茶色い海と白い船
幸せから不幸に転じる瞬間というのはどうしてこうも絶望的なのだろう、「最悪だ」そう呟きながら私は床に広がる茶色い液体を見下ろした。私はただ、寝る前にココアを飲もうと思っただけなのに、どうして、いったい何が悪かったというのだろう。いやどう考えても不注意でこぼしたので悪いのは私です、はい。牛乳を温めてココアの粉を取り出して、今日はちょっと濃いめに作ろうなんて考えながらレンジのカウントダウンを眺めていた時はまさかこんな悲惨な事件が起きるなんて想像もしていなかった。何につまずいたわけでもなく外的要因もなしに体のバランスが崩れて、転びこそしなかったもののお気に入りのオレンジのマグカップは80度ほど傾いて中になみなみと入っていたココアは宙を舞い、そして地面にはじけた。ココアも別に投身自殺したかったわけではないだろうに、美味しく飲むことができなかった自分が恥ずかしいし悔しい、口惜しい。覆ココアマグカップに返らず、もはや広がるココアを助けるすべはない。ふきんでふこうとキッチンに戻って、布巾が真っ白の新品だったのでもったいないなあと思いつつ冷たい水道水で濡らして固く絞る。痛いほど冷たいっていうか普通に手が痛いんだけどお湯を出すほどではない、という貧乏学生の哀しみを抱えながら事件現場に赴く。5歩で到着したココアの海になげやりにべしゃっと布巾を投げる。しゃがみこんで、バランスを崩しそうになったので膝をついて、布巾で吸い取るようにしてココアをぬぐう。茶色い領海が半分消えたところで布巾を絞りにキッチンに戻る。下水へと流れていくココアにごめんよと謝りながら軽く水で布巾をすすぐ。残りの半分も吸い取って、絞って、最後に固く絞った布巾で現場の証拠をすべて消す。これで完璧元通り、と思ってマグカップを回収するとマグカップから垂れた分がデスクに残ってしまっていた。こういう証拠を探偵は見逃さないで犯人は捕まるんだな、とデスクの上もきれいにして証拠隠滅、マグカップに残った冷めかけのココアをごくりと飲む。ココアの甘さはわずかな幸福を授けてくれてさっきまでマイナスだった感情のメーターがゼロを示す正位置に戻る。マグカップをシンクの鍋の中に漬けて、今日はもう寝ようとベッドにもぐりこむ。
リモコンで電気を消して、エアコンを切ってスマホのアラームをセットする。冷めたココアが胃の中でわずかに存在感を放ち、布団のあたたかさと対比する。ゆっくりと呼吸を整えて頭の中を空っぽに、いや、あったかいココアでいっぱいにしよう。甘く温かい夢が見られるように。
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