第四章:仮宿
第1話
「お部屋、二階のすぐ右となります」
食事を終え支払いを済ませると、先程の女将が奥の厨房から出て来て、俺達に向かってそう言った。
しかし、その階段は何所だ? と、首を傾げながら辺りを見渡せば、女将が指先で――厨房の暖簾と、勘定台の間の隙間を指差した。
好都合ではあるが……随分と目立たない場所にあるんだな。
しかも、一人ずつしか上がれない幅だ。
襲撃者対策には、これ以上ないくらいの好条件だった。
となれば――。
……そうだな、時間はまだ大分早いが、一度部屋を改め、少し休んだほうが良いかもしれない。俺なら二~三日なら、全く休まずとも動き続けていられるが、千鶴の方はそうはいかないだろうし。
そう判断し顔を横に向けると――。すぐに休む、という展開を予想していたのか、千鶴の左手が目の前に差し出された。
薄く目を閉じ、問答を拒否するように口も閉ざして澄まし顔の千鶴。
まあ、この場合は、受けない方が不自然だし、乗ってやろう。
手を取った瞬間、仲がよろしい事で、というひやかしの笑みを向けられたが、俺は特に表情を変えずに千鶴の手を引いて二階へと上がろうとした。
その時、はたと、何かに気付いた様子の女将から声を掛けられた。
「其方様、何とお呼び致しましょ?」
「俺はクスシ……ああ、薬の師匠で、薬師だ。それでいい。コイツは、千鶴だ」
一応、俺の方は偽の苗字で、千鶴はそのまま本名を告げた。自分の下の名を言わなかったのは、偽装の意味もあるし……そもそも、千鶴が俺を呼ぶ際には、おそらく下の名なのだろうと推察したからでもある。
苗字は、まあ、嫁ぎたてと言えば、多少は間違えても誤魔化せるだろう。
「はい、薬師御夫婦様ですね」
男の嫉妬という部分も考慮しての言動か、千鶴の名を改めて確認する事無く、女将は料金分の愛想で、俺と千鶴を見送った。
やれやれ、と、視線を天井へ向けながら首を斜に傾け、生暖かい視線を茶化してから俺は階上へと逃れる。
だが、階段の半分まで上がった所で、千鶴の様子がおかしいのに気付き、ふと立ち止まった。
黙々とついては来ているが、足取りに力を感じない。
耳を澄まして軽く辺りを探ってみる。二階に人の気配は無く、階下も夕餉に訪れる客の準備に忙しいのか、俺達を気にしている気配はない。
部屋まで行かずとも、これなら少しは時間を取れる、か。
「どうした?」
振り返り尋ねると、狭い階段の二段を挟み、俺と千鶴の視線が真正面からぶつかった。
質屋の時と同じになったなと思いながら、電車の際に訊きそびれた、夫婦という単語に千鶴が思う所を探るには良い機会か、とも思い、少し話してみる事にする。
「いや……お前が、ワタシの名を呼んだのは……初めてだろう? そういうことだ」
憮然とした顔で千鶴が言ったので、俺がその名を呼んだのが気に食わなかったのだと、すぐに察した。
しかし、家の事もあるだろうし、岩倉と呼ばれるのは嫌かとも思って気を利かせたつもりだったのだが……。
いや、もっと根本的に、呼び捨てだから気を悪くしたのか?
まったく、敬称付きで呼ばれる尊大な人間は、これだから。
「ああ、慣れない偽名では、かえって拙い場合も有るしな。……しかし、岩倉と呼ばれたいのか?」
それなら、別に俺の方は呼び名など幾らでも適応出来るので、今後名乗る場合には岩倉夫婦としても構わない、という雰囲気で、俺は最初の推論の確認をしてみた。
もし、これに同意しなければ、問題としているのは敬称の方なんだろうが、夫婦でさん付けなども出来ぬし、そこは、我慢させるしかない。
「そういう意味では無い」
憮然とした顔のままで、千鶴は――先程よりは、声に不満を滲ませて答えた。
なら敬称の方かと、早合点しそうになった所、千鶴がもう一言を付け加えた。
「悪くない、耳心地、だったと……言っておるのだ」
意外な返答に吃驚して、まじまじと千鶴を見れば、千鶴はようやく普通に照れた反応を示した。
……どうやら千鶴は、嬉しさから照れると、不機嫌に見える態度を取るらしい。
随分と変わった習性だな。
「そうか」
謎が解けた俺は、再び歩き始めようとして――千鶴に呼び止められた。
「それだけか?」
振り返る顔に浴びせ掛けられたのは、疑問の形を取った千鶴からの要求。
「ああ……尤も、そう言う千鶴も、俺の名を呼んだのは二~三回だけだろう?」
特に甘やかす理由も無かったので、俺は単なる事実を伝えて誤魔化す。
「それは……その」
「ん?」
図星を指摘されたからか、言い難そうにしている千鶴に、意地悪く追求する顔を近付ける。
間合いが五寸を切った所で、逆上したように千鶴が小さく叫んだ。
「は、恥ずかしいし、悔しいじゃないか!」
悔しい?
恥ずかしいは、理解出来ない事も無いが、悔しいと言われた理由に首を傾げると、千鶴は開き直ったのか、そんな俺に向かって理由までも披露した。
「お前は、ワタシをワタシと同じように想ってくれていないのに、ワタシだけが名前を呼ぶ度に、意識しているのでは」
「成程……なら無理強いはしまい」
さっきよりはやや冷めた目で返した俺は、千鶴が話したい事は概ね済んだようなので、再び踵を返して階段を上がり始める。
基本、千鶴の好きにはさせるつもりだが、それは俺自身も同じで、俺は俺が好きなようにしか動く気は無い。
そして俺は、はっきり言って、千鶴を娯楽以上の意味で見ていない。
つまり、返答で暗に示したのは、そういう事だ。
「食えん男だ」
微かに背後から千鶴がぼやくのが聞こえたが、俺はそれが聞こえなかった振りをして、二階に上がって最初の右手の襖を開けた。
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