夜の庭園 カクヨム改稿版

一条 灯夜

序章:夜の庭園にて

第1話

 帝都の家々の明かりも、とおりに並んだガス灯もとうに消えている。

 夜は、あまねく全てに満ちていた。

 東京界隈の一等地にある広く瀟洒しょうしゃなこの洋館においてさえ、白亜の壁は夜に沈み闇と見分けが付かず、煌びやかな噴水の水も止まり、人や動物の気配は限りなく希薄で、世界の全てが夢の中にあるように感じさせていた。

 今、立っているこの薔薇の園も、昼には目に毒な程鮮やかだったのに、月明かりでは花の色までははっきりと見て取れない。

 ただ、むせ返るような強く甘い香りが、その存在を激しく主張していた。


「ワタシを、助けろ!」


 窓の灯りも全て消えた夜の屋敷の中心の庭園で、彼女は鳴いていた。能面のような強く凛々しい表情をずっと張りつけていた女性が、声を嗄らして叫んでいる。

 声を嗄らして尚、血を吐くように。

 誰にも届けられなかった、心の全てを夜空へ響かせている。


 人はおかしくなる。

 置かれた環境であったり、愛憎であったり、あるいは幾ばくかの金であったり……。理由は様々だが、自らの才覚、力量や努力ではとうてい越えられない壁を前に、絶望し、狂う。

 ――それが可笑おかしいのだ。


 正直な話、一度落ちてどんな場所でも生きていく手段があることにさえ気付けば、いちいち狂うほどの感情の昂りも不要だと気付けると思うんだが……。

 なぜ、他人にはそんな熱量が身の内にあるのだろうか?

 なぜ、そんな無駄で非合理な機能が人体に備わっているのか?

 おかしくなっている時、他人はどんな感覚で、どんな感情で、どういった思考なんだろう?

 自分自身の中には感じられないその激情が興味深おかしい。だから他人ひとに惹かれるのだ。


 力無い拳が、なにも答えない俺の胸を叩いた。

 昼の凛とした姿は、もうそこには一欠も残ってはいなかった。

 長い黒髪を乱れるに任せ、のままの感情をぶつけてくる姿には、最早貴人としての振る舞いは無く、駄々を捏ねる子供のような未熟さと幼さと、そして、歳相応の悲観が混じっていた。

「熟慮なされませ。この夜が明けましたら、お気持ちも――」

「ふざけるな!」

 無難な言葉を選んでも一言の元に拒絶され、意図的に被っていた無表情という能面が危うく崩れるところだった。

 どうにも面白いことになったものだ、と、心の中だけで皮肉げな笑みを微かに口の端に浮かべ、斜に構える心とは裏腹に、真面目な軍人としての態度で上官の妹と向き合う。

「女――それも、子供の世迷言と思っているのか? 明日には、気が変わっているとでも? ふざけるなよ……。全部、ゼンブ、貴様のせいじゃないか」

 俺を睨みつける目には、殺意と呼んでも遜色ないほどの憎悪の炎が宿っていた。

 はっきり言って、それを向ける相手が違うとは思うのだが……。いや、憎む相手に強く出れない弱い人間だから、八つ当たり出来る相手に対しては強気に出れるんだろうな。維新後に“新華族”なんて称されているのにもかかわらず、中身は随分と屈折しているようだ。まあ、中身は所詮お上りさんの田舎者ってことだろ。動乱で良い汁が吸えたってだけで、は俺ともそう変わらん。

 ふふん、と、鼻で笑ってから、俺は本来の傲岸不遜の素顔を表す。


 注目していたのは、上官の妹という身分だけで、大した中身のある女だとは思わなかったが、刺すような視線は悪くない。

「その通りです」

「いけしゃあしゃあと」

 本性の欠片を出し始めた俺に向かって、彼女は吐き捨てるように言った。

 だから、今度は軍人としての無味乾燥の態度を改め、慇懃無礼をそのまま表したような態度で事実を告げる。

「ですが、小官はお尋ね申し上げただけでございます」

「あぁ、そうだろうよ。貴様は、訊いてしまったんだ。訊かれなければ、ワタシは迷うことなんてなかったのだ、なにひとつとして!」

 払うように右腕を大きく振って、彼女は叫び続ける。

「十も年上の醜悪で高慢ちきな文官風情に嫁いでやることも! 目先の小利しか追えないような愚昧な両親も! ワタシの自由が、そんな奴等の決めた枠の中だけだってことも! これが貴族のしきたりで、誰もが枠の中で生きているのだと思い込めていたのだ! 大きくなったお家の責務だと――ッ……」

 叫び続けて声が枯れたのか、短く咳き込み言葉を区切った彼女。

振った右手を心の奥の闇を捕まえるようにきつく握り締め、肩を震わせている。

「本当は、……ホントウは! そう思い込もうと必死で自分自身に言い聞かせ――、全てが自己欺瞞だと気付いていたという事も」

 顔を俯かせた最後の声は、儚く細く夜に消えていった。

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