第3話

 質屋を出た後、財布と口座には、これまで見た事も無い金額が入ってた。

 安くはない尉官級の年給でも、貯めるのに何十年、いや、何百年掛かるかも分からない額、だ。俺の実家も、維新後にそれなりに伸びた家だが、その全財産さえも、今手にした金額の半分にも満たないだろう。


 大金は、多少、気疲れする。

 そして、その額を聞いても、眉ひとつ動かさずに、金の管理を俺に丸投げした千鶴の度胸にも。

 多分、服も身の回りの物も店で選ぶのではなく、贔屓にしている店から合ったものを取り寄せる、もしくは店主を呼んで持参させたものの中から気に入ったものを選ぶと言う買い方をしているせいだ。基本的に、遣り取りされている金額――数字にさえ無頓着という身分なんだろう。

 高貴というか、世間知らずというか……。

「どうした?」

 俺の様子が気になったのか、千鶴が横から顔を覗き込んできた。

 五寸程の身長差による上目遣いの千鶴の視線が、俺を不思議そうに見詰めている。心なしか、千鶴の胸に抱かれている猫にさえからかわれているような気がして、俺は苦笑いで首を横に振った。

「……いや」

「うん?」

 言い淀んだのが気になったのか、千鶴が訝しげな視線を向けている。

 仕方なく、溜息を飲み込んでから、開き直る心境で俺は口を開けた。

「俺も地方のとはいえ、それなりの家の出だったのだが、まさか、あんな値段の宝飾品を――」

 少しの妬みも込めて、一息で言い切ろうとしたのだが、そこではたと気付くことがあり俺は言葉を詰まらせてしまった。

「どうした?」

 言葉を止めた俺を、心配そうに見詰める千鶴。

 千鶴のその表情も込みで少しの苦さを感じてはいたが、それでも訊いておくべきだと俺は思ったので、失敗を誤魔化す事無くはっきりと尋ねた。

「思い入れとかは、無かったのか?」

 金に換えた後で訊く事ではなかったかもしれないが、見積もりをして貰っている際に、千鶴が何も言わなかったから、俺も全てを手放すつもりだったのかを確認する事を忘れていた。

 思い出の品が、混じっていたかもしれない。

 しかし、それはどうやら杞憂だったようで、言われて始めてそれに気付いたような口振りで千鶴は答えた。

「……ああ。気にする――フハハ」

 気にするな、というつもりだったんだろうけど、いきなり大口を開けて、笑い出した千鶴。

「何だ?」

 笑われる理由が分からなかったので、訝しむ視線を向けると、可笑しくて堪らないといった様子の千鶴が、目尻を拭いながら言った。

「お前も、人並みに……というか、存外に繊細な性質だったのだな」

 からかわれたのだという事は分かっている。だが、それにムキになって言い返すのは大人気ない気がしていたし、そもそも、発端の余計な事を訊いたのは自分だ。

 諦めるように嘆息して、投げ遣りに俺は告げる。

「良かったな」

「何が、良かったのだ? お前は、繊細といわれて喜ぶのか?」

 心底楽しそうな顔をした千鶴が、俺の目を覗き込む。

 ようやく主導権を握れたのだ、と、勘違いでもしたのだろう。自分の有利を確信した勝気な笑みが目の前に迫って来ていた。


 千鶴の甘さに苦笑いで応じ、口を開く俺。

「その事ではない」

「うん?」

 やんわりと首を振る俺に、小首を傾げた千鶴。

 フ、と、今度は皮肉屋の笑みを浮かべ、俺は逆に千鶴を茶化すように、口の端を人差し指で軽くつつき、淑女なら笑い方も気をつけないとな、と、言外に含ませながら言った。

「夢のひとつは叶っただろう? 立派に大口を開けて笑っていたぞ」

 指摘されて、一瞬、きょとんとした顔になった千鶴は、感心しつつも呆れたような声で訊き返して来た。

「……そんな事まで覚えているのか?」

 千鶴の思い掛けない反撃に、つい、ぶっきらぼうに返してしまう。

「昨日の事だ」

「だが、他のことも全て覚えていてくれるんだろう?」

 その通りだったから、俺は返事をしなかった。

 千鶴の方は、あくまで他意が無い調子で尋ねてくるから、余計に性質が悪い。

 ……覚えているという事は、千鶴が俺の中で特別だという事には繋がらない。単に、記憶力と洞察力の問題だからだ。

 この程度、陸士に入る能力がある人間なら、誰もが普通に出来て当然の範囲の事だ。


「弓弦、ありがとう」

 視線にこれまでとは別種の暖かみを込め、千鶴がはにかむ。

 俺について、理解の乏しい千鶴は、やはりここでも自分にとって都合の良い方向に解釈したらしい。

 呆れたように見詰め返しても、千鶴はその考えを訂正する気はないようだ。

 だから俺は、無言のまま、次の目的地である料亭を探して歩き出す事を、返事の代わりとした。

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