた所で、料理をしたことが無いであろう千鶴には味の想像は出来無いだろう。
しかも、上手い不味いは主観によるものなので、まだ会って一日しか経っていない千鶴の感性を俺が量る事は到底出来そうもなかった。
「本は古典しか与えられなかった。牛鍋の言葉も、良く知らん」
岩倉の家の事を思い出したのか、憤然と千鶴は言い切った。
「成程」
それならば別の店を探そうと、短い相槌で踵を返そうとした所、千鶴に裾を引かれた。
小首を傾げて見せれば、真顔の千鶴に尋ねられた。
「だが、お前は、その料理を不味いとは思わないのだろう?」
「ああ」
「ならば、ワタシが反対する理由はない」
初めて食べる料理に対する不安があるかと配慮したつもりだったのだが、千鶴はむしろ、少し食べてみたいので強引に誘え、とでも言うように、腕を掴んで引きながら俺を見た。
しかし――、なあ。
鍋は普通の家なら良く食べるもの――尤も、おそらくこの店で出すような内容ではなく、雑穀と玄米等の粥のようなものの方が一般的――ではあるが、だからこそ、古式ゆかしい膳、もしくは、時代の最先端の洋食を口にしてきた千鶴には、あまり好まれないような気がしている。
……そして、口に合わなければ合わないで、我侭を言い出し、面倒になりそうな気も。
「何事も経験だ! ワタシは、その為にここにいるのだからな」
躊躇する俺に、鼻息荒く千鶴が促す。
まあ、本人が良いといっているんだし、止める必要はないか。
そう判断した俺は、もう一度店の方へ足を向けようとして――、再び千鶴に裾を掴まれた。
まだ何かあるのか? と、視線を向ければ、尊大に手を突き出された。どうやら、左手が御留守なのを咎めているらしい。
「もう、道は空いているし、店は目の前だ」
努めて冷静に指摘しても、千鶴の不満そうな顔は変わらず、差し出された手もそのままだった。
「……鉄道でも言ったが、誤解はするなよ」
手を引いてやる前に、軽く嘆息して呆れたように告げると、千鶴はすぐさま反論してきた。
「誤解など、しておらぬ」
どうだか、と、呆れた顔で千鶴の左手を取ると、ふん、と、微かに鼻を鳴らした千鶴が、嘯く。
「ワタシは、心のままに動く、と、決めただけだ」
これまでとは少し違った返事に、少し驚いて視線を向ければ、お前もそうだろう? と、逆に千鶴に目で問い掛けられてしまった。
成程。
そういう事なら拒む理由は無い。
誤解や安易な結論で好意を寄せられる部分は相変わらず白けるが、本人が自由意志で気を惹こうと試行錯誤をするのなら、俺に止める権利は無い。俺が千鶴に唯一与えたものが自由である以上、それを制限するのは俺であってはならない。
ようやく千鶴も、多少は分かってきた、か?
とはいえ、それに応じる応じないは気分――俺自身の自由だし、そもそも俺は引っ掻き回すこと以外を舞台でするつもりはないので、中々に難しい話だとは思うがな。一緒に踊るよりは、裏で糸を引きたいのが俺なのだから。
手を取れば、千鶴がすぐさま訊ねてきた。
「源氏物語は知っているな?」
「ああ、さわり程度なら」
うむ、と、大きく頷いいて千鶴は続けた。
「光源氏が紫の上に惹かれたのだって、病の祈祷に行く際に偶然見かけたことが切っ掛けだったのだ」
「つまり……、お前は光源氏になったつもりで、年下の男を誑かしたいのか」
しれっとした顔で、勘違いしてやれば、千鶴は真っ赤な顔で詰め寄ってきた。
「なにをぬかすか!」
大声で怒鳴った千鶴を、はは、と、軽くからかう目で見据える。手頃な飯屋の前での痴情のもつれなんて、なんの肴にもなりはしない。誰の徳にもならない。
俺は半笑いのまま、激怒しているの千鶴の胸元を、指差した。
視線は刺々しかったが、店にいつまでも俺達が入らないので、飽きて眠りかけている猫を見て、すぐに目が和らいだ。が、次の瞬間、やはり怒っていたことは思い出したようで、さっきよりかは勢いをなくした顔と声で言い放った。
「当人達の知らない場所で、縁は天が結んでいるかも知れぬ、という話だ」
ふん、と鼻を鳴らし、俺は千鶴の話をそこで打ち切り――。
「猫を連れて行くなら、手荷物に紛れさせとけ。入る前に止められる」
店に入る前に命じれば、渋々と言った様子で千鶴は従った。
鳴かれれば拙いが、寝てる分には、まあ大丈夫だろう。座敷の方なら、暴れても取り押さえるのは難しくないだろうしな。
しかし――。
つんとした態度で、さも当然のように手を繋いで横を歩く千鶴を見ていると、少し可笑しくなる。
成人女性が、女童のように恋を語るのは見苦しいと思っていたが、想像よりは面白い展開になりそうだ。
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