第2話

 一呼吸分の間を空けて、俺は答える。

「小官は、軍を抜けるわけには参りませぬ」

 帝国軍人。まして士官ともなれば、それなりの地位が保証されている。だからこそ、それにふさわしくない振る舞いに対する懲罰は厳しいものになる。

 違反者にはもちろんのこと、その家族に対しても。

 尤も、俺の場合は、元は妾腹なので、正妻の死後に嫡男になった程度の家に対して義理も何も感じてはいないが。

 ただ、まあ、世間一般では家族の重さは己の命と同等かそれに次ほどの価値があるそうだし、それを踏まえた上で、この女が何と命じるのかには少し興味があった。

「ワタシを助けろ」

 声に力はなかったが、それでもまだ彼女は同じ事を欲求していた。

 無知なのか傲慢なのかは判断に迷うが、決して聡明ではないことは分かった。

 どうやらこの女は、責任という言葉とは無縁らしい。

「小官は、その術を持ちません」

 少尉の官位は低くはないが、それは一般人と比べた場合であり、“新華族”の婚姻に対して口出し出来る身分じゃない。

 具体性を欠いて発せられた『助けろ』の意味を、敢えて、強引な手段ではなく、穏便な手段での口添えと受け取り、白々しい顔で恐れ多いこと、と、伝えてみる。

「ワタシを助けろ!」

 先程よりも強い口調で言った彼女。

 言外に、手段の方向性をも響かせる声。

「なりません」

 肩を竦めて見せ、子供をあやすような顔をする。


 今はまだ、ひとつひとつの刺激に対して、彼女がどう反応するのかを確認している最中。実験動物に対して、同情や共感などない。表情、台詞はもちろんのこと、声、仕草、ちょっとした癖、そうした彼女の心の欠片を慎重に拾い上げ、思考を組み立てる。

 彼女が演じれる人生が、安く、どこにでもある台本と同じような舞台なら、上がってやる気はない。他でもっとおかしくて面白いヤツを探せば良いだけだ。


「ワタシを連れて逃げろと命令している」

「命令なら、従えませぬ」

「何故だ! 貴様とて士官として兄の連隊に来たんだろう、官姓名の暗唱すら出来ぬのか! 帝に近い者の言は、それこそが上意だ」

「なればこそ、貴女のご命令には従えないと申し上げているのです」

 彼女自身、自分の論理が破綻していると分かっていたのか、一言諭すと、案外すんなりと肩を落として口を噤んだ。

 微かに短く歯軋りの音がしたが、それも直ぐに止んだ。

「……どうすれば、ワタシを救ってくれるんだ? お前は」

 絶望に捕らえられながらも、それでも尚、救いを求めて縋るように、目を細めて俺をまっすぐに見詰めた彼女。

 夜の色の大きな瞳。

 突き放すだけなら、何故声を掛けたんだ? と、その目が尋ねていた。


 正直な所――。彼女には悪いが、俺には救うつもりも、堕とすつもりもなかった。

 そもそも、今日はそれほど特別な日ではなかったし、この岩倉邸へ赴いたのは上官の岩倉大佐に連れられてのことで、間違っても彼女のためではない。

 陸軍士官学校を卒業して初めての、水無月の終わりの今日この日。

 少尉への正式な任官も含め、配属の雑務を全て片付け終えた、いわば最後の面通しとして連隊長の岩倉大佐の実家に呼ばれたのが昼のことだった。

 他の新米少尉は誰も呼ばれていない。

 議会へのコネのある岩倉子爵家に呼ばれたということは、端的に言うなら出世コースに乗ったということだ。

 彼女に会ったのは、夕餉の前に洋館へ入った時の事だった。

 現当主の岩倉子爵に案内されるがまま敷地を巡り、庭の造形や、日本の気候では維持する金も馬鹿にならない洋風の植物園などに大袈裟に驚いてみせながら、ついでに、充分にお世辞を言ってやり――尤も、次期当主の岩倉大佐にはお見通しだったようで、薄く笑われてしまったが――、最後のお勤めとして食事を共にすれば、明日からはまた連隊勤務となる。

 その筈であったし、それが変わる可能性は、少なくともこの時点では皆無だった。


 洋風の食堂へと通される途中で、彼女と擦れ違った。

 岩倉子爵は、立ち止まりもせずに横を抜け、その際に末娘と独り言のように呟いていた。ついさっきまで、上機嫌に石灯籠を自慢していたのとは、真逆の声で。

 子爵よりはむしろ大佐に近い雰囲気と容貌の女性というのが俺が彼女に持った第一印象。

 鼻は少し低いが、大きな目も、艶やかで長い黒髪も、透けそうなほど白い肌も、間違いなく美人と呼ばれる部類だった。

 夕餉を一緒するのかと思ったが、どうやらそういう意図はなく、単に部屋に帰る際に擦れ違っただけらしい。男の来客との接触を避ける辺り、婚約者が居るのは容易に想像出来たが――。


 一瞬見えた表情の中、岩倉子爵を見る彼女は面白い目付きをしていた。

 多分、それで、魔が差した。

 子爵の、急に不機嫌になった態度もそれを後押しさせた。

 とはいえ、俺が発したのは、だだ、一言だけ。

 優雅に微笑む顔の内側にある、ギラギラしたどす黒い感情に興味を惹かれ、今のままでよろしいのですか? と、擦れ違い様に、聞こえなければそれでかまわないぐらいの声で、俺は囁きかけたのだ。

 その時の彼女は、特に態度に変化がなかったので肩透かしされた気にはなったが、夕餉の間にはもう忘れていた。


 ちょっとした悪戯その程度のことだった。

 だが、彼女にとっては、夕飯の味程度で忘れる程度の出来事ではなかったらしい。

 屋敷を出る時に下女に渡られた手紙には、時間と場所だけが指定されていた。


 迷いはあまりなかった。

 とはいえ、期待も。

 これがどういった罠であったとしても、上手く切り抜ける自信があったから。もし切り抜けられなければ、所詮俺がその程度だったって話だし、それはそれで得難く面白い事になる。

 まあ、要は退屈しのぎだ。

 学力があり、運動も出来たから陸軍士官学校へ入った。

 存外つまらない時間を過ごしたが、まあ、初任給は悪くなかったな。

 そして、そこで満足してしまった。出世コースに乗りはしたものの……いや、だからこそ、これから先の人生――幾つの時にどの階級に叙されるか、幾らの金が入り、どんなことが出来るのか――は、もう決まってしまっている。連隊での任務には能力を持て余していて、このままあの場所にいても、これ以上のお楽しみは無さそうだった。

 だから、元々、隙を見て次を探す予定ではあったが……。

 まさかこんなに早く楽しめそうな事件が転がってくるとは思っても見なかった。

 まあ、まだこの女が鐚銭なのか奇貨なのか、目利き出来ていないんだがな。

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