第4話
一拍間を空け、思考の続き――これまでの情報の整理と、今後の予測をする。
この女の性格、嗜好、行動傾向、学力……。
……ふふん。
「さぁ?」
無責任な夢を語る彼女と同じくらいの無責任さで、真剣な視線をはぐらかす。
これで俺が味方になると確信していたのか、甘さと思い込みで肩透かしを食った格好になった彼女は、目を瞬かせて、呆気に取られた顔で俺を見た。
ふん、と、鼻で笑い、口には酷薄な笑みを浮かべ、俺は事実のみを突きつける。
「ただ、いずれの夢も、このままここに居られたら叶わないでしょうね」
逃げるか残るか、そのどちらかが正解、という問題ではないのだ、コレは。
あくまで可能性の問題。
確率で言うなれば、婚約直後に相手が死んで自由となり、今度こそ本当の恋が出来る可能性も、零ではないのだ。それどころか、逃げたとして、恋はおろか、人並みの生活すら出来ない可能性も――尤も、俺自身の能力を鑑みるに、相当に低い可能性だという自負はあるが――あるのだ。
だから、俺は唆すだけ。
選ぶのは彼女。
責任? そんなものを俺が引っ被る程、俺はこの女に思い入れがあるわけでは無い。
ギリシア哲学でもないが、ただ生きるだけなら今の俺に不足は無い。だが、それ以上が無い。他の連中のように女や酒で現を抜かせられれば良かったんだろうが、どうも俺の魂はそうはできていなかった。
どこでもいい。飾り立てられた舞踏場でも、軍港の端の貧民街でも、人生の喧騒と混沌、複雑に絡み合った情念の結末を見届けたい。どんな場面だろうが、俺なら切り抜けられる、それを試したい。それを楽しみたい。
そして。
他人と同じく、
顎を突き出すようにして、ニヤリと笑えば……。
「上等だ!」
俺の問いに対する答えを叫んだ彼女の目には、もう力が漲っている。
現金なことだ。楽な道ではないだろうに、幼子の寝物語の女傑にでもなった気分なのかもしれない。
「ワタシは、逃げる。ただ、その術を持たぬ」
だから、お前が――と、続く誓いをねだるように、少しだけ弱気な目で俺を見詰めてくる彼女。
「始めてしまえば、もう戻れませんよ?」
明確な約束は口にせず、からかうように最後の確認の言葉を投げかけた途端、パンと、頬を打たれた。
響く乾いた音に、不満を隠さない視線で見詰め返すと、涙でくしゃくしゃになった顔で笑いながら彼女は言った。
「お前に尋ねられた瞬間に、覚悟ならしていた」
何の覚悟だ? と、疑問には思ったが、それを尋ねる前に彼女は答えを告げた。
「コイツは、ワタシを破滅させるとな。だから、本心を告げると決めたのだ。……お前だけに」
随分な評価ではあるが、間違ってはいないか。
俺が笑い飛ばすと同時に、彼女は俺に何かを告げようとして――不意に悩み始め、一拍の後に、問い掛けてきた。
「お前、名はなんというんだ?」
…………。
そういえば、お互いに名前を知らぬままだった。子爵も大佐も特に彼女を俺に詳しく紹介しなかったし、彼女の方としても、婚約者が居る身で他の男の話などは訊けなかったのだろう。
もう共犯者となったのだから、丁寧な受け答えは不要と判断して、素の口調で俺は言った。
「薬袋 弓弦だ。薬の袋でみない、弓の弦で、ゆづる」
「ワタシは
俺が名乗ると、彼女――岩倉 千鶴は、はんなりと微笑んだ。
たかが名前が似ているだけでこんなにも無邪気な顔をするのには、少し驚いた。
多分、古い教育の賜物なんだろう。純粋さと、どす黒い愛憎が同居しているのは。
――それで、どうする? と、千鶴が小首を傾げたので、俺は小さく頷いた。
「簡単に荷物をまとめて落ち合おう。外へは出れるか?」
もし、屋敷の外へ出る手段がないとなれば、それなりに派手な脱走になってしまう。後の事を考えるなら、出来る限り穏便に事を謀りたい所だ。
幾つかの可能性を検討しながら千鶴の様子を窺うと、意外な事に、千鶴は力強く頷いた。
心配は杞憂に終わったようだが、それに越したことはない。
まあ、手引きを頼めるだけの信頼の置ける下女のひとりふたりは居るという事だろう。もしくは、書生に握らせる金の工面が出来ているというだけの事かも知れないが。
「家の東、煉瓦橋で落ち合うぞ。……そういうお前は、どうやってここまで忍び込んだ? 外へは出れるのか?」
勝手に集合場所を決め、不要な気遣いも見せた千鶴。
右手を軽く挙げ、心配無用と伝え、千鶴の目を覗きこむ。
何の保証書もないのに、既に信頼しきっている瞳が俺を映していた。
一呼吸の後、頷き合い、俺と千鶴は背中を向け歩き出した。
其々の準備の為。
ふと、連隊長はこうした思惑もあって俺をここに連れてきたのではないかと言う考えが一瞬過ぎったが、その可能性を推察するには、まだ判断材料が少ない。
そもそも、あの切れ者で食わせ者の大佐が、肉親の情で動くわけがない。となれば、千鶴と俺の行動から、なんらかの実利を得ようとする筈だが……それは何だ?
千鶴の気配が、感知出来ない距離に離れたのを見計らって、俺は思考を止め天を仰ぐ。
痩せた三日月が、薄ら笑う暗い空。
実の所、俺はまだどうするかを決めてはいない。悪くはない……悪くはないんだが、千鶴にもう一歩の人間としての厚みが欲しかったというのが本音となる。子爵と大佐の中間地点ぐらいの人間なんだよな。善かれ悪しかれ。
複雑に絡まった情念と、整った顔立ち、無知故の行動力。
上手くいけば、それなりの物語に立ち会えるだろう。そしてそれは、俺自身をも変えるかもしれない。
俺は、こういうのは好きだ。
複雑に凝った感情は、貴賎の区別無しに、混沌としていて……、思い掛けない真実を孕んでいる。食うに困らないだけの人生なんて、死んでないだけの人生だ。死ぬような目にあうのなら、むしろ本望。遊びは命を懸けてこそ、だ。
ただそれも、演じ切る
千鶴が、その身の内の激情の果てに至れる確率は、五分五分というのが俺の見立てだった。
微かに溜息をつく。
考える必要はもうなかった。
理詰めの結論は出ている。理詰めで結論が出ないという結論が。
ま、困った時には、銭に聞くのが一番、だな。こいつが、今の所世界で一番公正だ。
最後の一歩を運に任せる事に決め、財布から五十銭銀貨を取り出し、ひと眺めする。空へ投げた銀貨が表なら千鶴と逃げてやる、ただ、裏が出たなら大佐に連絡して彼女の身柄を確保して貰い、もうしばらくは忠実な帝国軍人となる。
怪しく暗く、夜に輝く銀貨。
出るのは鬼か蛇か。
運命の輪を回すように軽く夜空へ放れば、竜をあしらった五十銭銀貨は歯車のようにクルクルと廻り、一度だけ月影に煌き、ふわりと俺の手の中へと堕ちて来た――。
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